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1.「マクロとミクロを同時に知覚できるような」梨木香歩『渡りの足跡(新潮社 2013)』

幼少期はゆうに200冊は越えるであろう絵本や児童書に囲まれて育った。新しい発見や知識を得る体験が好きだった。それは読書なのか、人から教わることなのか、手段は問わない。

ケアの現場に関わり始めてちょうど10年目に入ったけれど、ケアに関する本を読んでいて、「面白い」と思ったことがほとんどない。
そのほとんどがハウツー本か、自分の体験談を表現した悲壮感漂う内容か。はたまた、〇〇にならない健康法などと、ショック療法の類か何か?と思うくらい。
活字を読んで、ああ、なんて魅力的なんだろう、ワクワクするぞ、など、可能性を感じ得ることができるような、そんな期待が持てない。
本という手段を通して、”ケアにおけるクリエイティブ性”が全く表現できてないからなのだと感じている。

私にとって、ケアは1人1人の表現の舞台として捉えているので、既存のケアに関する知識を取り入れても、新しい価値を創造しづらい。
(もちろん知るべき制度や傾向については常日頃取り入れているが、語弊を恐れずにいえばそれは消費されていく情報にしかならない)

人の暮らしにまつわるどんな環境を設計すると、どんな光景が見えてくるだろう。
そしてそれは、これまでケアに関係がなかった人たちが、何かしらケアに可能性を感じ得ることができるだろうか?
という問いが私の中を貫いている。
この問いは、この10年間持ち続けている、「なぜ老人ホームには老人しかいないのだろう?」という疑問から枝分かれしてきているように思う。
そして私は本という手段を通して、この問いのアイディアとなるような言葉、表現を探し続けている。

梨木香歩さんは児童文学における日本を代表する小説家(一言で言い表せない稀有な才能あふれる方だ)、彼女の小説はもちろん、エッセイ集はほぼ手元にある。
彼女がエッセイ集の中でちらりとでも”読んだ”、と記述している本すらも値段が許せば追いかけて手に入れる癖がある。
物欲がほとんどない私が唯一行う行為。

植物、鳥、菌、カヤック、英文学、ある特定の歴史上の人物についてなど、梨木さんが傾倒し深く知識を取り入れるために、様々な人や知識と出会うために方々へ出かける様がエッセイで触れることができる。
『渡りの足跡』は、渡り鳥の出立地点での観察や、何気ない日常と渡り鳥のそれとをつなぎ合わせた8章から成る本。
(私はサッと持ち歩けて、気軽に折り目を付けられて、かつ場所も取らない文庫本派)

ケアに関することと、渡り鳥を追う文脈は一見訳がわからないように感じるかもしれないが、生き物全てにとって、生きる場所、より良い環境を求めるのは本能に近いのだとつなげることができる。

さあ、出発しよう、というときの衝動は、「帰りたい」という生来備わっている帰巣本能とほとんど同じもののような気がしてならない。
生物は帰りたい場所へ渡る。自分に適した場所。自分を迎えてくれる場所。自分が根を下ろせるかもしれない場所。本来自分が属しているはずの場所。還っていける場所。たとえそこが、今生では行ったはずのない場所であっても。(P222 渡りの足跡 )

ここではない。どうしても家に帰りたいという人。自分の生きるを終える瞬間は家で、と願う人。
効率や現実的なことばかりでリソースを割けないと難しい顔をしてある場面である人たちは言うだろう。
それは、果たして自分に対しても、同じ言葉を言えるのだろか?
どうにかして、制度という強固な鎧によって言い訳がまかり通るような状況を打破したいなあ。
渡り鳥の渡りを、活字で追っていくたびに違う話から自分の課題意識にどんどんと飛んでいく。

そうして自分の課題意識を言い当てるような文面にも出会えると、本当に心が揺さぶられる。

先日、K書店の編集者、Kさんと話していたとき、彼女が、町にも「機嫌」というものがある気がする、と呟いたことがあった。
「昔よく自転車に乗っていたとき、ああ、今日この町は機嫌が良いなとか、この町はちょっと機嫌が悪いな、とか、そんなことを感じるんです。町にも機嫌があるなあって。」
それは私がよく町を歩くという話からの彼女の連想で、「だから、自転車でなくて、歩いたらもっとそういうことを感じるのだろうな、と思いました」とのこと。
その、「町の機嫌」という発想がとても面白くて、なるほどなあと思ったけれど、私は歩いていてあまりそういう感慨を持ったことがなかった。それは多分、「歩いている私」は、町の機嫌を構成する一分子になっているのであって、「機嫌」を感じ取れるのは「自転車に乗って町を通り過ぎる」観察者の視点ではないだろうか。町の機嫌をすくい取るようにして走り、次の町の機嫌を、またすくい取って進む、そういう速さ。車のスピードだとそういうゆとりはない。歩行者は町を構成する一つ一つに目がゆく。そして自分もその一つになっている。(P100 鳥が町の上空を通過していく)

