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ぶれない生き方を体現するための一手『会津武士教育』に学ぶ義の教育観(中編)~会津戦争と会津藩の魂とは?~ー『日本人のこころ』27ー

こんばんは。高杉です。

日本人に「和の心」を取り戻すというスローガンのもと
『和だちプロジェクト』の代表として活動しています。

7月に入り、いよいよ夏休みが見えてきました。
みなさまいかがお過ごしでしょうか?

季節の変わり目は、
体調を崩しやすい時期でもあります。

私も、息子から風邪をうつされてしまい、
苦しい時間を過ごしておりました。

改めて、健康であることのありがたさを感じております。

学期の終わりは、
やらなければならないことがたくさんありますが、
その中でも、やりたいことを見つけて、
楽しみながら学んでいきたいです。

さて、今回は、
会津の歴史について考えていきます。

ぜひ、最後までお付き合いください。
よろしくお願いいたします。







1)会津戦争はどのようにして始まったのか?




1867(慶応3)念11月、
「大政奉還」が行われ、
江戸幕府15代将軍・徳川慶喜が朝廷に政権を返上しましたが、
依然として江戸幕府が強大な権力をもっていました。

これに対して、
倒幕派だった薩摩藩、長州藩と岩倉具視らは、
徳川慶喜を政権から排除し、
天皇を中心とする新政府を樹立しようと朝廷を動かしました。

そして、12月
「王政復古の大号令」の発令により、
徳川家が担っていた政権は天皇に返上し、
200年以上続いた徳川幕府はその幕をおろすことになりました。

この大号令に伴い、
徳川慶喜に対して、役職を返上し、
領地をさしだすことを要求しましたが、
新政府の強引なやり方に対して徳川慶喜は拒否します。

また、
旧幕府の怒りや諸藩の同情を買い、
次第に「王政復古の大号令」に対して、
撤回を求める動きが見え始めたのです。




薩摩藩士らは、
わざと旧幕府の怒りを買うために、各地で騒乱を画策します。

その挑発に乗った旧幕府は、
江戸の薩摩藩邸を襲撃してしまいます。

その後、徳川慶喜は、
15,000人もの旧幕府軍を結成し、

1868(慶應4)年1月、
「鳥羽・伏見の戦い」によって、戊辰戦争の幕が切って落とされました。

「鳥羽・伏見の戦い」では、
旧幕府軍の兵力が約15,000にだったのに対し、
薩摩藩を中心とする新政府軍の兵力は約4,000~5,000人と
兵力では圧倒役に旧幕府軍が有利でした。

しかし、
薩英戦争や下関戦争を経て、
外国の技術や武器を積極的に取り入れていた新政府軍の軍事力は、
旧幕府軍の想像をはるかに超えていました。

薩摩軍の新兵器を前になす術もなく、旧幕府軍は惨敗。

徳川慶喜は江戸に逃れることになりました。



「鳥羽・伏見の戦い」で敗れた徳川慶喜は、
江戸にもどって上野の寛永寺で謹慎し、
新政府に従う意思を示すものの、
新政府内では、徳川慶喜の責任を問う声や、
旧幕府方では徹底抗戦を唱える者も見られました。

当時江戸は、
世界一人口を抱えていた都市で100万人を超える人が住んでいたと言われています。

多くの犠牲を出さないために
勝海舟と西郷隆盛は、江戸での戦いを避けたいという思いから、
江戸城総攻撃の前日の会談で、
「江戸城を明け渡すことで攻撃をしない」という条件に双方合意し、
新政府軍は江戸城無血開城を果たしました。




当時、京都守護職など旧幕府の要的存在として活躍していた
会津藩9代藩主・松平容保は、
「鳥羽・伏見の戦い」のあと、
徳川慶喜にならって新政府へ恭順の意を示していました。

