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近代漢字文化圏の話①「甲状腺」

“漢字文化圏”というのは日中韓越のだいたい4ヵ国で構成され、共通語彙が多く見られる文化圏です。

例えば、「感動」という言葉は、韓国語では「감동(カㇺドン)」中国語では「感动(gǎndòng)」、そしてベトナム語では「cảm động」と言います。

共通語彙は当然、全部発音が似ていることが分かると思います。

こういった漢字由来の語彙を共有するのが漢字文化圏であり、日本もその一角を担います。


そして4ヵ国のうち韓国とベトナム(越国)は現在漢字を廃止し、それぞれの自国語を表音文字で表記しています。

中でも韓国語は日本語との文法的類似が多く、漢字廃止後の現代韓国語を見れば、仮に日本語が漢字を廃止し、ひらがなとカタカナのみで表記されるようになったとしたらどのような語彙の変化が訪れるのか、仮説を立てるのに有用です。

こうした主に4ヵ国の漢字文化の共通性と差異を比較し、過去と現在を調べることで発見したことをこのブログでは書いていきます。



突然ですが、皆さんは「甲状腺」という言葉を知っていますか?

普通の人であれば聴いたことがある言葉だと思います。

甲状腺とは動物の首にある内分泌器官のことです。

そして漢字文化論的に言えば、これは西洋医学を東洋に輸入した際、日本で作られた漢字語です。

甲状腺の形が漢字の“甲”に似ているから、「という形」ということで翻訳されました。


私はたまたま甲状腺を韓国語版のwikipediaで調べていたのですが、そこでこれを韓国語で言う場合に2通りの言い方があることを知ったんです。

それが「갑상(カㇷ゚サンセム)」と「갑상(カㇷ゚サンソン)」です。

前提として言っておきますが、上の2つに共通する「갑상(カㇷ゚サン)」とは「甲状」という漢字を韓国漢字音で読んだものです。

「甲状」を日本語では「こうじょう」と読みますが、韓国語ではこれを「갑상(カㇷ゚サン)」と読むということです。

「こうじょう」と「カㇷ゚サン」?

読み方が日本と韓国で全然違うじゃないか!と思う人もいるかもしれせん。

でも日本語でも歴史的仮名遣いで書けば「かふじやう」となるのでこうすればちょっとは「カㇷ゚サン」に近くなるんじゃないでしょうか。

まぁ知らんけど。


1.漢字音

さて、知らない人のために軽く触れますが、韓国語には“韓国漢字音”という、言ってみれば韓国語での漢字の音読みのようなものがあります。

例えば、「朝鮮」という漢字は日本では「チョウセン」と読むけれど、韓国語では「조선(チョソン)」と読むのです。

そして先述の通り、甲状腺の「甲状」は韓国漢字音では「갑상(カㇷ゚サン)」と読みます。

2.では“甲状腺”は韓国語でなんと言う?

では「甲状腺」を“韓国漢字音”で読めば甲状腺という意味の韓国語名詞がわかるでしょう。

「甲状」を「갑상(カㇷ゚サン)」と発音することは既に言いました。

そして残る「腺」の読み方はwikitionaryによれば「선(ソン)」です。


しかし、これも先述の通り。韓国語には甲状腺に当たる言葉が2つあるのです。

それが「갑상(カㇷ゚サンセム)」と「갑상(カㇷ゚サンソン)」です。


...あれ?

言い方が2つある。

「甲状腺」を韓国漢字音で読むと「갑상(カㇷ゚サンソン)」になるはずです。

じゃあ「갑상(カㇷ゚サンセム)」って何でしょう?


ここで仮説が1つ。

「腺」という漢字に読み方が2つあるのでしょうか?

