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小説『それでも私は“春”を描く』(作:親王)

「卒業式であいつら、殺してやろうよ」
 美術室。椅子に座ってキャンバスに向き合う私に、冬美は言った。
 窓の外ではしんしんと雪が降り積もっている、12月のことだ。茶色い板を敷き詰めた美術室には私たち以外誰もいなくて、隅の方では灯油ストーブが赤々と熱を発している。作りかけの石膏像が壁に沿って並べられている。
「殺すって、冬美それはまずいよ」
 私は筆をとめ、立ち上がった。
「殺すって、本当に殺すわけじゃないし」
 深刻すぎた私の顔に、冬美は吹き出した。
 私はほっと胸を撫で下ろした。冬美ならやりかねない、そう思っていたからだ。
「じゃあなに、殺すって」
「それはね」
 冬美は得意げな笑みを浮かべる。「あいつらがいままでわたしにしてきたイジメを絵に描いて、全校の前に晒すの。あいつらを、社会的に殺してやろうってわけ。どう? わたしたちらしい復讐でしょ」
 冬美は言って、ウィンクをした。冬美は私以外の前では、決してそんな仕草はしない。
「どうかなあ」
 私は逡巡した。
 つまり冬美は、美術を復讐の道具に使おうとしているわけだ。私たちの高校生活で、唯一の拠り所であったと言っても過言ではない美術を。
「だから、その絵を描いて欲しいの」
 冬美は顔の前で手を合わせた。「報酬は払うから、楽しいアルバイトだと思ってさ」
「でも……」
 私は描きかけのキャンバスに視線を逸らした。背景となる3年E組の教室が描きかけだ。いい思い出はなかったけれど、だからこそ美術で昇華したいと思った。
「っていうか、自分で描けばいいじゃん」
「だって、わたしリアルな人間描けないんだもん」
 冬美は不貞腐れたように言って、壁に飾られた1枚の油絵に目をやった。私が描いた、『共生』という絵だ。異なる肌の色をした5人の子供たちが、四葉のクローバーを輪になって見つめている絵。この絵で私は、県内最優秀賞をもらった。
「ね、いいでしょう。晒すときはわたし1人でやるからさ」
 冬美は言って、また手を合わせた。
 そのあと結局、私は押し切られる形で冬美の依頼を引き受けてしまう。冬美は、この学校では唯一の友達だったから。

