「できない」と悩む生徒を「君はできないね」と評する
生徒さんの在籍されている学校の校長先生や担任の先生とお話させて頂く際、しみじみと感じることがあります。
ある生徒さんの担任の先生は、
「生徒の〇〇がお世話になっております。」
「〇〇は、でぃありすさんではどんな様子で過ごしていますか?」
「学校でもみんなに親切で、〇〇が好きで、私にはよくこんな話をしてくれて…でぃありすさんではどうですか?」
と矢継ぎ早に質問をされました。
生徒さんの事が、本当に気がかりでいらっしゃる様子が伝わってきました。
そして最後に
「学校としてクラスとして、また担任として何かできることはありそうですか?学校で嫌な事をされたとか、教師に嫌な事をされたとか、何か言っていましたか?」
というような事を口にされます。
生徒さんの困っている状況を、自分の問題、自分の責任と感じていらっしゃるのです。
不思議なことに、こんなふうに生徒さんの事を気にされている先生に限っては、生徒さんとの話題に先生の話を出しても、生徒さんは全然嫌そうな顔をしないんですね。
むしろ、先生とのエピソードを抵抗なく話し始めたり、先生の事を気遣うような言葉すら生徒さんは発します。
「〇〇が学校に来ないのは私の努力不足なのでは…」と思っていらっしゃる先生ほど、生徒さんの足が学校から遠のく原因には1ミリもなっていない。
驚く事に、上尾市内の中学校では、校長先生方までが生徒さんのお名前もお顔もよくご存じでいらっしゃるケースが多々です。
お忙しい校務の合間を縫って、休み時間や給食、部活動の時間を狙って、生徒さんお一人お一人とお話をしているのだそうです。
一方で、こんな風におっしゃる先生もいらっしゃいます。
「あの子は能力的に問題があったから。フリースクールが見つかってよかった」
「学力的に、随分前から厳しかったですから」
「いじめや人間関係以前に、能力的に集団には適さない子なので」
こんな言葉を聞くと、なんだかもう本当にがっかりしてしまいます。
「集団復帰も一つの選択肢として、一緒に頑張っていきましょう」という前提でご協力を賜りたいのに、「あの子はダメ」「もうソッチの世界にいったんでしょ。コッチには帰ってこなくていい」とレッテルを貼られているような気持ちになってしまいます。
ちなみにこのようなお話をされる学校に通う生徒さんは、学校の話を少しでも振ろうものなら、表情をこわばらせ押し黙ってしまいます。
中学校の先生方が日々本当にお忙しいという事は重々承知です。
忙殺される日々の中で心が疲れ、一人ひとりの生徒への愛情や思い入れが霞みそうになってしまう瞬間もあるかもしれない…それもわかります。
でも、それでも生意気を承知の上、言わせてください。
どんなに愛情を注いでも成長しない生徒、私は一度も出会ったことがありません。
あれこれ手を尽くしても何一つ変わらない中学生なんて、一人も見たことがありません。
愛情を注ぐ前から、手をかけてやる前から「あの子には最初からムリだったんだ」と言ってしまうのは、プロとしてアウトでは?
「教師と名の付くものはすべて憎い」と言った数か月後、「先生先生!」と無邪気に笑う日々を過ごすようになった中学生を知っています。
いじめと発達障害の悩みから1年生の時は不登校だったけれど、2年生のクラスで担任や友達とのふれ合いを通して人への信頼を取り戻し、2~3年生は登校、普通高校へ進学した中学生を知っています。
2年生までは学校中のありとあらゆるモノを壊し暴れていたけれど、新しい友と教師に恵まれ3年生からは改心、クラスのリーダーになり卒業、念願の県立高校に進学した中学生を知っています。
クロールで50m泳ぐのに自分だけ40秒も50秒もかかってめそめそ泣いていたのに、2年後には県のベスト4に入賞した中学生を知っています。
働き方改革とか色々叫ばれていますから、もっと働け、もっと支援に力を入れろとはもちろん言いません。言えません。学校の先生たち、本当に大変だと思います(だからこそ、学校の先生に代わって不登校支援をするため、私は自分が学校から飛び出してフリースクールを始めることにしました)。
教師も多忙ですから、大変な生徒に対しては内心「もう見捨てたほうが自分が楽」って思ってしまうこともあると思います。
でもせめて、口には出さないでほしいなと思うのです。生徒をあきらめたり、見捨てたりするような言葉を。
なんでもそうですが、生徒のせいにしてしまえば、私たち教師は本当に楽ですよね。
「あの子は能力的に厳しいから」「学力がないから」「家庭に問題があるから」「運動神経が悪いから」
我々の半分以下しか生きてきていない中学生の能力は、総合的に大人より低い場合が多いですから(当然です)、我々教師は立場の弱い生徒のせいにしてしまえば、楽になれます。
発達に課題や障害を抱える生徒さんであれば、なおさらです。
でも、「じゃあ、どうやったらできるようになるか」と模索する事こそが、我々教師としての仕事の醍醐味であり、プロとしての腕が試されるところなのではないでしょうか。
自身の教育信条について再考させられるきっかけとなった出来事でした。
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