しかし、
新政府の中でも長州藩は京都で会津藩との戦いに敗れ、
多くの仲間や朝敵の汚名をきせられて都落ちした過去があり、
会津藩の降伏をよしとしませんでした。

新政府は、東北諸藩に対して、兵を出すように催促します。

仙台藩や米沢藩は、
会津を助けてあげてほしいと新政府に寛大な処分をお願いしましたが、
新政府はこれをはねのけます。

松平容保は、
会津に戻り、謹慎生活を送っており
新政府に対して、恭順の意を示していました。




しかし、
それは表向きのことであり、
裏では、兵の訓練を行ったり、軍制改革を行ったりしています。

つまり、「武備恭順」です。

この軍制改革で会津藩は、
西洋式軍隊を導入します。

16・17歳で構成される白虎隊
18~35歳で構成される朱雀隊
36~49歳で構成される青龍隊
そして、50歳以上で構成される玄武隊です。

これら4つの部隊が編成されました。

実戦に参加するのは、朱雀隊と青龍隊で
白虎隊と玄武隊は、予備隊とされていました。
会津藩は、彼らに武器を与え、戦いに備えていたのです。




新政府軍の標的にされたのは、会津藩だけではありませんでした。

薩摩藩の江戸藩邸を焼き討ちにした庄内藩も狙われていたのです。

そこで、
東北諸藩は、重臣たちを白石に集めて会議を行いました。

この会議で、
東北諸藩は、戦争に加わるのではなく、戦争を止める方向に決定します。

会津藩、庄内藩を救うために、
新政府との間に入って、交渉を始めることになります。

しかし、
長州藩の参謀・世良修蔵が意見をはねのけ、会津藩赦免の嘆願は却下され、
東北諸藩も足蹴にされたので、
戦争が回避できないのは、世良修蔵がいるからだとの理由で、
世良修蔵を暗殺してしまうのです。

こうなると後戻りができません。
新政府軍の参謀を暗殺したことにより、
東北諸藩と新政府の関係は悪化してしまいます。

東北諸藩は、新政府軍に対抗するために同盟を締結。

これが「奥羽越列藩同盟」です。


そして、
1868(慶応4)年、会津戦争が勃発することになるのです。


2)会津戦争の悲劇に迫る



新政府軍は、
奥州街道の白河口。
太平洋側の平潟口。
日本海側の越後口から進撃を開始しました。

その中でも、中心になったのは、白河口です。

白河は、
昔から東北の玄関口としての役割を果たしており、
会津藩は、この白河にあった小峰城に目をつけて、
ここを拠点として新政府軍を迎え撃つ作戦を立てたのです。

1868(慶応4)年、白河小峰城攻防戦で端を開きました。

戦いは激戦となり、
土方歳三率いる新撰組が奮闘したものの
新式の小銃や大砲を装備した新政府軍に対して会津藩は次第に劣勢となり、
会津に撤退を余儀なくされます。

このように、
同盟軍の軍勢が白河小峰城に気を取られている隙をついて
新政府軍は二本松城を攻撃します。

この時二本松藩の主力は他の戦場に出陣しており、
二本松城にはほとんど兵がいなかったのです。

そこで、
急遽駆り出されたのが老人や少年を中心とする兵でした。

しかし、
圧倒的な軍勢と武器を目の前にして、
あっという間に二本松は占領されてしまいます。

そして、
いよいよ会津に狙いを定めていくのです。




新政府軍が目を付けたのは、母成峠でした。
ここを突破して一気に鶴ヶ城に攻め込もうとしたのです。

こうして、母成峠で戦いが勃発します。

守りを固めた同盟軍も侵入を防ぐために抵抗しましたが、
霧で敵の発見が遅れたことも災いして、
進軍を続ける新政府軍を前に同盟軍は壊滅してしまいます。

そして、母成峠の突破を許し、
そのまま新政府軍は会津へと進軍しました。

その途中には、十六橋という橋があり、
会津藩はここの橋を壊して時間稼ぎをする予定でした。

しかし、
新政府軍がほぼ休憩を取らずに攻め込んできたため、
橋を壊すことができず、新政府軍に十六橋を占領されてしまいました。

この頃、会津でも主力の軍勢を各地に派遣していましたので、
防御に出せる兵がいませんでした。

こうして投入されたのが白虎隊です。
16~17歳の少年で編成される白虎隊は、
当初は戦闘要員ではありませんでしたが、
人が足りなかったため、前線に派遣されたのです。