 私は冬休みまで、毎日放課後の美術室に通った。4年制の大学を受験する冬美は、めっきり美術室には来なくなった。
 描こうとしているのは、トイレの個室に、冬美が閉じ込められた時の絵だ。夏子率いるグループが冬美の入っている個室を囲み、上からバケツを被せようとしている絵。冬美によると、これは高校2年生の冬の出来事だったという。
 私は筆を休めて大きなため息をついた。
 描きかけの絵を見つめて、考える。
 冬美がこのようなイジメを受けたのは、きっと事実だ。このトイレの現場に居合わせたわけではないが、一度、夏子たちが冬美のスクールバッグをあさり、財布から千円札を抜いていたのを見たことがある。
 それならば、夏子たちは糾弾されなければならない。罪に相応しい罰を、受けなければならない。
 けれど、この絵は描いていて楽しくない。
 そのとき、ガラリ、と扉の開く音がした。扉を開けた人物を見て、心臓が飛び出そうになった。
 夏子だった。
「ど、どうしたの」
 私はとっさに立ち上がった。夏子の目にキャンバスが映らぬよう、キャンバスと夏子の間に立った。
「秋ちゃん」
 夏子はなんの躊躇もなく、美術室に踏み込んできた。普段私の名前なんか呼ばない声に、私は少し緊張した。
 絵を描いていることがバレたのか。でも、どうして?
 私は今にも破裂しそうな心臓を、必死で落ち着けようとした。そんなことは素知らぬ顔で、夏子は私に近づいてくる。
 夏子は私の目の前まで来て、止まった。相変わらず、綺麗な顔立ちをしている。
 私の目を真っ直ぐに見て、夏子は口を開いた。
「秋ちゃんって、専門学校に行くんだよね」
 意外な質問だった。意外すぎて、質問の意味を理解するのに数秒かかった。
「う、うんそうだけど」
「ほんと!? よかったぁ」
 突然、夏子は胸の前で手を合わせて喜んだ。その表情には、安堵の色が浮かんでいる。
「じゃあさ、結構時間あるよね」
「まあ、あるけど」
「頼みたいことがあって」
「う、うん」
「あたしのヌードを、描いて欲しいの」
「ヌ、ヌード?」
 刺激的な言葉に、私はてんぱった。しかし夏子は、すらすらと言葉を続ける。
「そう。実はあたし、高校卒業したら芸能事務所に入ることになってて。それでさ、体型維持とかもしてかなきゃいけないんだけど、正直言って、今の体がベストだと思うんだよね。だからこの体を、絵に残して欲しくて」
 夏子はくるりと回ってみせた。スカートがふわりとふくらんで、本当に妖精みたいだと思った。
「頼んで、いいかな?」
「しゃ、写真じゃだめなの」
「写真だと、嫌なところまで写っちゃうでしょ。だから秋の技術で、ちょっと捏造もしてよ」
 夏子は言って、ウィンクをした。きらり、と星が煌めくのが見えた。
「わ、わかった」
 気がつくと、私は頷いていた。
 夏子に逆らうのが怖かったから。もちろんそれもある。けれどちょっぴり、夏子の体を描きたいと思った。未来への希望を詰め込んだ、その美しい体を描きたいと思った。
 イジメの絵は家で描くことにして、美術室では夏子の体を描くことになった。
 女子校で、放課後に美術室に来る人も稀だと言って、夏子はなんの躊躇もなく服を脱いだ。
 下着まで外した夏子の体は、本当に綺麗だった。白くてハリがあって、まさに「理想」の体型だった。
 まず私は、夏子の体を近くで観察することにした。そこで、あるものに気がついた。
「これは」
 夏子の胸に赤い痕があった。何かで引っ掻いたような、擦り傷みたいだった。
「ああ、これ。彼氏にやられたの。爪切らないのよあのバカ。描かないでよ、こんなの。恥ずかしいから」
 夏子は舌を出して、いたずらっぽい笑みを浮かべた。
「わ、わかった」
 私はさして驚いた様子を見せずに了承した。しかし内心、雷に打たれたような衝撃を受けていた。
 同じ年代、同じ土地に生まれて、同じ学校に通って。それなのに、どうしてこんなに差があるのか? 夏子と私は同じ世界にいるようで、全く違う世界にいるんだ。
 落胆と嫉妬がない混ぜになった感情を押し殺し、私はスケッチに入った。一度スケッチに入ると、さっきまで胸の中にかかっていた靄が晴れていくのを感じられた。
 落胆も、嫉妬も全てが芸術に昇華されていく。だから美術は、やめられないんだ。

