小説『名もないマスク』(作:雫)

 美術室の鍵はもう誰かに借りられていたらしい。自分だけの楽園に侵入者がいると思うと、私は美術室に行くのがとても億劫に感じられた。毎週木曜日の放課後に私が一人で美術室に籠っていることは、美術室の鍵を管理している根本先生しか知らない。学校内に特別仲がいい友達もいない私にとっては、毎週木曜日のこの時間が唯一の楽しみであった。これまで、放課後にわざわざ美術室に来るような物好きな人もいなかっただけに、いつもマスク越しでもわかるほど笑顔が眩しい根本先生が困った顔をしてきた時は心底驚いた。廊下に映るオレンジ色に黒色を重ねながら、私はそれでも好奇心に勝てなかった。
 美術室の前に着いてから、私は違和感に気付いた。美術室の扉の下から廊下の先に向かって絵の具の跡が点々と五月雨式に落ちているのだ。誰がパレットから零してしまったのか、どうしてちゃんと片付けなかったのかと思う半分、私の好奇心はすぐさま絵の具の行き先に引き寄せられた。

 結論から言えば、絵の具の行先は行き止まりであった。廊下の先に続いていた絵の具の跡を追って階段を降り、さあこれからだと言うところなのに、その跡は階段の下でぱったりと消えてしまっていた。
「え、何もないじゃん」
 放課後に一人で美術室に籠る生活に少し飽きを感じていたのだろう。いつもの日常にピエロが遊びに来たみたいな愉快さを感じて膨らんでいた好奇心の風船は、みるみる空気が抜けていくみたいにしぼんでしまった。
「掃除しますか」
 このまま絵の具を放置すると後で何か言われてしまうのは根本先生だろう。いつも快く美術室の鍵を貸してもらっているだけに、根本先生に迷惑がかかるようなこの状況を、見て見ぬふりをするのはできなかった。雑巾を取りに行こうと後ろを振り向いたとき、銀色の艶やかな毛並みを持った何かが目の前を通り過ぎた。
 「え、オオカミ?」
 思わず自分の目を疑った。『いつもの日常』なら絶対にあり得ないことだ。ただの学校に平然と動物が、しかも狼が歩いているなんて。慌てて周りを見渡しても狼らしき動物はすでに姿を消していて、自分以外に人一人も見つけられず、本当にさっきのは狼だったのかを確かめる術もなく、もしかしてさっきのは自分の幻覚だったんじゃないかと思い始めた。
 「まあ、オオカミなんているわけないか。」
 きっと疲れているのだろう。今日は小テストが二つもあったせいで昨日は夜遅くまで勉強していたのだ。今日は帰ったら早く寝ないと、と思いながら本来の目的であった雑巾を取りに行こうとすると、何かに引っかかって転びそうになった。
 「うわっ! あっぶな~」
 今度は何?と次から次に起こるいつもの日常以外の不可解なことにそろそろ痺れを切らしていた私は、ため息を付きながら足元を見た。
 「なにこれ、マスク?」
 足元に落ちていたのは白いマスクだった。でも、そのマスクはただのマスクじゃなかった。
 「素敵なマスクを探しています、ご存じの方はご連絡ください……ってなにこれ」
 そのマスクには絵の具を使ったであろう、屈託のない文字でそう書かれていたのだ。素敵なマスクを探しています、素敵なマスクを探しています、素敵なマスク、素敵なマスク、素敵なマスク……
 「いや待ってよ、素敵なマスクって何?」
 考えてもわかるわけがない。素敵なマスクって柄の話? それとも形の話? というかマスクに素敵かどうかなんてあるの? あるとしても人それぞれじゃない? それになんでマスクにこんなことが書いてあるの?そもそもなんでこんなところにマスクが落ちてるの?
 「あ~もう、やめやめ!」
 考えても考えてもただ頭の中が絡まって、そのまま永遠にほどけなくなりそうな予感がした私は、とりあえずまずは雑巾を取りに行って、絵の具を拭いてから考えることにした。そういえば美術室に誰か居るよね? その人に聞いてみようかな。あ! 根本先生に聞くのもアリ。
 「よ~し、やりますか!」
 なんだか小説の主人公みたいな、探偵みたいな気持ちになってきた私は、こうしてはいられない、と階段を一つ飛ばしで駆け上がった。

 この時の私は、さっき見た白狼のことなんてすっかり頭から抜け落ちていたのだ。その狼が全ての元凶だと気付くのは、もう少し後の話。