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「お宅のペット、まだ生きてるの?」「転職したい?投獄な」~ブリテン島から自由が消えた日 戦時下のイギリス②第二次世界大戦編~

戦時下のイギリス①第一次世界大戦編はこちら

究極の緊急事態「第二次世界大戦」

 我々日本人にとっての第二次世界大戦とは、ご先祖様がドイツ語で書かれた誇大妄想パンフレットに騙された挙句の果てに焼きたてジャぱんにされた戦争である。白旗を掲げる旗手一名から構成されるドイツ軍隊に持ち金の全てを賭けて、最終的にコーンパイプを咥えたグラサンヤンキーを主人に迎える羽目になった歴史は読み物としては愉快なものではない。空襲や食糧難、学童疎開のような悲惨で陰鬱なイベントで彩られているのも、それに拍車をかける。だが、戦勝国のイギリスも同様に悲惨で陰鬱なイベントに満ちているし、戦後には戦時下よりも悲惨な耐乏生活を経験している。だが、イギリス人がその歴史を語る際の口調は明るい。第一次世界大戦が偉大な祖国の栄誉の為の「国王の戦争」であったならば、第二次世界大戦はファシズム打倒の為の「大衆の戦争」だったからだと説明される事が多い。しかしながら、如何なる大義を有し、栄光に満ちた戦争でも、その陰には犠牲がひっそりと寄り添うのが常である。果たしてイギリスは「もっとも輝かしい時代」だった第二次世界大戦でどんな権利と自由を犠牲にしたのだろうか。

「ハリウッド御用達の悪役フリー素材さんの台頭」

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             ©IWM MH 11040
 カイゼル髭の手から逃れたブリテン島を待っていたのは、また地獄だった。講和の後に住み着いた絶望と狂気は、ゴロツキとオカルト、モルヒネとサイコパスとをコンクリートミキサーにかけてぶち撒けた吐瀉物、ナチスドイツを生んだ。共産党員に痴情のもつれで射殺されたチンピラことホルスト・ヴェッセルが作詞した不愉快な党歌はブリテン島まで聞こえるようになっていた。西暦1939年9月1日朝、スターリンとの結婚指輪にされたポーランドにドイツ軍が侵攻。時の首相チェンバレンはこの段階でも外交交渉に一縷の望みを託していたが、数人の閣僚がヒトラーに最後通牒を出さない限り閣議室を出ないと宣言。野党である労働党も宣戦布告が為されないなら、庶民院を抑えられないと警告して来るに至った事から、イギリスは3日にはドイツに宣戦を布告。ここにイギリスにおける第二次世界大戦が始まる。またしても戦いを挑んできたドイツ軍は殊の外強力であり、第一次世界大戦の戦友であるフランスまでもがハーケンクロイツに屈した。こうして瞬く間にヒトラー一味は欧州全域をその掌中に収めたのである。こうして、イギリスはかつてない侵略と破滅の危機を迎える事になるのである。だが、ドイツにとっては不幸な事にイギリスは「平和とは次の戦争の為の準備期間」という悲観主義に満ちた警句の信奉者だった。

「平和とは次の戦争の為の準備期間」

 第一次世界大戦終結後、ベルサイユ平和条約調印の報を受けた連合軍総司令官フォッシュ元帥は「これは平和ではない。ただ二十年間の休戦だ」と断言した。彼の指摘通り、欧州の至る所に次の大戦を招く種火が存在しており、火災旋風が巻き上がるのは時間の問題であった。国民から「ダーダネルスはどうなった!」という心温まる罵声を受けながら、後の首相となるウィンストン・チャーチルが選挙活動に勤しんでいた西暦1924年、帝国防衛委員会の下に戦時立法小委員会が設立される。終戦から間もないにも関わらず、イギリスは次の戦争に勝利する為の「悪魔」を生み出す準備に取り掛かったのだ。この委員会は第一次世界大戦の国土防衛法下で施行された諸法令を整理し、今後の戦争に必要な戦時立法を洗い出した。チャーチルの長男ランドルフがオックスフォード大学のユニオン(模擬議会)が「如何なる場合であっても、国王と国の為に戦わない」と議決した議事録を削除する為に暴れてから少し経った西暦1934年、戦時立法小委員会は土地建物の徴用から労働者の休暇取得まであらゆる統制を可能とする169もの戦時立法草案を完成させた。当時戦時立法はあくまでも万が一の為の備えでしか無かったが、イタリアとの交戦も予想された第二次エチオピア戦争を契機に状況は一変。イギリスが戦争に巻き込まれる事は「そこにある危機」であるとの認識が広まり始める。そして、「戦争ならナチとボリシェヴィキの間で起きれば良い」と平和への熱い思いを語っていたチェンバレン首相が宥和政策を推し進めていた傍ら、任務を引き継いだ省庁間委員会は西暦1937年7月には「悪魔」を生み出した。その悪魔はイギリスから「市民的自由(基本的人権)」という概念を滅却させるだけの力を秘めており、平時に解き放つのは政治的に困難であるとの判断が為された。悪魔(ヒトラー)を滅ぼす為に悪魔の力を借りるなどブリティッシュ・ジョークとしても悪質だったのだろう。

