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死んでしまった心臓病の母親が手術で死にかけた話

こんにちは!猿田信司です。

今回は、もうこの世にはいない、
母親の話です。

私の母親は、心臓病を患っていました。

病名は「心臓弁膜症」と言っていました。

しかし、後でわかるのですが、
実は違っていました。

昔の医療水準では
わからなかったみたいです。

母親の心臓の音

子供のころ、母親の心臓の音を
聞いたことがありました。

普通、心臓の音というと
”ドックンドックン”
という感じだと思います。

ですが、母の心臓の音は”ゴーゴー”と、
いびきをかいてるような音で、
異常なのは子供なりにわかりました。

すごく驚きました。

とは言え、見た目は普通の人と変わりなく、
特に体が弱いといったことはありませんでした。

一度だけ、体調が悪くなった時があって、
薬屋さんに指定された薬、ー薬の名前は忘れましたがー
を急いで買いに行ったことがあったのを覚えています。

母が死ぬんじゃないか、
とすごく焦りました。

転勤に合わせるように母親が手術

その後は何事もなく、私も成長し、
就職して上京し、家を出ました。

正月やお盆、ゴールデンウィークなどの、
長期な休みの時は、
必ず実家に帰っていましたが、
それ以外では両親のことを考えない生活でした。

上京して、10年ほどたった後、
私に転勤の話が持ち上がりました。

それも実家の近く、
高速道路を使えば、
車で1時間ほどのところでした。

「こいつはラッキー!」と思って、
早速両親に連絡しました。

その時、父親から初めて知らされました。

「母親が心臓の手術をすることになった」と。

それも、私が転勤して1か月後に。

どうやら、遠く離れた私に
心配をかけないようにと、
私に知らせていなかったようで、
手術は、かなり前に決まっていたようです。

まるで、母親の手術に合わせるかのように、
私は転勤することになりました。

これは、今でも不思議に思っています。

なぜ手術しないといけなかったか?

当時、母親は50才くらいでした。

かなりの高齢でしたが、急いで
手術をしないといけないことには、
理由がありました。


母親の心臓は、心臓弁膜症ではなく、
心臓の左右の壁に穴が開いていました。

具体的な病名で言うと
「心室中隔欠損症」(VSD)です。


心臓は、血液を体内に送る
ポンプのようなものです。

血液が戻るところと、
血液を送るところの壁に穴が開いているため、
血が逆流し、ポンプがうまく動かない状態です。

この時、なぜ母親の心臓から、
”ゴーゴー”という音がするのか、
わかった気がしました。

穴から血液が逆流してた音だったんです。


また、これも奇跡的なのですが、これまでは、
たまたま、その穴に、薄いヒダのようなもの
が被さっていて、逆流を防いでいたそうなんです。

そして、長年被さっていた結果、
そのヒダにも穴が開いてしまい、
いよいよ手術して、穴をふさがないと
いけなくなりました。

手術当日

転勤して直後でしたが、
会社は休ませてもらい、
母親の手術に立ち会うことにしました。

事前に聞いていた、医者の話では、
「8割方大丈夫です」と言われていました。

ですから、かなり安心していました。

しかし、手術当日の執刀医に、
手術が始まる直前に話を聞くと、
「成功率は五分五分」
「時間がかかったら覚悟しておいてください」
と言われました。


手術の内容は、簡単にいうと
人工心肺装置につないだあと、
心臓を取り出し、穴をふさぐ。

穴をふさいだ心臓を、元に戻し、
心臓が動き出したら、人工心肺装置を外す。

という、とんでもない内容でした。

手術の予定時間は6時間ほど。

朝10時スタートだったので、
夕方4時ころに終わる予定でした。

しかし、4時を過ぎても
手術が終わる気配はありませんでした。

手術が終わり・・

最終的に、
手術が終わったのは、
夜10時ころでした。

覚悟しろとは言われましたが、
当日急に言われて、
覚悟なんてできません。

手術後の説明では、
穴をふさいで、戻した心臓がうまく動かず、
大幅に予定を超過したようでした。


さらに、朝までに発作が起きたら、
心臓が止まってしまう可能性、
死んでしまう可能性があること。

そして、心臓が動かなかったために、
脳への血流がうまくいってない可能性があって、
記憶の欠落や、最悪は植物人間になる可能性
もあると言われました。


もう、私は号泣して、
病院の柱をめちゃくちゃ殴っていた
のを覚えてます。

手術は始まる前は、
見た目は元気で、
ごく普通だったのに。

まさか、こんなことになるなんて。


その日は帰るように言われたので、
父と二人で家に帰りました。

しかし、家に帰っても、
いつ連絡があるかもわからず、
私は眠れない一夜を過ごしました。

翌朝病院へ

眠れぬ夜を過ごし、朝一番で、
父と病院に向かいました。

会社なんか休むに決まってます。

幸運なことに、発作は起こらず、
母は生きていました。

本当に心の底からホッとしました。


ですが、そこからしばらくの間は、
集中治療室(ICU)に入りっぱなしで、
話もできず、記憶の欠落があるか、
意識があるかまでは確認できませんでした。

さすがに、いつまでも会社を
休むことができなかったので、
仕事が終わった後に
電車で通ったりしていました。

1週間ほど経ち、普通病棟に移って、
やっと意識があって、記憶の欠落も無い
ことがわかりました。

本当に良かった。

ですが、少しだけ言動がおかしい?
と思うことがありましたが、年のせいかな
と思って気にしませんでした。


普通病棟に移る際、
一晩だけ付き添わないといけない
ことがありました。

会社終わりに病院に来て、
一晩付き添い、寝ないで
そのまま会社に行ったのも、
今ではいい思い出です。


その頃の話を、後々母親に聞いたら、
「おばあちゃんが川の向こうで手招きしていた」
と言っていました。

母は臨死体験をしていたようで、
やはりあの時、死にかけていたようです。


母はそこから20年ほど生きました。

この手術をやっていなかったら、
もっと早く死んでいたんでしょう。

そう思うと、えらい目にあいましたが、
あの時手術してよかった、と思います。


最後までお読みくださり、
ありがとうございました。

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