近代漢字文化圏の話⑥「裁判所」

今回の話題は『裁判所/court』です。

漢字文化圏諸国の近代司法制度なんかにも触れつつ、各国の『court』に対する命名の違いを書いていきたいと思います。

また、普段、私のブログでは漢字文化圏を4ヵ国として、日本、中国、韓国、ベトナムについて記述していますが、今回はそれに北朝鮮を加え、5ヵ国で論述していきたいと思います。


1.韓国の『court』

まず韓国の近代司法機関『court』について見てみましょう。

韓国で近代的な『裁判所』が誕生したのは日韓併合以前、まだ韓国が「大韓帝国」だったときの1895(高宗32)年です。

1895(高宗32/明治28)年3月25日、韓国に駐在する日本人顧問官が大韓帝国の内政改革に関与し裁判制度の改革を要求したことをきっかけで、大韓帝国は改革法律第1号として「裁判所構成法(재판소 구성법)」を制定しました。

これにより、古来から続いた「縁座制」などの悪法が廃止されるとともに、朝鮮半島全土にわたり近代的裁判制度が創設されたのです。

そのとき、当時の大韓帝国法部(=現代日本でいう法務省的な存在)に創設されたのが、以下の5種の『court』です。

特別法院 (특별 법원)
高等裁判所 (고등 재판소) [1899年 平理院に改称]
巡回裁判所 (순회 재판소)
開港場裁判所 (개항장 재판소)
地方裁判所 (지방 재판소)


ここで『court』の韓国語訳に注目すると、地方裁判所から高等裁判所までは『裁判所(재판소)』とされているのに対し、特別法院だけは『court』を『法院(법원)』と翻訳しています。


これは、実は『court』という概念に対応する漢字語には『裁判所』と『法院』の2通りの呼称があるためです。


ちなみに『court』に対応する『裁判所』と『法院』を、現在と同じ争訟を扱う司法機関という意味で公官庁の名称に初めて採用したのは、明治時代の日本でした。

『裁判所』は1870(明治4)年、司法省に内部部局として「東京裁判所」が置かれ、『法院』は1882(明治15)年に「司法省特別裁判所」を改組して「高等法院」が置かれたのが始まりです。
このように、それぞれ両用語は我が国で世界で最初に公式採用されました。


このように見ると、今は日本国内の公官庁を指して『法院』の語が使われることはありませんが、当時の日本の司法制度では『裁判所』と『法院』が混在していたことがわかります。

この混在が伝わっていたため、大韓帝国は以上のように両方の語彙を混在して「裁判所構成法(재판소 구성법)」に使ったようです。



ところでニュースをよく見たり日韓関係に関心がある皆さんは『法院(법원)』という言葉をもしかしたら見かけたことがあるのではないでしょうか?

例えば元徴用工と三菱の間の裁判を扱った以下の記事。

よく見てみてください。

画像1

気づきましたか?

韓国大法院」と書かれています。
この『大法院』というのは日本で言うところの『最高裁判所』つまり韓国司法権のトップです。


ここで現代韓国の『裁判所』の種類を見てみると、以下のようになります。

大法院 (대법원<テボブォン>)
高等法院 (고등법원<コドンボブォン>)
地方法院 (지방법원<チバンボブォン>)
家庭法院 (가정법원<カヂョンボブォン>)

全部『法院』ですね。

こうして見ると現代韓国には『裁判所』はなく、司法機関『court』は全て『法院』に統一されているように思えます。


しかし、現代韓国内にも1つだけ『裁判所』が現存します。


それが『憲法裁判所(헌법재판소 <ホンボㇷ゚チェバンソ>)』です。

韓国のこの『憲法裁判所』。
実は1987年に成立した司法機関なので『大法院』など韓国内の他の司法機関と比べると歴史が浅いのですが、なぜ『憲法法院』ではなく『憲法裁判所』という名前になったのでしょうか?