帰ってきた悪魔(帰れ)(帰らない)

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           ©Parliamentary Archives
  独ソ不可侵条約が締結された翌日、西暦1939年8月24日には遂に悪魔が凱旋した。僅か4時間の審議で成立した悪魔の名は1939年国家緊急権(防衛)法。この法律の意味する所は、第一次世界大戦に猛威を振るった1914年国土防衛法のリメイクであり、「内閣独裁」の再導入であった。国土防衛法との差異に注目しながら、内容を見てみよう。当初は僅か2条しか存在しなかった国土防衛法と異なり、13条という豪華(当社比)な法律である為、1条のみを抜粋する。

1)(1)本条の規定に従い、国王陛下は枢密院勅令により、国民の安全、国土の防衛、公共の秩序の維持、国王陛下の戦争の効率的な遂行及び共同体の生存に不可欠な供給やサービスの維持の為に必要又は適当であると思われる規則(以下「防衛規則」とする。)を制定することができる。
 (2)前項の規定により付与された権限の範囲内において、防衛規則は、
 (a)規則に違反する者の逮捕、裁判及び処罰又は国務大臣が国民の安全若しくは国土の防衛の為に適切であると認める人物の拘禁に関する規定を設けることができる。
 (b)以下のことを許可することができる。
    (i) 国王陛下に代わり、財産及び事業の所有又は管理を行うこと。
 (ii)国王陛下に代わり、土地以外の財産を取得すること。
 (c) 家屋への立ち入り又は捜索すること。
 (d) 議会制定法の修正又は停止、及び修正の有無に関わらず、その適用を規定することができる。

      国土防衛法と同じように議会が有する立法権の国王への委任が行われたが、今回は「国民の安全、国土の防衛、公共の秩序の維持、国王陛下の戦争の効率的な遂行及び共同体の生存に不可欠な供給やサービスの維持の為に必要又は適当であると思われる規則」という更に広範な規則制定権が認められる事になった。また、国王が制定する規則が既存の法律を自由に修正し、又は停止させる事や規則が既存の法律と抵触しても法的には有効とされる事がはっきりと明文化された点も国土防衛法とは異なっている。これにより、裁判所が国王が定める規則を司法審査により無効にする事を事実上不可能にしてしまった。実際に贈与法など250以上の議会制定法が防衛規則により修正又は停止に追い込まれている。
    ここまで読むと、イギリス人は国土防衛法の苦い記憶を「1...2の...ポカン!」で忘れてしまったのか?と思われるかもしれないが、流石に誤解である。議会も今回は戦時内閣という狂犬に手綱をしっかり付けたのである。まず第一にこの法律は一年間の時限立法として成立した。内閣独裁がエンドレスに続く事を未然に防止し、議会の主導権を確保しようとしたのである。……結局は一九四六年二月まで延長する事にはなるが。第二に議会による規則の事後承認の規定が設けられた。全ての規則は議会両院に提出され、開会してから二十八日以内にいずれかの院が無効を決議すれば、規則はその時から効力を失う「否認決議手続」が導入された。お、民主主義国家らしくなったゾ。……もっとも議会の事後承認を義務付けたわけではなく、議会が気にいらない規則を吊るし上げる為のものであり、仮に効力を失っても新たな規則を制定する事を妨げない事も規定されていたのだが。既にお腹一杯ですという方もいるだろうが、更に1940年国家緊急権(防衛)法が成立し、国王の緊急権が更に拡大される事になる。国家緊急権(防衛)法以外にも四十以上もの戦時立法が成立し、国民の権利と自由をユニオンジャックの塗料にしてしまうのである。さぁ、皆様、逃げてはダメですよ。まだウェルカムドリンクなのですから。

「論争の的であろうとなかろうと、全てを戦争の為に犠牲にすべきであり、戦争の為に必要でないものは論争の的にはならない」
               イギリス首相 ウィンストン・チャーチル

