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将棋の指し手として生きている人と駒として生きている人がいるんじゃないかという話

人生を、将棋の指し手として生きている人と駒として生きている人がいるんじゃないかという話です。

最近は4歳の息子が将棋にはまっています。

私は将棋はめっぽう弱く、4歳児にも負け続けています。

そんな将棋について夫と話していて、面白い気づきがありました。

夫が、「将棋って仕事と一緒だよね。最高の手を考えることより、いかに最悪の盤面を避けるかを考え続けなきゃいけないからね。」と言っていました。

私にとっては、目から鱗でした。

言われれば、そりゃそうだと思うんですが、実生活でそんな目線に立てません。

数手先を考えて根回ししたり、最終的に勝つために一時的に駒を失うことも必要だったり。夫はそんなことを頭に置きながら仕事をしているようです。

「絶対無理〜!」と思いました。

数手先を考えるのは大変すぎてできません。でも、それ以上に、駒を失うのは苦しくてできません。

一時的な負けな気がしちゃうんです。そしてたとえ一時的でも負けるのはしんどいです。

夫はよく実生活において「ここは負けといた方がいいよ。」と言うことがあります。

本当にやりたいことを通すためには、一時的に負けに見える局面も必要だそうです。

絶対無理。

これはプライドの問題なんでしょうか。でも、自分の非を認めたり、自分が不利になるのはしんどいです。

でも夫はそんなこと思わないそうです。

最終的にみんながハッピーな形でいい場所に収まれば、僕が負けに見えてもいいんだよ。と言います。

「なんとできた人間だろう。」

と思いましたが、話せば話すことにお互いの目線の違いに気づきました。

夫はいつも、物事を将棋の指し手として見ているんです。

私はいつも、盤上の1つの駒として存在しているんです。

だから私にとっては、勝負の運びよりも、自分という駒が取られないことに必死なんです。

自分が相手の駒をとると嬉しいし、飛車や角行として、盤上を颯爽と駆け回るのは気分がいいです。

一手一手が感情的です。

私の夫は、よく私の周りから「仏」と称されますが、まさに神的目線から盤上をくまなく見守る姿勢をとっている人のようです。

結婚して10年ですが、夫の事はまだまだよくわかりません。

でも今日、わからない理由が、ちょっと分かった気がしました。

身近な人がこんなにも違う思考を持っています。

この世の中、私と違う人がどれほどいることでしょう。そしてどう違うんでしょうね。

みんなの話を聞いてみたいものです。

あおやま みさき

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