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下山事件を読む 第1章 時代背景

 下山事件を題材にした本を読みながら、ひとつ思ったことがある。それは、事件当時の時代背景を十分に認識し当時の雰囲気をよく掴んだ上で読み進めなければ、結局のところ下山事件のことを正しく理解できないということだ。「理解」と言っても、今まで多くの人が挑戦しているにも拘わらず未だ事実が明らかにされていないこの大事件を、私ごときの人間が完全に理解することは不可能であることは承知している。しかし、“おぼろげながら”でも事件の全体像を把握するためには、やはり、その当時の歴史的な出来事を理解しておくべきだろう。

緊迫化する東アジア情勢

 1947年(昭和22年)3月、ハリー・トルーマン(米国大統領)は、ソ連を中心とした共産圏を敵視する姿勢を鮮明に示し、共産圏封じ込め政策を世界戦略として行うことを宣言した(トルーマン・ドクトリン)。

 この時期、米国政府と連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の間では世界戦略に関して齟齬が生じていたようである。トルーマンは朝鮮半島からの米軍の早期撤退を望んでいた。ダグラス・マッカーサー(連合国最高司令官)も最初は同様に考えていたが、朝鮮半島が緊迫化するにつれて考えを改めていった。対共産圏の世界戦略において、トルーマンはアジアより欧州を重視する考えを持っていた。すなわち、欧州の兵力を増強しアジアの兵力を後退させる方針をとった。これに対して、マッカーサーは欧州とアジアの兵力を均衡させることを求め、アジアでは現状よりも兵力を増強することを望んだ。朝鮮半島が有事となれば膨大な兵力が必要になることを知っていたからである。とはいえ、1949年3月にマッカーサーが新聞記者の取材に応じたときは、彼が考える防衛線ラインの内側にはまだ韓国と台湾が入っていなかったようである。

 1946年(昭和21年)6月、中国大陸では第二次国共内戦が勃発した。1949年秋以降に毛沢東(中国共産党中央委員会主席)が率いる中国人民解放軍は怒涛の攻撃を仕掛け、その勝利を決定的なものにし、同年12月、蔣介石(中華民国総統)が率いる中華民国国軍(1947年に「国民革命軍」を改称)は台湾に敗走した。
 1950年2月には中ソ友好同盟相互援助条約が調印され、同条約では仮想敵国を「日本または日本の同盟国」と規定したことにより、マッカーサーも危機感を強め、戦時臨戦態勢に向けて本腰を入れることになる。
 朝鮮半島では資本主義陣営の大韓民国(韓国)と共産主義陣営の朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が北緯38度線を境に緊張状態にあった。そして、ついに1950年6月25日に朝鮮戦争が勃発した。これにより在日米軍を朝鮮半島に出動させることとなったが、その結果、日本において防衛面で空白ができてしまうことになる。そこで、マッカーサーは日本政府(吉田茂首相)に7万5千人規模の準軍事組織の創設を要望する。その要望に応える形で同年8月には警察予備隊令が公布・施行され、警察予備隊という名の準軍事組織が創設された。
 このような国際情勢のなか、戦後日本で占領政策を実施してきたGHQは、それまでの民主化(容共)・非軍事化から反共産主義(反共)・再軍備へと対日政策方針を転換した。また、共産圏、とりわけソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)との戦争も見据えて、日本列島を「反共防壁」として位置づけ、陰に陽に日本国民の反共意識を高めつつ、官公庁や民間企業に在籍する日本共産党員やその支持者(シンパ)の解雇(レッド・パージ)を本格化していった。
 
 下山事件は、東アジアにおける激動の最中に起こったのである。

米国政府が主導した日本の経済復興

 1948年(昭和23年)12月、米国政府はGHQを通じて日本政府(吉田茂首相)に経済安定九原則を指令した。この九原則は、インフレーションを抑制し、日本経済の安定化・自立化を目的とするものであった。翌年2月、米国政府は、経済安定九原則に基づく政策を実施するため、ジョゼフ・ドッジ(デトロイト銀行頭取)を日本に派遣した。彼が主導して金融引き締め政策や財政健全化政策(ドッジ・ライン)を実行した。ドッジ・ラインはインフレ収束や財政の黒字化に貢献したが、その一方で深刻な不況をもたらした。
 米国政府主導での経済再生計画の一環として、日本の鉄道事業についても経営の合理化が求められた。戦後、復員兵や海外引揚者の雇用を行ったことにより職員数が増大したことなどが原因で、鉄道事業を所管していた運輸省の財政は極度に悪化していた。このような状況を打開すべく、行政機関職員定員法が1949年5月末に国会を通過した。この法律を根拠として国鉄は9万5千人の人員削減を行う必要に迫られることになる。同年6月1日に発足したばかりの日本国有鉄道(国鉄)は大規模な経営合理化からスタートする運命にあったのだ。
 以下の文章を読めば、戦前から戦後にかけて国鉄の職員数が膨大に膨れ上がってきたことがわかる。

国有鉄道では、日華事変以後、戦争遂行のために女子、年少労働者の雇用が増大し、昭和19年には、職員数は11年の約2倍の45万 5,000 人に達していた。その後、終戦とともに軍召集者・引揚者の増加や戦災復興への着手等の業務のための新規採用もあって職員数は、さらに増大し、22年度には61万人にも達した。このような状況のもとで、24年7月、行政機関職員定員法に基づく国鉄職員9万 5,000人という大規模な人員整理が実施された。

出典 国土交通省『日本鉄道史』

(つづく)

参考文献
森詠 著『黒の機関』祥伝社文庫(2008年)

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