「御宅のペットはまだ生きてるのですか!?」

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             ©National Archives
 第二次世界大戦下のイギリスにおいて、まず最初に犠牲になったのは戦争遂行において「必要不可欠ではない動物達(Non-essential Animals)」であった。敵軍の空襲で負傷したペットが救助活動の妨げになったり、食糧資源を食い潰す事は政府としては頭が痛い問題であった。
 西暦1939年、全国空襲対策動物委員会(NARPAC)は『動物の飼い主への助言』と題したパンフレットを全国紙・地方紙に掲載し、その内容をBBCニュースでも報じた。内容は動物達の面倒を見られないなら、「ペットを殺す事こそ本当の優しさである」と書かれており、大変親切な事にウェブリー&スコット社の屠殺用拳銃の広告も一緒に掲載されていた。更に内務省は公共用シェルターに動物を入れる事を禁じる方針を示し、第二次世界大戦勃発時のBBC放送でもその方針が再確認された。結果として起こったのは前例の無い大パニックであった。多くの飼い主達は自らのペットを安楽死させる為に獣医慈善団体や獣医を頼った。自らの手でペットを処分する飼い主もいれば、家から突然ペットを放り出す飼い主もいた。犬や猫など動物達の死体の焼却が間に合わず、死体が山のように積みあがった。こうして、イギリス国民の愛国心溢れる行動により、開戦から1週間足らずで750,000匹のペットが殺されたと言われている。
 ブリッツ(ドイツ軍の空襲)が本格化すると、動物達の居場所はチャーチルの頭部戦線で生存している毛髪よりも少なくなっていく。1940年食品廃棄物禁止令(Waste Of Food Order1940)は、ペットに人間が食するに適した食品を「過剰に」与える事を禁止し、違反した場合には懲役2年もしくは500ポンド以下の罰金又はその両方が科されるという極めて厳しいものだった。「過剰」の定義を巡り、様々な論争があったが、少なくとも猫にミルクを与える行為は違法行為であった。食糧統制を担う食品省は「不可欠ではない動物達(Non-essential Animals)」についての報告書の中で、1匹の猫が1日当たり3オンスのたんぱく質を消費してるとすると、年間消費量は215,000トンにも上り、ミルクの場合は1日1オンスだとすると年間1800万ガロンものミルクを消費しているであろう事を指摘した。そして、あくまでもこの推測値は控えめなものであると前置きした上で猫がげっ歯類の殲滅という任務を果たし、食糧管理に貢献している事は評価するが、怠惰な猫には「注視」する必要があるとした。動物達は政府から暗に生存の自粛を要請されていたのである。その後も余裕が無い家庭は自らの手でペットを処分し、祖国に貢献した。
 もしお魚をくわえたどら猫を追いかけるサザエさんを戦時下のイギリスでお見かけになった際には双方の無事を心から祈願して欲しい。