 夏子の絵を描くのは、楽しかった。未来を拓く美術、そんな感じがした。それに、会話も弾んだ。夏子はいつの間にか私のことを「秋」と呼び捨てにし、私はそれが嬉しかった。
 
 冬休みが明けたあとの、ある日のことだった。夏子は私の好きなケーキ屋さんのケーキを、美術室に持ってきたのだ。
「え、これどうしたの!?」
 私は思わず大きな声をあげた。
「いつものお礼。秋、ここのケーキ屋さん好きって言ってたでしょ」
 夏子はケーキの箱を机の上に置いて、得意げに言う。
「え、私喋ったっけ」
「秋が教室で喋ってるの、盗み聞きしちゃった」
 夏子は言いながら、ケーキの箱を開封した。イチゴをのっけた白い生クリームが、ふわりと現れた。
「一緒に食べよ」
 夏子は言って、紙皿とフォークを机に置いた。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
 私は笑って、夏子の前に座った。
「あの絵、本当に好き」
 ケーキを食べはじめてからしばらくしたところで、夏子が視線を上に向けて言った。その視線の先には、私の描いた『共生』の絵があった。白い壁に、額縁に入れて飾られている。
「ほんと? ありがとう」
「うん。本当にいい絵。あたしも将来、こうやって世の中を動かすような演技がしたいな」
「世の中を動かすなんて、大袈裟だよ。県内で表彰されただけだし。動いたのは、県の教育委員会くらいだよ」
 私は冗談めかして言った。その言葉に、夏子は「たしかに」と微笑んだ。
 そのときだった。
 ガラリ、と扉の開く音がした。扉を開けた人物を見て、心臓が飛び出そうになった。
 冬美だった。
「ど、どうしたの」
 私はとっさに立ち上がった。さっきまで口の中に広がっていた甘い風味は、一瞬でどこかに消えてしまった。
 冬美はしばらくその場に立ちすくんでいた。夏子と私の顔を、交互に見る。すると冬美は何も言わずに、廊下を駆け出してしまった。
「まって!」
 私は美術室を飛び出して、冬美を追った。夏子が後ろで何か言ったような気がしたが、構わず冬美を追った。
 昇降口のところで、やっと冬美に追いついた。
「待って、違うの。違うの」
 私は靴を履き替えようとする冬美の腕を掴んだ。
「放してよ!」
 冬美は怒鳴って、私の手を振り払う。その目は赤く充血し、潤んでいた。
「ねえ、本当に違うの。聞いて、これは――」
 私は思考を巡らせた。なにか、冬美を引き止められる言葉を。「――これは、作戦なの」
 私が言い切ると、冬美は動きをピタリと止めた。潤んだ赤い目で、私を見上げる。まだその目には、猜疑の色が色濃かった。
「いま、夏子ちゃんのヌードを描いてるの。全裸の絵。それも一緒に拡散したら、きっとあの子は学校どころか、社会的にも死ぬと思わない?」
 私は口角を引きつらせて言った。我ながら恐ろしい顔で、恐ろしいことを言っていると思った。
 冬美は依然として睨みつけるような目で、私を見つめていた。しかしその表情は、突然ふっと緩んだ。
「大好き」
 言うや否や、冬美は私に抱きついた。私もその背中を、ぎゅっと抱きしめた。
「裏切られたと思ったよ」
 冬美が涙ぐんだ声で言う。
 私は一瞬躊躇したが、口を開いた。
「裏切るわけないじゃん。親友なんだから」

 美術室に戻ると、夏子は雑巾で床を拭いていた。
「大丈夫だった?」
 夏子は立ち上がって、私に近づいてきた。私は扉を閉めて答える。
「うん。まあいろいろあって。夏子ちゃんには関係ないことだから、大丈夫。それより、ごめんケーキこぼしちゃって」
 私は夏子の持っている雑巾にクリームがついているのを見て言った。夏子は首を振る。
「ううん。大丈夫。また今度持ってくるね」
 夏子は窓沿いに設置された蛇口をひねって、雑巾を揉んだ。
 私は埃だらけになったケーキを乗せた紙皿を手に取り、トイレに持って行こうとした。
「秋って、冬美と仲良いよね」
 背後で、夏子が言った。
 どきりとした。私は足を止めて、夏子を振り返る。夏子は雑巾を揉みながら、続けた。
「お弁当とかもいつも一緒だよね。でも気まずいなら、あたしたちの席に来なよ。秋なら大歓迎だよ」
 夏子は蛇口を止めて、雑巾を絞る。じょろじょろと、捻られた灰色の布から水が滴った。
「気まずくなんかないよ」
 硬派な声が、美術室に響いた。夏子は雑巾を絞る手を止め、こちらをまじまじと見つめている。それではじめて、今の声は自分が発したのもだとわかった。
 私ははっとして、すぐに夏子に背を向けた。それから、重たい口を開いて言い足す。
「ごめん。もう帰ってもらっていいかな。今日はもう、絵描く気分じゃないや。ケーキはありがとう。ごちそうさま」
 私は言い置いて、部屋を出た。トイレにケーキの残骸を流し、美術室に戻ってくると、そこに夏子の姿はなかった。

