小説 『花になった女』(作:いるかペンギン)

 花になりたい。それが彼女の夢だった。
 幼い娘が美しい花弁に魅了され、自己を花に投影しているとしたら、それはまだ可愛げな話として理解が追いつく。しかし、来月に30を迎える人間が抱くような夢としては、いささか狂気的であると言っても過言ではない。
 何も昔から、将来の夢が花になることだったのではない。ふとした瞬間に、頭の中に赤い花弁が浮かび、それが自分の求めていたものだと知ったのである。その赤い花というのは、まさしく彼岸花であった。なぜ彼岸花なのか。それはきっと、道端に咲いているのを見たとか、そんな些細な理由だ。
 彼女は異常なほどに彼岸花へ執着していった。彼岸の時期にしか日の目を見ないという儚さ、そして、その短い間に発する圧倒的な美しさと残酷さが彼女の心を掴んで離さなかった。これまでの彼女の人生を考えると、そんな彼岸花の境遇が強い憧れとして眼窩に刻印されたのかもしれない。
彼女は元来内気な性格で、人前に出るということをできるだけ避けてきた。自分の殻の中に籠り続けるということを長期間続けると、知らずのうちに、人目に触れずに生活を営めるようになるから面白いものだ。知り合った人間にも名前を覚えられることなく、その存在は時間と共に薄れていく。彼女が自分の価値というものに意識を向け始め、殻を出ようとした頃には時すでに遅し。彼女は生涯獄中の身となってしまった。
 その牢獄の鍵を壊してくれるかもしれないもの、それが花との同化だったのだ。
 彼岸花になると言っても何をすれば良いかわからなかったので、まず手始めに、道端に立ってみることにした。電柱の傍に立ち、何をするでもなくただ1日を過ごすのだ。
 彼女の前を、人や車が通り過ぎていく。細い道だったこともあり、通りかかった人々は立ち尽くしている彼女を不思議そうに見る。しかし、それも一瞬のことだ。1人の男性を除いては、まるで見てはいけないものを扱うような仕草で進行方向へ顔を戻してしまう。
 彼岸花のような、圧倒的な存在感を彼女は求めた。そこで、2日目からはゾンビのように手を上にあげ、指を広げて彼岸花の花弁を表現してみた。すると、困ったことに前を通る人は目もくれない。早歩きで通り過ぎるだけではないか。
 まだ足りないのだ。そう思い、次に彼女は、全身を赤い絵の具で塗り固めた。水で溶いた絵の具をバケツにたっぷりと用意し、頭からそれを被ったのだ。はたから見れば、血塗れの女が立っているという戦慄。しかし彼女としては、また一歩彼岸花に近づいたのだという満足感で胸が熱くなっていた。
 さて、その女が細い道に立ち尽くしていればどうなるかは言わずともご理解いただけるだろう。しかも、血塗れの女がゾンビのように手を高くあげ、襲いかかるようなポーズをしているのだから、もはや比喩を使わずとも、それはゾンビと言える。
 その日は、1人の男性だけが彼女の前を歩いた。それも、ゆっくりと、彼女を吟味するように、じっと見つめていたのだ。あろうことか、その男性はその女性に話しかけた。
「美しい。この数日、君をみていたが、まさかここまで化けるとは。恐れ入った。君は僕がこれまで出会った花の中でも圧倒的だ」
 この言葉が、彼女の目頭を熱くした。圧倒的。その6文字が彼女の脳内で何度も何度も再生される。一音一音が魅力的に感じられた。しかも、彼は彼女のことを何と表現したであろうか。そう、花だ。彼は、彼女を理解したのだ。その事実が、とうとう彼女の目から涙を溢れさせた。
「そんなに泣いていたら、情熱的な赤色が流れてしまうよ」
 彼は優しく言い、頬につたう涙を指で拭った。
「僕の家に来ないか? 君がもっと輝ける、最高の場所がある。君はこの世界のどんな花よりも美しくなれる」
 彼女はそのまま彼についていった。彼の家は白塗りの四角い大きな建物で、美術館かと思えるほど、芸術的な作品が至る所に置かれていた。それらの全ては女性のマネキンで、鮮やかな装飾が施されていた。蒲公英、薔薇、紫陽花。いろんな季節の花が並んでいる。
「君はもっと輝ける。そのためには、こうしないとね」
 狭く窓のない部屋に入るなり、彼はそう言い、ナイフで彼女の指を1本1本縦に切り裂き、仕上げとして額に長い切り筋を入れた。
 赤黒い血液が流れ出してくる。額から垂れてくる血は顔全体をどす黒くした。生暖かい感覚が彼女を襲ったが、不思議と痛みは感じなかった。とうとう彼岸花になれるのだという幸福感だけが、彼女を包み込む。
 幸福感に浸っている間にも、彼は体のあちこちを刻み始めた。腕を裂き、胸を裂き、腹を裂き、足を裂いた。みるみるうちに、絵の具の赤色は消え失せ、濃い血の色が彼女を覆った。
 全身に暖かさが行き届いた頃、彼は言った。
「君はなんて素晴らしいんだ。生まれてきてくれてありがとう」
 そうして、彼女は彼の12番目の作品になった。