「お前、怪しいよな。投獄」「り、理由は?」「俺がそう思うから」

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              ©IWM HU 49506
 全世界を覆ったコロナ禍のせいで「ステイホーム」が公衆衛生的に正義とされた西暦2020年。我々日本人も天照大御神がダイナマイトを詰め込んだ須佐之男命で籠ってた天の岩戸を爆破した史実――古事記にもそう書いてある――を思い起こす程には欲するところに従って行動できる自由の有難さを痛感した。さて、前回の記事を読んだ皆様なら、この下らない前振りが何を意味するかをすぐにでも察してくれるはずだ。
 かの高名なブラックストーンが「絶対的な権利」として擁護した人身の自由は、第二次世界大戦下においても無下にされてしまった。1939年国家緊急権(防衛)法は、内務大臣に対して国民の人身の自由について完全な裁量を与えた。悪名高い「防衛規則18B」である。この規則は「敵対的である、あるいは公共の安全を害する行為に参加すると信じるに足る正当な理由がある人物を令状なしで拘束する権限」を内務大臣に与えるものであり、「イギリス人の諸権利に対する最も重大な侵害(クリントン・ロシター)」とまで言われる程には絶大な威力を発揮した。ドイツ軍の侵攻が本格化する前は限定的に行使されていたが、チャーチル内閣成立後の西暦1940年5月22日には防衛規則の適用範囲が拡大。翌日にはドヤ顔に顔面パンチしたいチョビ髭世界一位ことイギリスファシスト同盟指導者オズワルド・モズレーを拘束。これ以後同年8月までに750人もの構成メンバーが拘束された事でイギリスファシスト同盟は壊滅した。他にも労働組合員や共産主義者、平和主義者が「戦争努力を妨げた」等を理由に拘束され、最終的には1,858人の自由が内務大臣のサイン一つで奪われる事になった。中でも、議員特権を有しているはずの庶民院議員――ラムゼイ陸軍大尉。反ユダヤ主義で有名――さえも拘束した事実はブリテン島に住む限り例外は存在しない事を内外に示した。拘束についての諮問委員会も設けられたが、内務大臣はその勧告には従う義務は無かった。
 そして、「敵国人」となった外国人は更に悲惨であった。敵国人の収容は防衛規則18Bではなく、戦時下の国王大権に基づいて実施された。戦争勃発当時イギリス国内には62,000人のドイツ人や12,000人のオーストリア人が居住していた。戦時内閣は彼らをカテゴリーABCと脅威度別に分類し、カテゴリーAのみを収容するという穏健な対応を選択した。しかし、ヒトラーがベネルクス三国の通行料をあっさり踏み倒し、フランスが国旗に漂白剤をぶっ掛け始めた頃になると状況は一変する。新聞の見出しには「全員抑留せよ!」が踊り、あるスコットランドのフィッシュ・アンド・チップス店には「魚、ポテト、ソース、主人、従業員、猫――すべてスコットランド産」という看板が掲げられた。第一次世界大戦時の狂信的な「スパイ熱」を彷彿とさせる反ドイツ感情が巻き上がったのである。無論こうした国民感情だけが原因ではないしろ、チャーチル戦時内閣は西暦1940年5月24日の閣議で全ての敵国人を原則収容する方針を承認した。こうして、無害とされた一部を除く、約22,000人のドイツ人やオーストリア人、約4,000人のイタリア人が強制収容所に送られたのである。収容所はマン島などの行楽地に設けられたはいたが、議会で問題視される程度には施設が劣悪であった。戦況の好転と労働者不足で釈放が進んだ西暦1941年11月時点でも3,695人の収容者が存在しており、チャーチルはヒトラーの尻尾に怯え続けていた。第一次世界大戦での強制収容と大きく異なるのは、イギリス国内にいたドイツ人やオーストリア人の多くは「ナチス政権からの亡命者」であった点である。つまり迫害された人々をご丁寧にも再度迫害したのである。イギリス人には是非とも「二度漬けは禁止」である事を御理解頂きたいものである。

「転職するなら今しかない!」「逮捕」

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              ©IWM PD 274 
 労働とは神が人間に与えた苦役であるが、大変残念な事に無神論者に鞍替えしたとしても解放されない。大多数の凡人は「解放される方法を知っている」と囁く詐欺師の誘惑を振り切りながら、年金基金という新たな神が信仰に応えてくれるのを信じるしかない。それでもよりマシな苦役となるように求める労働権は近現代では極めて重要な位置を占めている。労働組合を生み出したイギリス人にとっては尚更である。自らの職業を自由に選択し、より良き就職先に転職し、それでも駄目なら待遇改善を求めるストライキをする。どれも譲歩不可能な神聖な権利である。しかし、第二次世界大戦下のイギリスはそんな神聖な権利をテムズ川に投げ捨て、ウナギの餌にしてしまった。
    西暦1940年5月22日、チャーチル内閣は1940年国家緊急権(防衛)法を成立させた。この法律は「国民自身、国民の役務、国民の財産を任意に処分できる旨の防衛規則を制定できる権限」を国王に付与するものであった。その権限の絶大さは、クレメント・アトリーの「完全な人及び財産に対する支配権」で表現されている。そして「イギリス国内にいる誰に対しても命令で指定する役務を遂行するように命じることができる」とする防衛規則58Aが制定され、全面的な労働統制が開始された。
   1941年重要産業(一般条項)令が制定されると、戦争遂行にとって重要な産業で働く労働者は、国民役務官の許可が無ければ、その仕事を辞める事は許されなくなった。雇用者は常に労働者の常習遅刻や欠勤について報告せねばならず、国民役務官が必要だと判断すれば、労働者に仕事の遂行を命じることができた。極端な事例だと、とある技術者が結婚したので10日間無断で欠勤したところ、何と3か月の重労働の刑に処される羽目になった。このディストピアめいた労働統制は戦争後半には67,000企業、850万人もの労働者にまで対象が拡大される事になる。
    それでも戦争遂行に不安があったらしい戦時内閣は抜本的な労働力再配置にも着手する。シティ・オブ・ロンドンにあるユニオン冷蔵会社の不動産部門で働いていたジェラルド・キャリーはある日「職場移転命令」を受けた。彼は命令を受けた事自体には特段驚きはしなかったが、その転職先が「炭鉱」だった事に驚愕した。別にこれは職場のジェラルド君が「チャーチルの金玉は一つしか無い」だとか「腐った茶葉のとぎ汁を有難がる人間の気が知れん」などと言いふらしたからではない。当時戦争遂行に不可欠な石炭の採掘を支える炭鉱の労働力が不足していた事から、国民役務登録番号を使ったくじで炭鉱労働者を選んだのである。彼のようにたまたま運悪く「当たり」を引いてしまった「べヴィン・ボーイズ」は48,000人も存在し、十分な訓練も装備も満足に与えられず、劣悪な環境下にある炭鉱で強制労働に従事した。約40パーセントものへヴィン・ボーイズが不服を申し立てたが、その殆どが却下された。1941年から1945年までに出された職場移転命令は108万6,698件にも及び、膨大な人々が不本意な場所で不本意な仕事に就いたのである。もし職場移転命令に逆らえば、3か月の懲役もしくは100ポンド以下の罰金又はその両方が科される運命が待っており、イギリス国民は「カレー味のうんこ(強制労働)」と「うんこ味のカレー(刑務所)」のどちらかを選ぶ羽目になったのである。それでも後者がマシだと考える人間も多かったのか、その他の労働統制違反を含めると1944年2月までに2万3,517人が起訴され、1,807人が懲役刑を受けている。敵の言葉を借りるなら、「働けば自由になれる」という事なのだろうか。