 その日、私は作成中のヌードの絵を持って帰った。
 精神的に憔悴しきった私は、家に帰ると手も洗わずにベッドの上に倒れ込んだ。
 首を回すと、ヌードの絵とイジメの絵が並んで壁に立てかけられていた。イジメの絵はほとんど手をつけていなくて、まだイジメの主犯格である夏子すら描いていない。その夏子は隣の絵の中で、色っぽい肌を露わにしている。
「秋なら大歓迎だよ」
 夏子が放ったその言葉が、気に食わなかった。
 それじゃまるで、夏子が人を選んでいるみたいじゃないか。夏子に選ばれた子たちは上級国民で、それ以外は下級。だったら、今まで私はずっと――
 私はベッドに顔を埋めた。唇を強く噛み締める。
 わかっていた。自分でも薄々気がついていた。それが「秋なら大歓迎」の一言で、名言化されただけじゃないか。
 私は身を起こし、イジメの絵をイーゼルの上にのせた。筆を取って、続きを描き始めた。
 やっぱり、夏子は糾弾されなければならない。彼女のような差別主義者を、生かしてはおけない。
 私はその土日で、イジメの絵をほとんど仕上げた。隣のヌードの絵を見ながら、夏子の顔だとわかるようにはっきりと描いた。

 翌日の放課後、美術室の扉はそっと開けられた。扉の方を見ると、夏子が顔をのぞかせていた。
「今日は、大丈夫?」
 夏子はそろそろと訊いた。
「うん、金曜はごめんね、急に」
 私はわざと明るい声で言った。これは作戦だ、と自分に言い聞かせながら。
「よかったぁ」
 夏子は安堵の表情を浮かべ、美術室に入ってきた。教室では一切話しかけないくせに、放課後の美術室では馴れ馴れしい。
「じゃあ、そこに座って、服脱いじゃって。もう卒業までそんなに時間ないから、ちゃちゃっと描きあげちゃおう」
「頼もしいね、先生」
 夏子は笑って、制服を脱ぎはじめた。
「先生はやめて」
 私も笑って返した。
「ね、本読みながらでもいいかな?」
 席に座ると、夏子が訊いてきた。
 いま描写しているのは下半身が主だ。要求したときにポーズをとってくれれば、上半身はどうでもいい。
「うん。大丈夫だよ」
「お、やったね」
 夏子は言って、傍に置いたスクールバッグをがさごそと漁った。そして取り出されたのは、文庫本のような本ではなく、A4用紙数十枚をホチキスで留めた、手作り感満載の本だった。
「なに、それ」
「これはね、ドラマの台本」
 夏子はその本の表紙を私に見せた。そこには単純なフォントでいま放映中のドラマのタイトルがでかでかと太字で記されていた。
「え、出るの!」
 私は思わず席を立ち上がった。
「まさかあ」
 夏子は本をひらひらさせて笑う。「出れるわけなーいなーい。これはね、練習用に自分で作ったの」
「作った?」
「そう。真似したい女優さんのセリフを全部文字に書き起こして。ほんと、腱鞘炎なるかと思ったよ」
 夏子は笑って、「台本」を開いた。ごほん、とひとつ咳払いをしてから、セリフを真似しはじめる。
 私はしばらく呆然と、セリフを真似する全裸の夏子を見つめていた。
 ドラマ1話分のセリフをすべて文字に書き起こす。それは、気が遠くなるような作業だったはずだ。常人には、とてもできることではない。でも、いまの夏子にはそれができる。
 その理由が、美術を志す私にもよくわかった。
 未来に希望を抱いているからだ。

