小説 『選択』(作:いるかペンギン)

             1  2018年 冬

 あの冬の始まりからもう10年が経とうとしていることを、僕は信じられずにいる。空気の澄んだ12月の景色は相変わらず鮮明だったが、頭の中に思い浮かべる彼女の笑顔は霞がかかったようにぼやけていた。濃霧の中、彼女がこちらに手を振っている。でも、表情を見分けることはできない。
 彼女の推し、好きだった音楽、半月をかけて読んでいた分厚い小説の題名。今となっては、その全てを思い出すことができない。どんなに記憶の引き出しを開けたところで、なんの糸口も見つからないのだ。さらに言えば、なぜあんなにも狂ったように彼女の写真を撮り続けていたのかさえ、わからずじまいになってしまった。
 10年。それは浜辺に打ち寄せる波に似ている。頑張って高く積み上げた砂の城が一瞬で更地になってしまうのと同じように、時が全てを奪ってしまった。10年前にはまだ出会ってもなかった2人が結婚をして子供を育てているかもしれないし、ピンピンして仕事をしていたサラリーマンが癌で死んだかもしれない。人が何かを得て、そして失うのに、10年という歳月はあまりに十分すぎるのだ。
 

         2  2008年 冬

「ねえ、いい加減撮るのやめてよ。恥ずかしいじゃん」
 美咲が顔を赤らめているのが、ファインダー越しからでもわかった。黄色いイチョウの葉が舞い降りるなか、顔にかかった髪を耳にかけて笑っている。その瞬間、「僕はこの笑顔を記録するために生きているんだ」という強い思いに囚われる。そして、恐る恐る、まるでシャッターを切るたびに命を削られるかの如く、慎重にシャッターを切った。しかし、命が削られるかの如くというのは単なる例えでなく、本当のことだった。美しい写真を撮るとき、僕の心臓は激しく脈打って、倒れないのが不思議なくらいだったのだから。
「うまく撮れた?」
「最高だよ」
 カメラの画面を覗こうとする美咲の体が肩に触れて、顔が赤らんでるのが自分でもわかった。
「あ、顔赤くなってる」
「なってないよ!」
「なってるって。もう。照れ屋さんなんだから」
「美咲だってさっき赤くなってたじゃないか! ほら!」
 証拠写真を見せようと、慌ててさっき撮った写真を見せようとしたが、そこに美咲の赤らんでいる顔は映っていなかった。ちょうど落ちてきたイチョウの葉っぱが顔にかかり、表情が見えなくなっていたのだ。
「あれ、撮れてないじゃん」
 美咲が茶化すように言った。
「次はちゃんと撮るよ」
 そう言ったとき、強い風が吹いた。落ち葉が舞い上がり、目に入ってくる景色は全てが黄色に染まった。そして、その瞬間を逃さないように、僕は慌ててシャッターを切った。

「一太って、どうして写真始めたの?」
 紅葉のシーズンが終わり、木々は細々と見える。本格的な寒さがやってきたというのに、美咲はコンビニで買ったソフトクリームを舐めている。
「どうしてか。別に自分の意志で始めたわけじゃないよ。実は、親父が写真館で働いてて、その影響で小さい頃からカメラを触ってたんだ。初めて触ったのがいつかなんてことも覚えてないよ」
 この話を人にするのは初めてだった。どうして写真を始めたのかはよく聞かれたが、その度に話を濁していた。
「そうなんだ。でも、羨ましいな。打ち込めることがあるなんて」
「羨ましい? 冗談じゃないよ。こんなの何も嬉しくない。僕は親父にカメラを押し付けられたんだ。自分で選択したわけじゃない」
 思わず語調が強くなってしまった。美咲は何も間違えたことを言っていないのに。
「それは自分で選択したことにならないの? お父さんに脅されてカメラやってるんじゃないんでしょう?」
 痛いところを突かれて、何も言えなくなってしまう。結局、自分でなにも選択してないというのも単なるわがままに過ぎない。思い直してみれば、もし選択権を提示されたとしても、僕は何も選べないかもしれない。
「そりゃ自分で選択したのかもしれないけどさ——」
「そんなに嫌なら、やめればいいじゃん。カメラを捨てて、新しく何かを選択すれば?」
 徐々に美咲の苛立ちが募っていくのがわかった。彼女はさっぱりとした性格で、曖昧ではっきりしない人間が嫌いなのだ。
「できないんだよ。僕からカメラを奪ってしまったら、もう何も残らない気がして。怖いんだ。それに、新しく何を選択すればいいのかもわからない」
 彼女はしばらくの間黙っていた。遠くの横断歩道を行き交う人をぼんやりと見つめている。手に握ったソフトクリームは溶けて、ミルク色の液体が手の甲を伝っていた。
「そうだよね。私も何も選択してない。自分が選んだって胸を張れることなんて何もないもの。結局は全て与えられたものなのかもしれない」
「そんな思い詰めてどうしたんだよ」
「ううん。私、なんで生まれてきたんだろうって。私はそんなこと望んでないのに。母親は私を産んで死んだし、父親は妊娠がわかったらどこかに消えちゃった。ほんと、どいつもこいつも無責任なんだから」
 まるで今言ったことを忘れてくれとでもいうように、また23時にね、と言って彼女はそそくさと歩いて行ってしまった。一旦バイトに行って、その後また会うというのが毎週決まった流れになっていた。
 その晩はひどく冷え込んだ。シベリアの方から異常なほど発達した寒波が押し寄せているらしかった。体を刺すような寒さに身を震わせながら、美咲が去り際に一度振り返って言ったことを繰り返し頭の中で反復していた。
「でも、死ぬことだって、私たちには選べないもんね」