「ガキ共、30秒で支度しな!」

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            ©IWM Art.IWM PST 0115
 令和2年春のコロナ災禍での安倍首相(当時)による公立学校の一斉休校要請が物議を醸した事は記憶に新しい。保護者達は一夜にして反政府活動家になり、子ども達は一足早い春休みをくれた首相を神のように崇めていたが、突然日常を奪われもすれば反発を食らうものである。戦争という究極的な緊急事態でもそれは一緒であった。
 第一次世界大戦終結後、イギリスでは敵国の空襲からどのように民間人を守るのかが喫緊の課題となっていた。空襲対策を担当していたアンダーソン空襲予防委員会は、第一次世界大戦中の1914年から1918年までにドイツ軍のツェッペリン号による空爆にて1,239人もの民間人が死亡し、犠牲者の半数が女性と子供だった事実を重く受け止め、学童と乳児を持つ母親を優先した避難に関する報告書を提出。最終的に政府は子ども達を救うには安全な地域に予め避難させる「学童疎開」しか無いと結論付けた。しかし、任される現場は堪ったものではなかったようだ。急行バスの運行についての研修中だったアラン・ストレリー(当時23歳)は突如ノーフォークに呼び出され、「16,000人の子ども達を受け入れ先の村まで4日間で移送する配車計画書」を作るように命じられた。翌朝には子ども達がロンドンを出発するので、それまでに提出しろという無謀極まるものであったが、彼は何とか成し遂げた。イギリスの学童疎開はこのように「最初からクライマックス」であり、危うさを秘めていた。
 西暦1939年9月1日早朝、チェンバレン内閣はドイツ軍のポーランド侵攻とほぼ同時にハーメルンの笛吹き作戦(Operation Pied Piper)を発動した。見知らぬ男に子どもを奪われ、二度と会えなくなる伝承にあやかった作戦名を採用するセンスには紅茶のタンニンが与える脳の悪影響についての論文を探しそうになるが、それはともかく僅か3日間で80万人の子どもを都市部から避難させた事は評価されるべきだろう。一部例外を除けば、あくまでも避難は「自主的な協力」に基づいていたので尚更だった。問題は受け入れ先である。1939年市民防衛法に基づき、地方自治体の割当担当官には住宅の規模に合わせて適当と判断した人数の疎開者を引き取るように命じる権限が付与された。拒否した場合は当然罰金を科されるわけだが、子ども達を引き取る里親達の忍耐にも限度があった。価値観や生活習慣も階級も異なる子ども――靴を引きずり、シラミを生涯の友人とし、衣服も汚れている場合も多かった――の受け入れには相当の摩擦が生じる事は明白であり、親元に帰される子どもが続出した。受け入れ先の家庭がどんな家庭かは神のみぞ知ると言ったところであり、疎開児童の経験は千差万別であった。実の親よりも子どもを可愛がった家庭もあれば、4ヶ月も子どもの髪を洗わせない家庭もあり、親からの子ども宛の物資を着服する家庭もいた。最悪の場合は性的虐待をしてくる家庭を引き当てる場合もあった。手当たり次第に家畜のように放り込むのだから当然ではあった。議会では150人もの児童が二つしか手洗いのない大部屋に閉じ込められているというスコットランドのインヴェレアリの事例が紹介されたが、根本的な解決策は存在しなかった。このような生き地獄から親元に逃げ出す子どもや連れ出す親も多く、西暦1939年末までに31万人以上の児童(全体の43%)が爆撃を受ける地域に逃げ帰った。当然彼らはドイツ軍の空襲に晒される事になる。子ども達の心身の荒廃は少年犯罪の増加という形で表れている。西暦1939年に17歳未満の子どもで治安判事に出頭を命じられた数は52,000人だったが、西暦1941年には72,000人に増加している。罪人となった子ども達は裁判所が用意した鞭で何回も打たれる事になる。『火垂るの墓』の主人公兄妹が叔母さんに嫌われる描写が苦手な方は是非イギリスの学童疎開について調べて、筆者と一緒に後悔して頂きたい。