残念ながら違います。

これについて韓国語版wikipediaは次のように説明していました。原文そのまま韓国語で引用してもわからないと思うので、私が訳したものを以下に書きます。

当初は“甲状ソン”と呼ばれていたが、大韓医師協会医学用語委員会で2001年に発刊され、2006年に修正、補完された医学用語集第4集では外来語を易しい韓国語表現に変えて“甲状セム”として用語として定義され、2008年11月に発刊された医学用語集第5集では、不慣れなハングル用語に不便を感じる使用者のために、既存の漢語用語を蘇らせ、“甲状ソン”、“甲状セム”が併記された。

つまり、元々は「甲状ソン」と読んでいたが、これは漢語(=漢字由来の言葉)であり、純粋な韓国語ではないので、2006年に純粋な韓国語表現である「甲状セム」という言い方に変えた。でも呼び方を急に変えると混乱するから2008年には両方併記することにした。

らしいです。

どうやら「선(ソン)」は漢字由来の表現で「샘(セム)」は純粋な韓国語表現ということらしいです。

つまり、「腺」の韓国漢字音は「선(ソン)」で昔はそれが使われていたけど、それを固有語でも呼ぶことになり、結局紆余曲折あって2通りの呼び方が混在するようになったわけです。

でも「甲状」については漢字由来の言葉なのに言い換えないで「腺」だけを言い換えるだなんて。それってちょっと中途半端じゃありません?

まぁ私は韓国人ではないのでよくは知りませんが。

3.固有語か漢語か

純粋な韓国語というのは韓国では固有語と呼ばれます。韓国に固有の表現という意味です。これは日本語の大和言葉に該当する概念です。

漢字を廃止し表音文字ハングルだけで生活することを決めた韓民族は、漢字語を理解しづらくなったため、様々な漢字語を固有語に言い換えています。

漢字が廃止された日本語を仮想して例えてみると、漢字語「セキショク」を固有日本語「あかいろ」と言い換えるようなニュアンスでしょうか。漢字が使えないのであれば確かに「あかいろ」の方が伝わりやすいですね。

韓国がやっていることもこう考えれば身近に感じられます。分かりやすさのために、韓国は漢字語を固有語に言い換えているんです。

漢字語「갑상(カㇷ゚サンソン)」を固有語「갑상(カㇷ゚サンセム)」と言い換えるのも、中途半端ですが、その一環なのでしょう。


気になったので「갑상(カㇷ゚サンソン)」と「갑상(カㇷ゚サンセム)」のどちらがより使用されているのかもGoogleで調べてみました。

青のグラフが漢字語「갑상(カㇷ゚サンソン)」、赤が固有語「갑상(カㇷ゚サンセム)」です。

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上は過去17年間のGoogle検索数の比較ですが、全期間において赤、つまり固有語の方が検索されています。既に固有語の方がより一般的になっていると言えそうです。

赤の検索数が突出しているのが2006年辺りにありますが、これは恐らく、先述の通り医学用語集に固有語のみが記載されたことで関心が高まった影響だと考えられます。

これを見ると漢字語は淘汰されつつあるのかもしれません。青の検索結果がほとんどない。

この分では次の改訂では漢字語「선(ソン)」はなくなってしまうかもしれないでしょう。


さて、では先ほどの「샘(セム)」。固有語らしいですが、元々はどういう意味なのでしょう?

ん?元々?

「腺」という言葉の固有語なのだから、意味は同じで「腺」なのではないか?

そう思う方もいそうですが、残念ながら違います。

そもそも韓国の固有語に近代西洋医学で登場する「腺」という概念があるはずがありません。

まず考えてみてほしいのですが、日本の大和言葉にも「腺」を意味する語彙はありません。

「腺」という漢字の訓読みが存在しないことを考えてもらえばわかる通り、大和言葉に「腺」に該当する語彙は存在しません。

そして韓国固有語にもそんな語彙は当然ありません。

つまり韓国は、古くから存在し本来は別の物事を意味する固有語「샘(セム)」に新しく「腺」という意味を持たせたのです。


答えを言うと「샘(セム)」というのは元来は「泉」という意味なんです。水が湧き出る所という意味ですね。

要するにこの「샘(セム)」という語彙は「泉」という意味の固有語だったのに最近になって「腺」という意味に謂わば“流用”されているのです。

なお、最近というのは西暦2000年前後だと考えられます。

「腺」の言い換えとして「샘(セム)」が医学用語集に載ったのが2006年からですから、せいぜいその程度の時代から使われ始めた用法でしょう。ちなみに私がGoogleで調べた限りでは2001年9月が最も古い検索結果となりました。



ここでまた疑問が浮かびます。

では韓国は何故「水が湧き出る所」という意味の言葉に「腺」という意味を持たせたのでしょうか?