 23時になり、待ち合わせ場所になっている駅に向かった。ちょうど美咲も到着したところで、駅のロータリーに通じる横断歩道の信号を待っている。こちらに気がついて手を振っている彼女の写真を撮ろうかとカメラに手をかけた。その時、聞いたこともないくらい大きなエンジン音がした。そして、それが何か判別する間も無く、巨大なトラックが美咲の元へと突っ込んでいった。ビーーーというトラックの警報音、運転席からのぼる煙とかすかに香る焦げ臭い匂い、そして悲鳴。一瞬にして、あたりは混沌とした。信号が青になり、駆けつけた人たちが「おい、やべえぞ」と騒いでいる。中には、吐き出してしまう人もいた。トラックの下には赤い水溜まりができて、どの部分かもわからない肉片が転がっていた。必死になって探したが、群衆の中に美咲はいなかった。
 パトカーや救急車のサイレンが聞こえてきて、徐々に現実に戻された。どうやら、肉片のうちのいくつかは美咲のものであるということを認めなければならないらしかった。
 パシャッ、パシャッ、と電子シャッターの音が聞こえてきた。周りにいた群衆のうちの何人かは、「うげ、気持ちわる」と言いながらも携帯電話で死体の写真を撮っていた。彼らは酔っているのだろうか。正気なのか? どうして肉片になった人たちの写真を撮るのか。一体何が魅力なのか。
「美咲が死んだんだぞ! 写真なんて撮るんじゃねえ!」
 頭に血が昇って、気がつくと写真を撮っていた一人に掴みかかっていた。涙と鼻水で何を言っているのかよくわからなかっただろうが、そんなことはどうでもよかった。
「でも、死ぬことだって、私たちには選べないもんね」
 その言葉を思い出し、涙と笑いが同時に込み上げてきた。

 事情聴取やその他諸々、そして美咲の遺体は見ない方がいいと言われたりして、家に帰ったのは次の日の昼過ぎだった。目の周りを真っ黒にした息子を見て驚きを隠せずにいる両親を無視して、自分の部屋に上がった。それから、カメラを床に叩きつけた。美咲の死体を撮っていた人たちを見て、写真というものに嫌気がさしてしまった。撮影をしている自分がひどく醜い人間に見える。黒いプラスチックが飛び散り、レンズのガラスにもヒビが入った。長年大事に使ってきたカメラは、一瞬にしてただのゴミになってしまった。
「大丈夫か? すごい音したけど」
鈍い音を聞きつけて、下の階で休日を満喫していた父親が様子を見にきた。そして、目の前にカメラの残骸が転がっていることに気が付き、言葉を失ったみたいだった。
「お前、それ、お年玉貯めてかったやつだろ。レンズは俺がプレゼントしたやつだし。どういうことだよ。説明しろ」
 怒鳴り散らしたいが懸命に冷静さを保とうとしているのが親父の口調からわかった。鼻息が荒くなって、顔も赤くなっている。
「関係ないだろ。俺はもうカメラなんてやらない。もうやめるって決めたんだ。もう親父の趣味を押し付けないでくれ」
 親父はそれ以上何も言わなかった。言わなかったというより、言えなかったという表現の方が適切かもしれない。きっと、僕の顔や態度にただならぬ狂気を感じたのだろう。
 バキバキになったカメラをゴミ箱に投げ入れると、少しだけスッキリした。これでいいのだ、と強く念じて、そのまま眠り込んでしまった。