夜が明けると、新政府軍は攻撃を開始します。
白虎隊も必死に応戦しましたが、
新政府軍の圧倒的な力の差を前に苦戦を強いられます。




そして、
ついに壊滅してしまい、退却しました。

そのあと、白虎隊は、洞門を抜け、
なんとか飯森山に到着しました。

しかし、
その少年たちの眼に飛び込んできたのは、
燃え盛る会津若松の城下町でした。

若松城もいずれ落城してしまう。
自分たちにはもはや帰る場所はない。
敵に辱めを受けるくらいなら。

と白虎隊士20名は、飯森山で自刃します。

幼い19名の命が失われました。



こうして会津藩はこれ以降も、
新政府軍の攻撃に耐え続け、
1か月にわたって籠城し、抵抗を続けていました。

女性や老人、子供は、
「自分が生きていても戦うことはできない」
「自分が生きていたら兵糧を浪費するだけだ」
と考えて多くの人が自害しました。

凄惨な集団自決が繰り広げられました。

持久戦になると有利なのは新政府軍です。

続々と援軍が集まってきて鶴ヶ城天守閣を砲撃。
昼も夜も関係なく、たくさんの砲弾を浴びせました。

その間にも、
仙台藩や米沢藩など奥羽越列藩同盟の中からも降伏する藩が続出し、
会津藩は孤立無援の状態に陥ってしまいます。


3)私たちは会津戦争から何を学ぶか?




こうしてついに会津藩も白旗を掲げ、
城を明け渡して降伏します。

そして、
長きにわたった会津戦争は幕をおろすことになるのです。

8200人余りいるとされる戊辰戦争の死者ですが、
その3分の1が会津藩の人々だったと言われています。

会津藩にとってはそれほど苛酷な戦いでした。

会津戦争は本来避けることができた戦いでした。

明治維新は、
我が国の近代化に大きな光の部分を与えましたが、
その陰には、このような凄惨な出来事があったことを忘れてはいけません。

何の罪もなく、ただただ御所を守り、徳川を守っていたはずの会津が
いつの間にか賊軍にされ、慶喜に切り捨てられ、
どうしようもなく戦えば、薩摩や長州に殺意と悪意を向けられる。

のちにお話をしますが、
会津藩に伝わる「什の掟」に現れるように、
曲がったことが嫌いな藩風をもつ会津人が直面した
すべてが理不尽で正義も何もない状況においても
「会津武士道」を武士だけではなく、
女性や子供までもが体現したのでした。



では、
このような「会津武士道」はどのようにして育まれたのでしょうか。

次回は、
会津藩で行われていた教育について詳しく考えていきたいと思います。



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国民一人一人が良心を持ち、
それを道標に自らが正直に、勤勉に、
かつお互いに思いやりをもって励めば、文化も経済も大いに発展し、
豊かで幸福な生活を実現できる。

極東の一小国が、明治・大正を通じて、
わずか半世紀で世界五大国の一角を担うという奇跡が実現したのは
この底力の結果です。

昭和の大東亜戦争では、
数十倍の経済力をもつ列強に対して何年も戦い抜きました。

その底力を恐れた列強は、
占領下において、教育勅語修身教育を廃止させたのです。

戦前の修身教育で育った世代は、
その底力をもって戦後の経済復興を実現してくれました。

しかし、
その世代が引退し、戦後教育で育った世代が社会の中核になると、
経済もバブルから「失われた30年」という迷走を続けました。

道徳力が落ちれば、底力を失い、国力が衰え、政治も混迷します。


「国家百年の計は教育にあり」
という言葉があります。

教育とは、
家庭や学校、地域、職場など
あらゆる場であらゆる立場の国民が何らかのかたちで貢献することができる分野です。

教育を学校や文科省に丸投げするのではなく、
国民一人一人の取り組むべき責任があると考えるべきだと思います。

教育とは国家戦略。

『国民の修身』に代表されるように、
今の時代だからこそ、道徳教育の再興が日本復活の一手になる。

「戦前の教育は軍国主義だった」
などという批判がありますが、
実情を知っている人はどれほどいるのでしょうか。

江戸時代以前からの家庭や寺子屋、地域などによる教育伝統に根ざし、
明治以降の近代化努力を注いで形成してきた
我が国固有の教育伝統を見つめなおすことにより、
令和時代の我が国に
『日本人のこころ(和の精神)』を取り戻すための教育の在り方について
皆様と一緒に考えていきたいと思います。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。



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