ああ、いい言葉だなあ、見事に。特に、この部分。

「機嫌」を感じ取れるのは「自転車に乗って町を通り過ぎる」観察者の視点ではないだろうか。町の機嫌をすくい取るようにして走り、次の町の機嫌を、またすくい取って進む、そういう速さ。車のスピードだとそういうゆとりはない。歩行者は町を構成する一つ一つに目がゆく。そして自分もその一つになっている。

この「町の機嫌」はこれからの自分のキーワードになっていくと思っている。
制度でガチガチに決められた1人の人の暮らし方は、巡り巡って、機嫌のいい町の一分子の一つになっていくのか、果たしてそうではないのか。

町の構成を俯瞰的に見て、知ってゆく様々な活動と、1人の人の暮らし方をパズルのように当てはめていきたいな。そんな想像を早く創造するフェーズに入っていきたい。
過去、納得できる仕事をこの人生においてできたことがない分、焦りでもあるし、まだ私にできることがあるかもと思わせてくれる、町の機嫌づくり。
決して機嫌取りをしたいわけではない。なんでもかんでも受けるような御用聞きのような存在になりたいわけでもない。
プライドを持って、視野を持って。

鳥瞰図。渡りをしている鳥たちは、高い視点で俯瞰された風景をみている。そうして本能とその鳥瞰図とを頼りに確実に自分の還りたい場所へとたどり着くという。

それはきっと、マクロとミクロを同時に知覚できるようなものではないだろうか。
遠くでしている生活の音やにおいが、動物の動きが、まるで自分がそこに身を浸しているように感じられるような。彼方で誘って止まない北極星の光が、下界と内界の境を越え、自分の内側で瞬くのを捉えられるような。
それは越境していく、ということであり、同じボーダーという概念を扱いながらも、他者との境に進入し、それを戦略的に我がものとする「侵略」とは次元も質も違う。「越境する」ということの、万華鏡的な豊穣さに浸って、言葉が生み出され、散らばって、また新たな言葉が誕生する、そういう無数の瞬間の、リアリティの中を、生きものは渡っていく。(P191 案内するもの)

ふと自分の視点を整理していくときに、世界中を渡るオオワシの鳥瞰図のようにはいかずとも、こうしたマクロとミクロの視点をバランスよく保とうと試みている自分に気づく。
町を細部を見つつ、全体を見渡そうと試みている。

毎月国内外へ足を運んでいたが、2019年12月を境に、ぴったりと止めている。渡り鳥のように翼が欲しいと、シアトルの知人らと繋いだセッションで不意にでた自分の言葉が、案外本気だったのかもしれないと、渡りの足跡を読み進めるうちに感じた。

梨木さんもよく旅をして、様々な事柄をつなぎ合わせている方だと思う。今のこの状況で、彼の作家はどんなことに思い巡らせているだろうと、凡人としてぼんやり思い巡らせている。



これは2020年夏から秋ごろまでの、本にまつわる記録です。本来ならば、何冊と決めて記録したいと思っていたけれど、思いの外私は本をよく読んでいて、そしてその本を読む行為が、ここ数年は不本意ながらすっかり止まってしまっていた。きちんと取り戻すかのように、この記録を書いています。

本。読むのも好き、そしてとうとう共著として2019年6月に、守本くん、西さん(下記にnoteアカウントを紹介しています。)と『ケアとまちづくり、ときどきアート(中外医学社 2019)』を発表。8月現在、重版も決まりましたと、出版社の方からご連絡をいただいた。
書き手がワクワクして書いたもの。読み手の方たちにも、ケアのこれからのワクワクを、伝えられますように。

藤岡聡子
株式会社ReDo 代表取締役/福祉環境設計士
info(@)redo.co.jp
http://redo.co.jp/