「イギリスには勝つ見込みはないよ」「逮捕」

 西暦1943年、トムとジェリーならぬ「チャーチルとナンシー」とも形容すべき毒舌合戦で有名なアスター子爵婦人ナンシー――イギリス初の女性庶民院議員でもある――は赤十字の友人に配給制限下にあったストッキングと服を持ってくるように手紙を出した。だが、その内容が戦時下の検閲に引っ掛かり、ナンシーはボウ街にある治安判事裁判所に出頭を命じられた。彼女は庶民院で喋りたい事を喋った後に議員達に「じゃあね。ちょいとボウ街に行ってくるわ」と発言し、拍手喝采を浴びながら裁判所で50ポンドの罰金刑――ついでに判事からの説教――を受けている。ジョンブル魂溢れる話ではあるが、戦時下のイギリス人が皆ナンシーのように毅然としていたわけではない。
 第一次世界大戦と同様に国家緊急権(防衛)法は、言論出版の自由を大幅に制限する防衛規則の制定権を国王に認めた。「国王陛下の戦争が成功裡に遂行されることへの反対を助長すると予測される印刷物を発行し続ける人物を起訴する権限」を与える防衛規則2C、そして、「防衛規則2Cに抵触する印刷物の組織的な印刷及び発行を無条件で禁止する権限」を与える防衛規則2D、そして、中でも「恐怖と戦意喪失の原因となるような報告や主張をなすことを禁じる権限」を与える防衛規則39BAは、反戦平和運動の弾圧に絶大な威力を発揮した。共産主義者、平和主義者、労組活動家、急進的自由主義者が標的になり、徹底的な取締りと起訴が行われた。目の敵とされた平和祈念同盟のメンバーに至っては、集会で発言した後に規則違反で逮捕される始末であった。その凄まじさを代表するエピソードがある。ある男性がフィッシュ・アンド・チップスの店を訪れていた。「馬肉」というイギリス人にとってはカニバリズムの響きすらある食品の販売にも行列があり、外食には金額制限があった時代である。大変美味な(検閲削除)、ソウルフードとも言うべきフィッシュ・アンド・チップスを堪能し、自由だった平時を思い出したのだろう。戦時下である事を忘れ、男は婦人に「イギリスは戦争に勝つ見込みはないよ」と語ってしまう。どのような経緯で警察に通報されたかは定かではないが、男は防衛規則39BA違反で一ヶ月間投獄される羽目になった。庶民院の討議(西暦1940年10月23日)では、防衛規則39BAについて、「H・G・ウェルズ――平和主義者として有名――は起訴されるのか」という質問が飛び出しており、誰もが投獄される可能性があった事がわかる。防衛規則による直接的な弾圧以外にも、「自主規制」という名の言論統制が活用された。新聞社は疑いのある記事内容をプレス検閲局に事前に提出し、削除を求められた場合には素直に記事を削除した。防衛規則の萎縮効果を考えると、「カン違いしないでね? お願いじゃないの、命令」以外の何物でもなかったからである。こうして各新聞の記事内容に統一性が生まれ、違ってるのは新聞の名前だけのような状況が生まれた。独立性を有しているはずのBBCでさえも、西暦1940年12月のクリスマス番組で聖歌隊を指揮する予定だったロバートソンという人物が「平和主義者」であったという理由で放送そのものを中止した。第二次世界大戦後の緊急事態においても、西暦1982年のフォークランド紛争でのBBCの客観的な報道――「我が軍」ではなく、「イギリス軍」と呼称した――事から端を発する「我が国はこれで良いのか」放送中止事件、西暦1988年から開始された北アイルランドのテロ活動の取材の放送禁止措置などが物議を醸したように、国家安全保障と言論出版の自由との間の緊張関係は今日まで続いている。