 私は家に帰って、ほとんど完成したイジメの絵を見つめた。
 イーゼルにのったその暗いトーンの絵は、きっと、夏子の未来を真っ黒に塗りつぶすだけの力がある。私の美術が、夏子の「人生」というキャンバスを黒く染めるのだ。私は生涯のパートナーになるであろう自分の美術に、前科を持たせようとしているのだ。
 そんなことは、絶対、あってはならない。

 卒業式前日。私は完成したイジメの絵を冬美に見せた。
「いい! 夏子たちだってすぐわかるし」
 誰もいない美術室で、冬美は絵を持って頷いた。
「そういえば、例のヌードの絵は?」
「ああ、それなんだけど、夏子途中で忙しくなっちゃったみたいで、間に合わなかった」
 嘘だった。ヌードの絵は約二週間前に完成し、夏子に渡したのだ。
「そっかぁ。まあヌードは流石に、わたしたち訴えられちゃうかもだから、それでよかったのかもね」
「そうだね」
 冬美の言葉に、私はほっとした。上手く誤魔化すことができたみたいだ。
「じゃあ袋はこれで」
 私は机の上に、不透明な銀色のビニール袋を広げた。
「おっけー」
 冬美は手に持った絵を縦にして、それをゆっくりと袋の中に入れた。
 明日の作戦は、以下の通りだ。
 卒業式前日である今日、女子トイレの掃除用具入れの中にこの絵を袋ごと置いておく。そして明日の式中、冬美は適当なタイミングでトイレに立ち、絵を手にして戻ってくる。それから冬美は突然壇上に立ち、生徒の気を引いた上で絵を掲げるのだという。
 卒業式だからこそできる、大胆極まりない作戦だ。
「じゃあ私、この絵置いてくるから。美術室の鍵返して、昇降口でまってて」
 私はそう言うと自分の荷物と銀色のビニール袋を持って、美術室をあとにしようとした。
「秋」
 扉に手をかけようとしたところで、冬美が私を呼び止めた。私は動きを止めて、振り返る。
「ありがとうね。秋がいなかったらわたし、たぶん学校辞めてたよ」
 2年間浮き続けた末に、やっと出会えた2人。それは水溜まりに浮いていた枯れ葉が、やっと仲間を見つけて隅っこに溜まるようだった。もしどちらかが途中で学校を諦めていたら、お互い今も独りだったかもしれない。
「ありがとう。私もだよ」
 私はめいっぱいの笑顔を浮かべて言った。

