考える力を高めるための一手『郷中教育』に学ぶ仁の教育観(中編)~なぜ、鹿児島出身の政治家が多いのか?~ー『日本人のこころ』15ー
こんばんは。高杉です。
日本人に「和の心」を取り戻すというスローガンのもと
『和だちプロジェクト』の代表として活動しています。
いよいよ4月も本格的に始まり、
今日から令和6年が始まりましたね。
新しい出会いを大切にするとともに、
昨年度以上にパワーアップして、
子供たちが自分に自信をもち、
我が国を誇りに思うことができるように教育活動を考えていきたいと思います。
さて、最近心配なのは、やはり台湾地震ですね。
3日午前7時58分(日本時間同午前8時58分)ごろ、
台湾東部沖を震源とする強い地震が起きました。
台湾当局によると、東部の花蓮県では震度6強を観測。
落石などで9人が死亡し、けが人は同県や台北市、隣接の新北市などの広い範囲で1011人に上ったとの情報がありました。
未だに崩れた建物などに閉じ込められている人もいるとのことです。
台湾は非常に親日国家であり、
東日本大震災のときには250億円以上。そして、能登半島地震では発生からわずか2週間で、寄付額が民間だけでも25億円以上にのぼったほど我が国が危機に陥った時も助けてくださいました。
今こそ、その恩返しをしていくべきだと思います。
私も、台湾のものを買ってできることをしていきたいと思います。
本日も、「考える力を高めるための一手 『郷中教育』に学ぶ仁の教育観」
という主題でお話をしていきます。
最後までお付き合いいただけると嬉しく思います。
なぜ、鹿児島県出身の政治家が多いのでしょうか?
この問いから考えていきたいと思います。
1)薩摩隼人はなぜ強いのか?
薩摩は古代から遣唐使派遣の発着寄港地でもあったことから、
早くから大陸文化の影響を受ける地理的条件のもとにありました。
とりわけ、
室町時代以降は中国・朝鮮・琉球との交通が頻繁となり、
中国へ渡る留学僧や貿易上の交渉や通訳に従事する学僧が盛んに往来しました。
島津家の始祖は、
源頼朝と比企一族(埼玉県比企郡)出身の丹後局から生まれた忠久公です。
「薩摩隼人」といえば、
勇猛果敢で江戸時代を代表する武士として知られています。
薩摩藩は、77万石あまりの石高を有する外様大藩です。
幕末から明治にかけての維新変革期には、討幕派の主軸となり、
開国論へとつながる開明政策をいち早く採用して日本の近代国家形成への大きな推進力となりました。
内村鑑三が『代表的日本人』で挙げている西郷隆盛が象徴しているように、
薩摩の教育は日本国の武士教育の一つの典型と見ることができます。
多くの有能な人材を輩出した薩摩藩の教育風土。
とりわけ、
その文武両道の精神は、
私たち現代の日本が直面している教育の諸問題を考える際に豊かな示唆を与えてくれると思います。
薩摩の人材育成戦略の土台は、郷中教育にありました。
2)島津家を支えた共有理念「日新いろは歌」とは?
郷中教育の魂となる理念を作り上げたのは、
島津家中興の祖と言われる島津忠良(1492~1568)公です。
忠良公は、
島津日新斎とも呼ばれており、島津氏の一族の伊作家に生まれました。
忠良公の子である島津貴久が島津宗家を継ぐと、貴久公を補佐して
薩摩・大隅・日向の三州を統合するなど、
島津氏中興の名君とも称されました。
その忠良公が家運の隆盛を念じて読んだのが「いろは歌」です。
この理念が戦国時代から江戸時代末期まで約300年続いたことで、
幕末維新期の薩摩藩人材の活躍につながっていきます。
「日新いろは歌」こそが、約300年間を通して培った薩摩藩の魂なのです。
「日新いろは歌」は、
武士の日常生活に関連した教訓を中心とした47首の歌から構成されています。
冒頭に
と歌われているように、
「教え」を実践的にとらえようとするところにその特質が見られます。
その他、代表的な首を紹介していきます。
人間の価値は、
豪華な家に住もうと粗末な家に住もうと決まるものではない。
真心を尽くす「誠」をもっているか否かによって決まるものです。
「明日やればいいや」とついつい先延ばしにしてしまうのが人の常です。
しかし、明日の命の保証などまったくありません。
その日、その時までが人生なのです。
だからこそ、すべてに命懸けでやりなさい。
仏や神は、自身の心に宿り全てを承知しているものです。
だから、他人に恥じる前に自分の心に恥じなさい。
刑罰は軽々しく行ってはいけません。