議会と裁判所は何をしていたのか

   第一次世界大戦における議会と裁判所は、戦時内閣に国民の生殺与奪の権をギフト封筒に入れて贈呈するだけの「チャールズ1世の靴磨き」だった事は前にも述べた。果たして第二次世界大戦はどうだったのだろうか。少なくとも議会については不十分ながらも、その任を果たしたと評価できる。国王への立法権の委任により、議会は立法機関としては主役から降りている。議会に求められるのは、戦時内閣の監視機関としての役割であった。ヒトラー一味をどのようにブチ殺すのか。この防衛規則は本当に必要なのか。ここまで苛烈な報道管制は必要なのか。その他様々な論争的な問題について、議会は徹底的な質問を加えた。これらの質問は問題の本質を的確に示すものも多く、首相官邸に生息する葉巻好きのブルドッグも「我々は決して降伏しない」とは言わず、政策の修正に応じる事もあった。無能、怯懦、虚偽、杜撰。どれを取っても、第一次世界大戦時のイギリス議会を形容するには不足していたが、第二次世界大戦時のイギリス議会は打って変わって議会としての本能を目覚め、「一九一四年から一九一九年にかけての『屈辱的地位』への転落が繰り返されることはなかった(クリントン・ロシター)」という評価を獲得するまでに至った。イギリス人にも人間同様に海馬が存在し、反省という言葉を記憶していたのだろう。
  しかしながら、こうした議会の評価に対しては一定の留保が必要である。あくまでも戦争遂行の主役は内閣であり、その評価は主演男優としての評価ではなく、助演男優としての評価であるからだ。例えばチャーチル挙国一致内閣の成立後には「反対党」が消滅し、戦時内閣への抵抗は個々の議員――ジンジャー・グループとも呼ばれる――の手に委ねられた。それらの抵抗は決して無力ではなかったが、戦時内閣の存立を脅かす「議会の抵抗」にはならなかった。チャーチルに対する信任投票も実施されたが、やはり儀式的な要素が拭えない。国民生活に甚大な影響を与えている防衛規則に対する議会の事後承認も、議会の処理能力を超えてしまっていた。第一次世界大戦下の国土防衛法にて布告された規則と比較しても、布告された防衛規則が余りにも膨大だったからである。更に議会への防衛規則の提出が著しく遅延したり、そもそも提出されなかったりすると完全にお手上げ状態になった。また、戦時内閣の戦争指導を正確に評価しようにも、敵に利するとされる情報は議会には提供されなかった事や上述したように議員特権を無視して議員を拘禁した事からもわかるように戦時内閣と議会の関係は決して対等とは言い難かった。議会を無視しようと思えば、チャーチル達は議会を無視し得たのである。このような戦時議会の評価の難しさは、比較は難しいが戦前日本にも当てはまる事が多い。
 さて、裁判所ではあるが、ご想像通り評価は芳しくない。上述したように国家緊急権(防衛)法は、裁判所が防衛規則を司法審査により無効にする事を事実上不可能にしてしまった。それでも防衛規則の手続的瑕疵などでチャーチルが美味しそうに咥える葉巻の火を消すような嫌がらせは可能のはずだった。だが、一部の下級審を除けば、裁判所は内務大臣の裁量の拡大を容認し続けた。リバーシッジ判決の中でロマー裁判官は次のように述べている。議会制定法(法律)の解釈が複数存在あるならば、裁判所は「最も国民の自由への侵害にならない解釈を選ぶべきであるが、国家的緊急事態の場合にはその国の安全を危うくしないような解釈を選ぶべきである」と。確かにその一面はあるだろう。同判決でマクミラン裁判官が述べているように、裁判所は緊急事態下で政府の行動について妥当性を判断する為の知識と経験を有していない。しかしながら、多数派の圧制に苦しむ少数派の為に裁判所が自らの職務を放棄した時、誰が蜘蛛の糸を垂らすのだろうか。圧制も解放も人間の所業であり、神の職分ではない。大変慈悲深い筆者の語彙力でも、裁判所については「国王の靴を舐めるのが上手くなったな」という言葉以外には出てこない。