 卒業式当日。
 体育館にパイプ椅子を並べ、全生徒が壇上の方向をむいて座っている。しんと静まった空間で、在校生代表の言葉がマイクを通して館内に響き渡っている。
 私は最後まで、冬美が作戦を実行に移すのか疑っていた。もしかしたら、卒業式の雰囲気に呑み込まれて、実行を思いとどまるかもしれない。それはそれでいい。できることなら、そうして欲しい。
 しかし、冬美は動いた。
 在校生代表が送別の言葉を述べるなか、私の前方に座る1人が席を立った。姿勢を低くして、壁沿いの通路を通って体育館後方に歩いて行く。その横顔は間違いなく、冬美だった。
 私は鼓動が速くなるのを感じた。私としても、この作戦がどのような着地を見せるかわからなかったからだ。
 在校生代表の言葉も、意味のないただの雑音に聴こえてくる。
 やがて冬美が戻ってきた。手には銀色の袋を提げている。冬美は自分の席に続く通路では折れずに、そのまま体育館前方に直進していった。
 私はごくりと固唾を飲んだ。
 冬美は本当に、やる気だ。
 冬美はドンドンと足音を立てて壇上に登った。在校生代表が言葉を切り、驚いた様子で冬美の方を見る。
 会場がざわついた。ざわつく会場を制するほどの声量で、冬美が口を開いた。
「わたしは、この学校でひどいイジメにあってきました」
 冬美はそう言うと、銀色の袋をはずして絵を頭の上に掲げた。会場のざわめきは、さらに大きくなった。後方の保護者席からも、動揺の声が聞こえてくる。
 冬美は続ける。
「わたしは、この絵に描かれている人に、いじめられてたんです。トイレに閉じ込められて、上からバケツをかけられました」
 会場のざわめきは一層大きくなった。冬美は周囲から見てわかるほどに大きく息を吸い、最後に言い放つ。
「だからこれは、わたしなりの復讐なんです!」
 冬美が特大の声で言い放つと、それに圧倒されたかのように会場が静まった。
 私も息をとめていた。これから先どうなるのか、全く予測がつかない。
 そのときだった。
 会場の右側後方、おそらく保護者席のあたりから、パチン、と手を叩く音が聞こえてきた。すると今度は左側後方から、パチン、と手を叩く音がした。その音は伝染するように広がっていき、やがて至る所から手を叩く音が聞こえはじめた。保護者だけではない。在校生や卒業生、唖然として冬美を見つめていた司会進行の教師までもが、手を叩きはじめたのだ。
 それは冬美に向けられた、拍手喝采だった。
 冬美も周りの反応に違和感を覚えたらしい。自分で掲げている絵を確認した。
 その絵は、イジメの絵ではなかった。それは、3年E組の教室を背景に、冬美と夏子が卒業証書片手に笑い合っている絵だった。
 絵がすり替わっていることに気がついた冬美は、取り乱した。
「違う、待って、この絵じゃない」
 しかし、既に拍手の音に満たされた会場では冬美の声は響かない。
 今だ――。
 私はガタンとパイプ椅子を鳴らして、立ち上がった。両隣のクラスメイトが、立ち上がった私を見上げる。
 私は大きく息を吸って、大声を絞り出した。
「夏子ちゃん!」
 声は届くだろうか。私の前方に座って、壇上を呆然と見上げている夏子に、届くだろうか。いや、届けるのが、2人の絵を描いた私の責務だ。
「世の中動かしたいんなら、まずはここから!」
 私はますます声を張り上げて、言い放った。喉に張り裂けるような痛みが走った。私は喉を手で抑えて、うずくまる。
 あとは、夏子次第だ。たとえ今の叫びが届いていなくても、あの絵は私の描いたものだと、夏子にはわかるはずだ。
 私は夏子を見上げた。すると、夏子はすでに立ち上がっていた。
 私は目を見張った。
「冬美ちゃん、本当に、ごめんなさい!」
 夏子が叫んだ。女優志望ということだけあってか、拍手の中でもよく通る、鮮やかな声だった。
 夏子の一声に、会場は一瞬静まった。冬美は夏子の方をまじまじと見つめて、動きを止める。冬美の手から、すとん、と絵が落ちた。
 夏子は涙を浮かべて続ける。
「トイレに閉じ込めたのも、財布からお金を抜いたのも、それ以外にも、嫌なことたくさんした! 全部あたしがやった! 気が済むまで謝るし、なんでもする! その後でもいいから、あたしと、友達になってください!」
 夏子が言い切った。息も絶え絶えに、震えた声で言い切った。
 冬美はその場に膝から崩れ落ちる。手で顔を覆い、しゃくり上げた。いろんな感情が混ざった、涙だったと思う。
 喉を抑えながら立ち上がった私は、その光景を眺めた。立ち上がった夏子が、壇上で泣き崩れる冬美を見つめている。
 これでよかったんだ。
 私は、自分の顔が自然にほころんでいくのがわかった。
 私が描きたかっのは、冬でも、夏でも、ましてや秋でもない。私が描きたかったのは、やさしい日差しの下、誰もが笑顔で歩み出す、"春"の絵だ。
 
(完)