 
         3  再び、2018年 冬

 病室のベットで寝ている親父を見ながら、ずいぶん小さくなったなと思った。癌を宣告されて闘病生活を続けたが、もう命は短いらしい。
「やっぱり、タバコが応えたな」
 僕が横にいるのをずっと前から知っていたように、親父は目も開けずに言った。
「起きてたのかよ」
「おう」
「明日一回帰るよ。そうしても外せない仕事があるんだ。それが終わったらまた来る」
「おう」
 最近、親父は「おう」としか言わない。話すのが辛いのかもしれないし、僕と話すのが嫌なのかもしれない。10年前にカメラを捨ててから、なんとなく親父との間には気まずい雰囲気が漂っていた。
「これ、持って帰れ」
 緑色の血管が浮き出た弱々しい手を差し出して、小さなケースを渡された。SDカードのケースだった。
「なんだよこれ」
「いいから、持って帰れ。そして、気が向いたら見ろ」
「ああ」
「じゃあな、今日はありがとよ」
SDカードをコートのポケットに入れて、そのまま仕事に行った。最重要の取引先との会議だった。そして、会議が終わったちょうどそのとき、親父は息を引き取った。

結局、そのSDカードを見たのは葬式やお通夜が全てひと段落した後だった。パソコンを起動させてカードを差し込む。フォルダにはいくつかのファイルがあって、一番最新のものは2008年の12月だった。その意味を理解した瞬間、頭から血の気が引くのが感じられ、視界が真っ白になった。ちょうど10年前、美咲が死んで、カメラを捨てた日だ。つまり、これはあのカメラに入っていたSDカード——。
そのファイルを開くことに対して抵抗があったが、美咲の顔を見たい欲に駆られた。木陰に隠れて笑っている美咲。転んでしまって泣きそうになる美咲。黄色いイチョウの葉に包まれる美咲。最後の写真は、ちょうどイチョウの葉で顔が隠れていた。そんなこともあったなと懐かしい思いに囚われ、涙が溢れ出した。キーボードの上にボタボタ涙がたれ、パソコンが壊れることなんて心配することもなく、ただひたすらに泣き続けた。
まさか、親父がゴミ箱の中からカメラを拾ってSDカードだけを抜いているとは思いもしなかった。最後の写真のあと、さらにファイルが一つ保存されていた。タイトルは「一太へ」となっている。目を擦りながら、そのファイルをクリックした。そこには親父からの手紙が保存されていた。
「一太へ。まず、勝手にSDカードの中を見たことを許してほしい。どれくらい写真の腕が上がったのかどうしても気になってしまったんだ。すごく上手に撮れているじゃないか。さすがは俺の息子だ。でも、きっと一太にはこういう束縛っていうか、期待が辛かったんだよな。謝る。直接言えたらいいんだけど、どうしても恥ずかしくてな。許してくれ。
 一太が写真をやめるって言ってカメラを壊した時は、殴ってやろうかと思ったけど、後で恋人が亡くなった話なんかを母さんから聞いて、納得したよ。辛い時に、寄り添ってやれなくてすまない。許してくれ。
 一太が写真をやめたいならやめていい。自分のしたいことがあればそれをすればいい。でも捨てちゃいけないものだってある。そのうちの一つは、このSDカードだ。大切にしろよ」
 この手紙を読み終えた頃には、もう涙でパソコンの小さい文字なんて読めそうにもなかった。僕は愛されていたのだ。この涙が悲しみなのか、嬉しさなのか、そんなことは難しすぎて判断できなかった。
今度、親父が仕事で使っていたカメラを一台貰おうと思う。そして、親父が残してくれたこのSDカードを差し込んで、息を呑むほど美しい風景をたくさん撮ろう。