その理由は『大法院』の立場にあります。

違憲判断などをする司法機関を新設しようとしたときにその機関に『憲法法院』という名前を付けてしまうと、司法権のトップであるはずの『大法院』と上下問題が提起される懸念があったのです。

要するに『大法院』と『憲法法院』のどちらが上か、という論争を避けるために、『法院』の語を避け『憲法裁判所』と名付けたわけです。
「これは『憲法裁判所』だから『法院』とは違うし『大法院』とどっちが上とかはないよ~」ってことにしたらしいです。


...くだらない言葉遊びにしか思えませんが、とにかくこれで上下論争を避けたらしいです。
それぞれの機関の権能は変わらないんですから私には何の解決にもなっていないように思えるのですが...笑


とまぁそんな背景があるわけですが、結局現代韓国の司法機関は、基本『法院』、例外的に『裁判所』と名付けられていることがわかります。


しかし、ここで思い出してほしいのが、先ほど書いた大韓帝国法部に属する『裁判所』です。

復習すると、大韓帝国時代の司法機関は、地方裁判所 (지방 재판소)、開港場裁判所 (개항장 재판소)、巡回裁判所 (순회 재판소)、高等裁判所 (고등 재판소) そして特別法院 (특별 법원)でした。

つまり、大韓帝国時代には『裁判所』が基本で『法院』が例外だったわけです。

『法院』が基本で『裁判所』が例外な現代の大韓民国とは正反対。


つまり大韓帝国から大韓民国へと変わるたった100年の間に韓国では『裁判所』と『法院』の地位が正反対になってしまったわけです。

さてどうしてこうなったのでしょうか?


この問に答えるためには大韓帝国と大韓民国の間を考える必要があります。

そう。帝国と民国の間には、日本統治時代(1910~1945年)があるのです。

この日本統治時代にその答えがあるのではないでしょうか?


2.日本帝国の植民地

では朝鮮総督府時代の朝鮮半島の『court』を見てみましょう。
1912(明治45)年から日本統治が終わる1945(昭和20)年までの間、朝鮮総督府が管轄した『裁判所』は上等裁判所から順に、

高等法院 (고등법원<コドンボブォン>)
覆審法院 (복심법원<プㇰシㇺボブォン>)
地方法院 (지방법원<チバンボブォン>)

です。


先述の『裁判所』が優勢だった1895年の大韓帝国時代からまだ20年ほどしか経っていない1912(明治45)年にもかかわらず、日本統治下の朝鮮には既に『裁判所』という名称はなく、『法院』に統一されていることが分かります。


朝鮮半島の『裁判所』が『法院』に統一された理由。


それは日本政府が内地と外地(朝鮮や台湾など占領地)を区別するため、外地では内地と違う『法院』という言葉をあえて使用したのだと考えられます。

つまり、大韓帝国時代はまだ独立国だったので『裁判所』の語を使えていたけれど、日本による統治が始まってからは植民地である朝鮮は『裁判所』の語を使えなくなってしまったという仮説です。


その証拠に別の外地の『裁判所』についても見てみましょう。

台湾も日本の統治下にあった地域です。
その台湾総督府の下にあった『裁判所』は、

高等法院
覆審法院
地方法院

やはり『法院』の名称が使われています。

外地では『裁判所』を使えないとする説が補強されました。

では朝鮮と台湾以外の日本帝国植民地にあった『court』も見てみましょう。


次に紹介するのは南洋庁

南洋庁は今の北マリアナ諸島、パラオ、マーシャル諸島、ミクロネシア連邦に相当する南洋諸島を統治した『行政機関』です。

この南洋諸島は国際連盟から委任されて日本が統治していた地域で、内地と外地を区別する「共通法」(大正7年法律第39号)上、日本の外地と規定されていました。

そして1922(大正11)年4月の南洋庁設置により日本帝国の外地となった南洋諸島では「南洋群島裁判令」が公布され、南洋庁長官直属の『南洋庁法院』が民事刑事事件を管轄することとなったのです。

