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下山事件を読む 第4章 難航する国鉄総裁人事

日本国有鉄道の発足

 鉄道テロが続発するなか、1949年(昭和24年)6月1日に発足した日本国有鉄道(国鉄)は、運輸省鉄道総局が行っていた国営の鉄道事業を引き継ぎ、新たに独立採算制を採用した日本初の公共企業体として発足した。初代総裁は、前回失敗している鉄道事業の大規模人員削減を行うことが既定路線であった。当然、この厄介な仕事を引き受けることになる初代総裁の人選は難航した。初代総裁が経営の合理化を実行するだけの臨時総裁として見られていたことも、就任を敬遠されたひとつの原因になるだろう。また、GHQが高級官僚の人事に深く関わっていたことも、人選が難航したことも原因のひとつに挙げられるだろう。やっと見つかった候補者を推薦しても、政治色が強いなどの理由によりGHQが難色を示したこともあったという。そこで、当時運輸次官であった下山定則に白羽の矢が立った。技術畑出身の下山は政治的に偏りがない人間だと思われていたからだと一説には言われている。結局、引き受け手のない国鉄初代総裁の就任を下山は泣く泣く受け入れることになったのだ。下山は、1925年に東京帝国大学工学部機械工学科卒業後、鉄道省に入省し、1948年4月に運輸次官に就任した後、翌年6月1日、あと数日で満48歳になる寸前の47歳の時に初代国鉄総裁に就任した。

 加賀山(第2代国鉄総裁)は回顧録『下山事件の陰』に、総裁の就任を渋々受け入れた下山の様子を次のように記述している。
 大屋晋三(運輸大臣)は、皆が尻込みをして総裁をやりたがらないので困っていたが、最終的に運輸次官である下山にお願いする他ないという結論に至った。その当時、加賀山は「大臣が俺に暫定的に総裁をやれという。誠に失敬な話だがどうしたものだろう」と下山に相談された。それに対して、加賀山が「この国鉄の重大な時機に暫定とは何事だ。そんなことならはっきりお断りなさるがよかろう」と答えたら、下山も「俺もその通りだと思う」と言ったという。
 警視庁が作成した下山国鉄総裁事件捜査報告(通称「下山白書」)には、当時運輸次官から衆議院議員(民主自由党所属)になったばかりの佐藤栄作と下山の会話が以下のとおり書かれており、下山が総裁就任について迷っている様子がうかがえる。

下山が総裁就任前、佐藤の家に来て話すには、「自分が耳にした話では、今度の総裁は民間人を据える筈であったが駄目になり、俺の所に来たが、どんなものだろう。総裁は首切りが終わると同時にやめなければならないと言うのでは、考えなければならない」と言っていたので、佐藤は「そんなことはあるまい。就任した方がよいだろう」となだめてやり、総裁就任をすすめた。

 加賀山によれば、“暫定的総裁”発言は大屋大臣の失言ということになり、改めて大屋から懇願された下山は総裁の就任を了承したという。

GHQによる人事介入

 GHQが高級官僚の人事に介入していたことを示す興味深いエピソードを加賀山は回顧録『下山事件の陰』のなかで次のように披露している。下山国鉄総裁誕生の約一年前のことである。
 1948年(昭和23年)4月、運輸次官だった伊能繁次郎が退いたので、岡田勢一(運輸大臣)は、加賀山(当時鉄道総局長官)に運輸次官の就任を要請した。運営に強い関心を持っており監督行政には興味がない加賀山は一度辞退したが、懇願されたので致し方なくその案を受け入れた。そこで岡田大臣は、当時の習慣によってGHQの民間運輸局(CTS)に行き、加賀山運輸次官案について伺いを立てたが、その人事案をCTSは却下してしまった。加賀山は、拒否された理由は知らされなかったが、鉄道業務に専念できることを喜んだとのことである。
 GHQによって人事案を却下された岡田は、再び運輸次官候補を探さなければならなかった。岡田から相談を受けた加賀山は、下山(当時東京鉄道局長)を推薦した。GHQも新たな人事案を了承し、下山が運輸次官になることが決まった。

 このように、国鉄総裁人事の少し前の運輸次官人事においても、下山にとっては因縁めいた経緯があったのである。

(つづく)

参考文献
加賀山之雄 著「下山事件の陰」(文藝春秋臨時増刊『昭和の35大事件』に掲載)文藝春秋社(1955年)

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