4.「腺」

さて、そもそも問題の所在は「腺」という漢字です。

冒頭でも軽く触れましたが、この漢字は太古の昔からある漢字ではありません。

この漢字は生命を保つのに必要な物質を分泌する働きをする器官を意味する漢字で、江戸時代に宇田川玄真という日本人蘭学者がオランダ語“klier”の訳として創作した漢字です。

今から300年ほど前、西洋医学がこの東洋に流入したとき、我が国では他の東洋諸国に先駆けて西洋医学の用語を翻訳しました。その一環で作られたのがこの「腺」という漢字なのです。


では宇田川は漢字を創作するにあたってどうしてこの形にしたのでしょうか?

成り立ちを見てみましょう。

「腺」の左部分の「月」は「肉体」を意味します。「臓」や「肌」「肝」「肘」など体に関係する漢字に多く使われる部首です。

そして右部分の「泉」はこの体内器官の生命を保つのに必要な物質を分泌する働きをするという意味を表しています。物質を分泌する様子を宇田川玄真は水が湧き出る「」に例えたのです。

そう。「腺」とは、肉体(=「月」)にある「泉」なんです。

ちなみに、「腺」を表すオランダ語「klier」にも英語「gland」にもラテン語「glandula」にも特に“泉”という意味はないので、この体内器官を“泉”に例えたこの視点は宇田川独自のものと言えそうです。

5.結論

この「腺」という漢字は江戸時代、日本人蘭学者によって作られ、その後に駐日留学生を通じて中国、ベトナム、そして韓国といった漢字文化圏に属する国々へと輸出されました。

しかし「腺」は日本で作られた漢字なので他の国では読み方が定まっていません。

そこで各国においてはその国で「」という漢字を発音するときと同じ音で発音されることになり、中国では「xiàn(シエン)」、ベトナムでは「tuyến(チュイェン)」、韓国では「선(ソン)」と発音されることになりました。

もっとも、先述の通り「腺」とは身体における“泉”という意味ですから、各国語に翻訳する場合にはたとえ形が似ていようとも「線」の音を借りるより「泉」の音を借りるべきだったと私は思います。日本語ではどちらも「セン」と発音するので特に問題とは思いませんが、中国語や韓国語では「泉」と「線」の発音が違うので由来が伝わりにくいちょっと“残念な”翻訳かなぁと思います。きっと翻訳者はそこまでのことを考えていなかったんでしょう。


とまぁそれはさておき、日本、中国、ベトナムでは今でも現役の「腺(セン/xiàn/tuyến)」ですが、現在の韓国では主に固有語に言い換え、物質を分泌する様子を「泉」、つまり「샘(セム)」と呼ぶことにしました。

現代の韓国においては「腺(선/ソン)」という漢字語こそ使われにくくなったものの、「腺」という漢字の成り立ちからを基として代わりに「샘(セム)=泉」という意味の言葉が用いられるようになったのです。

たとえ固有語に言い換えられ「腺」という漢字が使われなくなっても、300年前に宇田川玄真が「泉」と例えたその独自の視点は結局今の韓国語でも生きていると言えるでしょう。


余談ですが、『甲状腺』はベトナム語では「tuyến giáp」と呼ばれています。

これは漢字で書くと「腺甲」。

ベトナム語は日中韓とは違い後置修飾なので「甲」と「腺」の位置が逆になっているんです。

面白いですね。


6.終わりに

かなり長くわかりづらい文章になってしまいましたが、最後まで読んでいただきありがとうございます。

このブログでは以後も漢字文化、主には今回のような“近代漢字文化”について書いていきます。

次回も読んでいただければ幸いです。

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