戦の結果によって人間の価値は決まりません。
敗れた武士の気持ちを察することが大切なのです。
怒りや愚かさ等で道を間違えてはいけません。
自分自身の能力にあった仕事を発見し、
力を尽くせば必ず世の中のためになります。
今に名を残す偉人も私たちと同じ人間である。
奮起して努力することが必要なのです。
楽しいことも苦しいことも時間が過ぎれば、
跡が残らず、消えてしまいます。
苦楽は単なる出来事です。
だから、名を残しなさい。家を残しなさい。
昔から、道に外れておごり高ぶった者で天罰を受けなかった者はいません。
夜の10時に寝て、朝4時に起きなさい。
時を惜しんで勉学、武道に取り組みなさい。
軍勢の心を得ることも失うこともリーダーの力量次第で決まります。
何事によらずに民を慈しみ思いやる心がなければなりません。
政道とは、領地内の法令を指します。
法令は領民に徹底的に教え込み、
習慣化するまで浸透させなければならない。
島津忠良公は、
毎月数回にわたり、家臣の子弟を集めて「咄(はなし)」と称する会合を開き、
四書の講義を交えて「義理の咄」や「忠義の咄」を聞かせて、
武士の教化につとめました。
「日新いろは歌」は、
庶民にも理解できる簡単な言葉で人の生き方、考え方、
行動規範を説いています。
薩摩藩では、
少年時代から「いろは歌」を毎日繰り返しそらんじていたのです。
10代の少年のうちから、
軍団のリーダーとしてあるべき振る舞いや考え方を学ぶことにより、
薩摩武士の理念が共有されていったのです。
その後の藩校の設立に先立って、
生活意識に根ざした学びと教えが薩摩武士の気風を形成していきました。
そこに薩摩藩の人材育成のポイントがあります。
現代においても、稲盛和夫さんの経営などに大きな影響を与えています。
3)薩摩の公教育はどのように行われていたのか?
時代は進み、江戸時代中期。
第25代藩主島津重豪(しげひで)(1745~1833)公は、
それまで個別に行われてきた学問やブドウの教育を統一するために、
安永2(1773)年に学問修行を目的とする造士館と武道の練習所である演武館を開設しました。
入学は8歳から21歳までとし、現代の小学校から大学卒業までの教育に相当していました。
造士館での学習内容は、
四書(論語・孟子・大学・中庸)・五経(易経・書経・詩経・春秋・礼記)など儒教の古典と和漢の歴史書からなり、
就学は必ずしも強制はされていませんでした。
造士館の教育は、
知識を重んじるというよりも、
薩摩藩の武士にふさわしい生き方や考え方を深め、
まさに藩の秩序を保持する人材の養成を目指していました。
造士館での教育は、
午前10時から午後2時までで、午後4時から午後8時までは、
演武館で武道に励んでいました。
演武館では、
剣術をはじめ、柔術、弓術、槍術、馬術などが教授されました。
剣術は、東郷家の示現流、
馬術は、比志島家の神当流、
槍術は、白尾家の大島流、
射術は、高田家の大蔵流、
居合は、有川家の大野流というように
各流派の師範が演武館に出向いて教授しました。
なかには、黒木家のオランダ流火術のように、
伝統的な武芸に加えて、
オランダ流の西洋砲術なども教授されました。
いずれも修行を通して、精神を修養するという人格形成に
重きが置かれていました。
薩摩の文武両道とは、
つまるところ人格を形成する教育の本質に迫るものでした。
造士館は、その運営をめぐってしばしば藩内の抗争を引き起こしました。
嘉永4(1851)年に、
のちに幕末の名君として知られる島津斉彬(1809~1858)公が藩主の座に就くと同時に、
徒党を含めた藩内でのあらゆる対立を禁止し、
違反した者には重罪を科するという厳しい通達を出しています。
この他にも、
藩校が振るわないのは藩士の学問に関する欠如ではなく、
経済的な困窮からだと判断し、
一定の学生に奨学金制度を設けています。
さらに、
個々の藩士が、
藩や日本が直面した課題と積極的に取り組むことを奨励しました。
時勢認識を強調し、
時代が学問や教育に要求しているのは何かということを的確に把握できる人
材の育成を目指しました。
目前の小さな利益を得たり、
薩摩一藩の安定だけを求めるのではなく、
日本の全体を視野に入れて、
日本が直面する問題を解決できる度量を持った人物の育成(造士)を目指すものでした。
このような人材養成を目的とした藩校の教育を支えたものが、
薩摩藩特有の「郷中教育」にほかなりません。
4)薩摩藩を支えた「郷中教育」とは?
