見出し画像

おたがいさま発想


年始早々、おおきな震災。

ニュースでその悲惨さがアップデートされるたびに、なんともせつなくなる。

羽田の航空機の炎上事故も、震災がなければ、という話だったのだろうか。
いずれにせよ、起きてしまったこと。

一日も早く、いつも通りの生活へ、ひとりひとりが戻れるように。
こころからそう願う。

震災3日目には、SNSなどで寄付したよという声がちらほら聞こえてきた。
中には500万をぽんと寄付したという方もいらした。
サイトをみると、寄付金はもう3億に届きそうだった。驚いて、ちょっとだけほっとした。これは日本人の”お互いさま発想”がさせたのだと思ったから。まだすてたもんじゃないぞ、と誇らしくも思えたのだ。

当たり前だろう、と言うひとがいるかもしれないけれど。都心に暮らしていると、そんな発想ではやっていけない。自然に”自己中心的発想”しか、もてなくなっていく。人口が集中すると余裕がなくなる。コロナ後、目に見えるスピードで都心はギスギスしていった。それが資本主義ということだろう。

でも今回の震災は、「それ、ちょっと待って」なのではないかとも思ったのだ。

自分さえ良ければ。資本主義はそういう発想を自然にもたらす。
けれど、震災はそうじゃない。純粋な、何か自分にできることはないか。であり、もしも自分が同じ立場だったらという想像を促す。

天災のニュースには心が痛む。
けれど、私たちはそこから何かを学ぶこともできる。

おたがいさま、だから。

この発想は、自分と「同じ」ように相手を思うところから来ている。もしも自分が、という視点からくる思いやり、だ。その思いやりは、「日本語という言葉からきている」と私は思う。

日本語は、聞き手の想像力が問われる言葉だ。

たとえば、同音異義語が多すぎるこの国の言葉は、常に「どの単語だ?」と思考をフル回転させて話を聞くことが求められる。それは聞き手目線だが、話し手は「理解を相手に委ねている」。つまり、「そっちで想像してくれ!」ということを相手に常に求めている、と捉えることができるからだ。

わかってくれない、コミュニケーション上のトラブルのほとんどが、実はそれに起因していると私は思う。話から「想像してくれ」なんて、なんとも勝手な言い分なんだけどね。だけど、相手に伝わるように丁寧に伝えようとするやさしさも私たちにはきっとある。「もし自分だったら」と想像することはいくらだってできるからだ。

わたしの住む地域にも震災はやってくる。
だからこその、おたがいさま発想。

聞き手の想像力が問われるのは、日本語に冠詞がないことからもわかる。

冠詞がない、ということは「冠詞を必要としていない言語」だから。これはリンゴですと言ったとき、そのリンゴが一つなのか特定のリンゴなのか、複数のリンゴなのかは「日本語の場合は重要ではない」ということを意味する。細かい説明は話を聞いてればわかるだろ?という言語でもあると言える。
相手は想像しながら話を聞く。聞いてりゃわかる。おもしろいよね。

まあ、日本語が想像力をフルに使う言葉だという話はこの辺にして。

正月の震災に得たのは「気づき」だと思った。

同じ日本人を思う、ということへの気づき。
知り合いがいようといなかろうと、だ。

それはみんな自然にやってきたこと。
それだけ私たちは、シビアな自然環境下にあり生きてきたということ。

それはこれからも変わらないと思う。

相手を思う。思いやりを重視すると、「同じようであること」が重視される。
そうやって高度経済成長期が「一億総中流」へ私たちを牽引した。

いまはそうじゃないよね。同じようでないこと、多様化を目指す時代。そして多くの海外移住者と暮らすような時代がもうソコまで来ているし、田舎は実際に始まっている。

だからこそ、今回の震災はなにか今の資本主義であったり、自己中心的な発想だったりに、「それでいいんだっけ?」みたいなコトを思わせるような気づきがあったように思った。

福井の知人が、近所の人たちに助けられて仕事に行けたと連絡が来た。
わずかばかりではあるが、私も寄付をした。

おたがいさまに、ありがとう。


サポートしてくださるとうれしく思います。もうコピーライターになり20数年がたとうとしています。長らく似たような事ばっかり考えてきましたが、ずーっと同じ事やってきたからわかるものがある気がしてます。じょうずにアウトプットできたらと思っています。