両大戦が遺したもの

 ドイツが誇る至高の芸術家アドルフ・ヒトラー氏は廃墟となったベルリンという二十世紀最高の芸術作品に満足できず、自らの頭を撃ち抜いた。ここに欧州における第二次世界大戦は終結する。国家緊急権(防衛)法も自らの任務終了を悟って、西暦1946年2月24日には期限切れとなる。しかし、第二次世界大戦の戦時統制は国民生活の隅々にまで浸透しており、その全てを廃止するのは困難を極めた。加えて、戦後の大混乱期は緊急権という便利な「悪魔」をまだ必要としており、時の政権により延長が繰り返された。最終的に第二次世界大戦下の緊急権が廃止されるのは、西暦1964年12月31日――1959年緊急事態法(廃止)法――を待たねばならない。 
 さて、国家緊急権(防衛)法を始めとする第二次世界大戦下の戦時立法の評価についてである。結論から述べると、第一次世界大戦時の教訓は良くも悪くも生かされたと言える。緊急権は議会の統制の下で(当社比で)抑制的に行使され、何よりも党派を超えた広範な国民の支持を獲得した上で実施されたからである。この支持には、上位所得層への累進課税、食糧補助金や家族手当制度などの社会の「平準化」を実現する政策が戦時下という大義名分で推し進められ、戦時体制の「報酬」を国民が受け取っていた事も影響してるかもしれない。だが、そうした点を差し引いても、イギリスにとっては第二次世界大戦がファシズム打倒の為の「大衆の戦争」であった事は否定されない。 
 しかしながら、ブリティッシュ・ジョークを介さない無粋な極東の島国に住む筆者は指摘せねばならない。第二次世界大戦があらゆる緊急権を正当化する必要性と緊急性を兼ね備えていたとしても、勝利の犠牲になった人間の権利と自由の墓標は立てねばならないと。そして、その墓標に刻まれる警句は「〇〇〇の再来」などという陳腐化した警句ではあってはならないと。西暦2021年現在のイギリスでも、憲法的法律の停止又は改正が可能な緊急事態規則の制定を女王に認める2004年民間緊急事態法が存在しており、「内閣独裁」という悪魔は出番を心待ちにしている。悪魔をどのように使いこなすか。それは国民が平時に民主主義をどのように成熟させるかに懸かっている。緊急事態下で行われる全ては平時の総決算でしか無いのだから。 果たして戦時という究極の緊急事態はブリテン島を再び襲うのだろうか。それはわからない。だが、国土防衛法を凌ぐ全権委任を実現したカナダ戦時措置法の廃止に関与したマーク・ファーランド下院議員※1は言う。「2度あることは3度ある(Never twice without a third time)」と。

――次回、「      」。来世も女王陛下と地獄に付き合ってもらう。



※1 「2度あることは3度ある(Never twice without a third time)とはよく言われる。悲しいことに、WMA(戦時措置法)はこの言葉をより真実なものにした。4度目は課されないであろうし、3回で十分なのだ」1987年カナダ庶民院第33議会期第2会期での発言。ここで言う3回とは、第一次世界大戦、第二次世界大戦、そしてオクトーバークライシス(10月危機)を指す。同法は国土防衛法に負けず劣らずのディストピアをカナダに生み出した。

参考文献
・衆憲資第 45 号 「非常事態と憲法(国民保護法制を含む) 」 に関する基礎的資料 安全保障及び国際協力等に関する調査小委員会 (平成 16 年 3 月 25 日の参考資料) 
・立憲独裁 現代民主主義諸国における危機政府(著 クリントン・ロシター/訳 庄子 圭吾)
・第二次大戦下イギリスにおける市民的自由(一)(二)(三・完)法政論集127-129号(著 植村勝慶)
・チャーチル―イギリス現代史を転換させた一人の政治家増補版(著 河合 秀和)
・英国憲法入門(著 エリック・バーレント/訳 佐伯 宣親)
・イギリス憲法―議会主権と法の支配 (著 田島 裕)
・「国家総動員」の時代―比較の視座から―(著 森 靖夫)
・近代イギリスの歴史 16世紀から現代まで(編著 木畑 洋一/秋田 茂)
・憲法と緊急事態法制 カナダの緊急権(著 富井 幸雄)
・ぼくたちの戦争 イギリスの学童疎開(著 ベン ウィックス/訳  都留 信夫 都留 敬子)
・21世紀 イギリス文化を知る事典 (著 出口 保夫他)
・戦時下ノ英国事情(著 在イギリス日本大使館/外務省欧亜局第三課)
・ War: Animals Under Fire 1939 -1945(著 Clare Campbell)
Imperial War Museums
BBC ww2peopleswar 
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