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考える子供は考える大人になる

考えさせるトレーニング

利便性を追求していくことは考えるということを、「削ぐ」ことだとしみじみと思う。その利便性がどこから来たのか、というのは、わたしたちの日本人気質のおおきなところにある「おもいやる」というところにつきる。
デコボコ道は不便だから地面をコンクリートにしておこう。みたいな話。もともとは車が通るから、なんだけど。結果、便利になり、「転びにくい世の中」をつくっている。

転びにくい世の中は考えないをつくる

転ぶって、みんな、イヤなので。転ばないようにしてあげる。転ぶのが「我が子」だとしたら、とんでもない話!!! それが「親」というもの。なので、なんでも転ばないようにしてあげる。痛くなかったね、よかったね!だ。これがほんとうによくないと思う。死なない、大事に至らないことが必だけれど。
転ぶって、痛い。イヤだ。だから、転ばないようにしたらどうしたら良いか、を「考えだす」。サバイブのために考える、それがひとの「本来の考える」の根っこのハズ。だからとにかく一生懸命、考える。痛いのはイヤだから。これがすごく子供によく作用すると思う。

地頭の良い親の子育て

勉強ができる親より、地頭がいい親のほうが強い。私はそう思う。というか完全にそういう時代に入ってきている。学歴がどんなにあっても資格職でも、収入が比例しない世の中だ。で、近所のママ友、頭もよいが地頭もよいな、という親御さんは「考えて!」と子供にひんぱんに言っていることにあるとき気づいた。そういうときって、「どうしてケンカになったのか」とかを「考えて!」と言っているのだが、だいたい本人がワンワン泣いている時が多いので、「考えよう!」にはなっていないw。でも、「考えてみて!」って、親からもらったその言葉は、きっとカラダのどこかに染みついて残っていく。

インプットのないものは、アウトプットがない

ちなみにその親御さんは、パパが東大で、ママが京大だ。でもひるむことなかれ。わたしは、もうこの時代、それがどうしたwと思うことにしている。でも彼らは立派だ。さらにそのお母さん(おばあちゃん)がさらに立派だという結論に至る。彼女に、そんなふうに子育てをしていたようだから。で、京大を目指したわけだしね。
そうなのだ。けっきょく「そう伝えられたから」そうしている。本人からしたらそうかもしれない。でも、私からすれば、インプットがあったからアウトプットがあるという話。インプットがないとアウトプットもない。
詳しいことは知らないけれど、実際、お会いして人間がすばらしいなあと思ったし。声がけのひとつとして「考えてみて」というインプットはとてもいい。子供も、じっさいそうなっていく。「どうしてそう言ったのかな?」、と「考える」のもまたひとなので。

しかし子供の考えはろくでもない

うちのムスメ一号など、典型的!w 本が好きなのでインプットは多いようだが、いたずらもひどかった。過去に、気絶しそうな悪行はいっぱいあるのだけれど。ちゃんと「考えて」やったなら、いまは、あんまり怒りたくはないという思いでいる。でも、ぜんぜんそんなことはないので、たいてい私が「”#$%&’!”#$%&’YU"#$%&'!!!」みたいなことになってしまっていたけれど。小2にもなると、考えなしの「やってみたかったからやった」という、フザけすぎた悪行はだいふなくなりました。
しかし子供の考えることはたいていろくでもない。うんちや、おしっこや、おならや、おしりや、おっぱいやおちんちんにまみれている。(何せ小2だからw)という大前提で「こうなったら、何が起こるのか」を考えて行動せよ。という段階に目下シフト中。

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