『つくること』へのリスペクトは、死屍累々たる過程への想像力からくる
RayArc(レイアーク)の皆さま、おつかれさまです。新規事業ユニットです!
今回も、ボードゲーム🃏制作プロジェクトから、あえていろいろ言葉足らずの発信をします。
絶賛、『生みの苦しみ』でございます
ボードゲーム🃏制作、つくった後の『販売』というプロセスもありますので、ぶっちゃけ『つくる』ところはそれができてゴールどころか、やっとスタートラインに立てるみたいなものだと思っております。
……なのですが、そのスタートラインにつくのも、やはり大変です。
株式会社RayArcはシステムの受託開発を本業としております。つまり、日常的にも『ものづくり』をしている側面はあるというか。むしろ『ものづくり』ど真ん中です。
本職であれば『それができるのは当たり前』の世界。客観的に見れば本業で成し遂げていることの方が、その分野の専門性に対する習熟度は高いですし、もしかしたら自覚なくすごいことをやっているのかもしれません。
ですが。依頼に対して応える本業とボードゲーム🃏制作プロジェクトでは大変さの質が違うのです。出来上がったモノに対する『最初の判断』を、仕事を依頼したダレカではなく、私自身がするというのが大きいと思います。
というより、そもそも自分に依頼をしないといけません。「こういうものを世に出したい、つくれる? つくれない? やってみてよ」…って。そこには、予測しきれない未来でも、あえて確信する思い切りも必要です。
創造とは、おびただしい破壊に耐えること
いわゆる記号的なキャラクター像として『気難しい陶芸家のおじいさま』ってありますよね。『違ぁぁああああぁぁああーーう!』って叫びながら、焼きあがったツボをパリンパリン割る、海原雄山的な見た目の人です。
『デフォルメされた、滑稽味を帯びた存在』として描かれるあの姿。…ですが、実際に『ものづくり』をやってみると、あれは全然ファンタジー的表現ではなくて。とてつもなく泥臭くて生々しい現実そのものだとわかります。
ボードゲーム🃏制作プロジェクトでも
捨てたアイデア、捨てたデザイン。こんな小さなプロダクトですら、それがあります。今日までにも、たくさんのアイデアとプロセスを捨てました。
…って、本気でココロで何度も叫びました。ものすごく苦労して、調べて、なんども試行錯誤してたどり着いたものでも、違うとわかれば容赦なく叩き壊して捨てまくります。
ただ『違う』と理解するために、私はこれを一回つくらなくてはならなかったんだな
結果、壊すためにこの過程は生まれてきたんだな
それはわかるので未練は厳禁です。すべてはその先に向かうために。これは、まごうことなき前進なのです。まさに死屍累々という感じ。
たどりつけなかったモノたちと、生まれる敬意
だから、絵でも文章でもあるいは音楽でも。ナニカをつくることに本気でなんども取り組んでゆけば。最後にできあがったモノには、そうならなかったモノたちのタマシイが宿っているんだなと、自然とわかってくるわけです。
そうすると。あるひとつのプロダクトを目にしたとき、そこにたどり着くまでのプロセスを想像できるので、解像度が自然と上がるんですね。そうなれなかったものたちの犠牲のもとで、今これがあるんだな…と思うわけです。
自然と、なにげなく手に取ったものにも、敬意が生まれます。ナニカをつくっている人に対しても、できあがったモノが実際すごいとかすごくないとか以前に「やりとげるのが、まずすげぇな」って、じわじわ感じますよね。
そして。この生みの苦しみにたえるというか、いっそ楽しむくらいのマインドがないと、本当の意味でナニカをつくるなんて、できないんだよなぁ。
そんなことを考え、己を鼓舞して道なき道を進んでいるところです。
あいかわらず、あまり具体的ではない物語(まとめ)
ここのところ、ボドゲの話題を何回か記事にしましたが、ゼンゼン具体的なハナシを載せておりません…。
進捗的に言えば、印刷所にお願いするデータ一式のうち、9割くらいは少なくとも要件を満たして完成したところです。なので、少なくともナニカしらのモノはお届けできるように、しっかり進めてはいると思います。
ただ、ものづくりは結局のところ、やろうと思えば無限にあがけるし、ゴールと決めて完成させてもそれが最終地点ではないことがほとんど。沼です。
まだまだ苦しみ楽しみまくるんだろうなぁ…と思うと、これがほぼ最終形だと確信してお伝えするには早い…そんな感覚があるのでした。
(新規事業ユニット・ワクワク魔人S)
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