薩摩の武士道を涵養した教育組織に「郷中教育」があります。
郷中教育は学校という形態をもった郷校とは異なり、
薩摩藩には特有の社会構造を背景として、
武士の生活の場から生み出された
いわば自主的な教育形態です。
薩摩藩の総人口に占める武士の比率は高く、
明治4(1871)年のち調査によれば、26.3%と、全国平均の5.72%をはるかに圧倒しています。
そのため、これら家臣の教育と統制は重要な政治課題であったのです。
「郷中」とは、薩摩藩の区割りされた地域を指し、
江戸時代初期には、城下18の郷中があったとされています。
幕末には33に増加しました。
城下以外にも郷中があり、
それぞれで行われていた薩摩藩伝統の教育方法を「郷中教育」と言います。
朝鮮の役(1592年、1597年)の際、
リーダー格の多くの藩士たちが薩摩の地を離れたことによって、
青少年たちの風俗が乱れました。
危機を感じ取った島津家は、本格的に「郷中教育」を開始します。
精神訓である「日新いろは歌」を藩内に徹底させていったのです。
島津忠良公と貴久公の親子は連著した掟に
「若き衆中は、武芸、角力、水練、山坂歩行、平日手足をならすべきこと」
と書いています。
薩摩においては、
次代を担う若者たちに「文武両道」教育を施す風土が長期間培われていったのです。
関ヶ原の戦い(1600年)以降、
藩を挙げて打倒徳川の炎が消えることはありませんでした。
豊臣秀頼政権下において、秀吉の介入により島津家は統制を失い、
検地により所領を減らされた家臣が不満を抱える状況もありました。
苦境を脱するために、
忠良公の弟子のひとりで「鬼武蔵」と称された猛将新納忠元公は、
「二才咄相中(にせばなしあいちゅう)」という会を組織しました。
そして、「二才咄格式定目」として、
などなど…
を定めていました。
これらが「郷中教育」の基礎になっています。
郷中には特別な建物が設けられておらず、
各々持ち回りで家屋を提供し、
これを「座元」と呼びました。
郷中の運営には、二才の中から選ばれた二才頭があたり、
その教育は教師と生徒という関係ではなく、
年長者が年下の者を教育するという自治の形態をとっていました。
このような地域の教育機能が、造士館や演武館の教育を支えました。
藩校(学校教育)はこうした地域の教育力(郷中教育)に支えられて、
はじめてその機能を十二分に発揮することができたのです。
そこでは、
精神と心を鍛える武道が徳育と知育と結びつける大きな役割を果たし、
極めて個性豊かな人格教育を実現していたことが明らかになっています。
この「郷中教育」から西郷隆盛や大久保利通をはじめ
近代日本を作り上げた鹿児島県出身の多くの人材を輩出しました。
鹿児島出身の政治家が多く輩出された所以がこの教育システムなのでした。
では、
具体的に「郷中行育」はどのようなことを大切にしていたのでしょうか?
次回は、
「郷中教育」について詳しく見ていきましょう。
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国民一人一人が良心を持ち、
それを道標に自らが正直に、勤勉に、
かつお互いに思いやりをもって励めば、文化も経済も大いに発展し、
豊かで幸福な生活を実現できる。
極東の一小国が、明治・大正を通じて、
わずか半世紀で世界五大国の一角を担うという奇跡が実現したのは
この底力の結果です。
昭和の大東亜戦争では、
数十倍の経済力をもつ列強に対して何年も戦い抜きました。
その底力を恐れた列強は、
占領下において、教育勅語と修身教育を廃止させたのです。
戦前の修身教育で育った世代は、
その底力をもって戦後の経済復興を実現してくれました。
しかし、
その世代が引退し、戦後教育で育った世代が社会の中核になると、
経済もバブルから「失われた30年」という迷走を続けました。
道徳力が落ちれば、底力を失い、国力が衰え、政治も混迷します。
「国家百年の計は教育にあり」
という言葉があります。
教育とは、
家庭や学校、地域、職場など
あらゆる場であらゆる立場の国民が何らかのかたちで貢献することができる分野です。
教育を学校や文科省に丸投げするのではなく、
国民一人一人の取り組むべき責任があると考えるべきだと思います。
教育とは国家戦略。
『国民の修身』に代表されるように、
今の時代だからこそ、道徳教育の再興が日本復活の一手になる。
「戦前の教育は軍国主義だった」
などという批判がありますが、
実情を知っている人はどれほどいるのでしょうか。
江戸時代以前からの家庭や寺子屋、地域などによる教育伝統に根ざし、
明治以降の近代化努力を注いで形成してきた
我が国固有の教育伝統を見つめなおすことにより、
令和時代の我が国に
『日本人のこころ(和の精神)』を取り戻すための教育の在り方について
皆様と一緒に考えていきたいと思います。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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