その『南洋庁法院』の下部組織は以下の通りです。

高等法院
地方法院

南洋庁では二審制を採用していたため台湾や朝鮮と比べて種類こそ少ないものの、外地なのでやっぱり『裁判所』ではなく『法院』ですね。



それでは次に日本が中国大陸に有していた租借地関東州を見てみましょう。

関東州を統治していた行政機関は、1906年から1919年は関東都督府、1919年から1934年は関東庁、1934年12月から終戦までは関東州庁でした。

ここで関東都督府の『裁判所』について見てみると、関東州では1906(明治39)年に関東都督府法院令が施行され、その第2条に「關東都督府法院ヲ分チテ地方法院高等法院各一箇所トス」とあることが分かります。
また、上記法令は2年で廃止されますが、それに代わり制定された関東州裁判令でも「法院ハ關東都督ノ直属トス 本院ヲ分チテ地方法院高等法院トス」と書かれています。

つまり関東州の『裁判所』も南洋庁と同じ

高等法院
地方法院

だったというわけです。

関東州もやはり外地なので『法院』と称されていたようです。


最後に樺太についても見てみましょう。

実は樺太は、1918(大正7)年に施行された『共通法(大正7年法律第39号)』の1条2項で内地に含まれると規定されていました。
つまり樺太は外地ではなく内地です。 


内地ということは...もうお分かりですね。


樺太の『裁判所』を見てみましょう。

・樺太地方裁判所
区裁判所(豊原区、真岡区、知取区)


やっぱり内地なので『法院』ではなく『裁判所』が使われています。予想通りです。

ちなみに余談ですが、1907(明治40)年に施行された『樺太地方裁判所及同管内二区裁判所設置ニ関スル法律』第2条を解釈すると、樺太地方裁判所は札幌高裁の管轄だったようです。


まとめ.

こうして見ると日本帝国時代の政策は、内地(=本土)では『裁判所』外地では『法院』という区別をしていたようです。


つまり、現在の韓国で『法院』の語が主に使用されるのは日本帝国の名残、さらには現在の日本で『法院』ではなく『裁判所』のみが使われるのも日本帝国の名残と言えそうです。


また、現在の台湾、中国はどちらも『法院』を使用しています。
台湾については日本統治下で設立された『法院』が今に残っていると言えそうですが、中国がなぜ『裁判所』ではなく『法院』を採用したかはよくわかりません。
ただ、中国大陸で正式に『法院』が使われたのは1927年に当時武漢にあった国民党政府が採用したのが始まりと言われています。

台湾に合わせて『法院』を採用したのかもしれませんし、当時の日本は大陸への干渉を強めている最中だったので日本本土と同じ『裁判所』は避けたかったのかもしれません。
確かなことは分かりませんが恐らく後者ではないでしょうか。


ここで再び余談ですが、日本統治下には朝鮮総督府という1つの行政主体で統治されていた朝鮮半島ですが、皆さんご存知の通り現在は南北に分かれています。

ここでまだ見ていない北朝鮮の裁判所を見ると、

中央裁判所 (중앙재판소<チュンアンヂェバンソ>)
道裁判所 (도재판소<トヂェバンソ>)
直轄市裁判所 (직할시재판소<チカㇽシヂェバンソ>)
人民裁判所 (인민재판소<インミンヂェバンソ>)
特別裁判所 (특별재판소<トゥㇰピョㇽヂェバンソ>)

となっていて、南の大韓民国とは違い『裁判所』に統一されていることが分かります。

そして、北朝鮮は建国から『法院(법원)』の語を一度も使用していません

これを「日本帝国の外地政策からの脱却」と見るか、それとも「南の大韓民国との違いのため」と見るか...。


その真相は北朝鮮建国に携わった人のみが知っています。



ということで、『裁判所』と『法院』の区別について、大日本帝国が存在した時代は、
『裁判所』..日本内地(1都2府43県2庁<2庁は北海道庁と樺太庁>)
『法院』..日本外地(朝鮮、台湾、南洋諸島、関東州)、中国、満州国

現代は、
『裁判所』..日本、北朝鮮、(韓国の一部)
『法院』..韓国、中国、台湾

という結果になりました。


帝国の政策がまだ残っている感じがしてちょっと面白いですね。

それではまた次回お会いしましょう。


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