見出し画像

ハンドドリップは私の調整弁

いつの間にか急いでしまう現代人には、日常生活でそれに気づかせてくれるルーティンが必要だ。

私にとってそれは朝のハンドドリップ。コーヒーの抽出作業だ。

私は「ドリップ」よりも「抽出」と言う。日本語で言うほうが大そうな事をしているようで楽しい。しかし抽出方法が多岐にわたるコーヒーの世界では、ハンドドリップといえばドリッパーと濾過紙を使ったアレとイメージし易いので、今日はそれを使わせてもらう。

日本の日常に深く浸透しているコーヒー。インスタントコーヒーから輸入された豆まで、スーパーではコーヒー商品がズラリと並ぶ。コンビニのコーヒーは進化を続け、本当に早くて美味しい。自動で抽出できるコーヒーメーカーを利用している人も大勢いると思うが、それでは得られない愛しい時間がハンドドリップにはある。

1分で出来る上がる術は沢山あるのに、敢えて用意から抽出まで時間のかかるそれをするのは、「待つ」過程を楽しみたいからだ。

朝5時。まだ外に人の気配もない、虫と鳥の声しか聞こえないリビングは私だけの空間だ。静かにゆっくりとお湯を粉の上に乗せていく作業は、孤独でありながら相手と対話をしているような不思議な感覚を持つ。新しい豆なら内側からガスが発生し、まるでハンバーグのように粉を膨らませる。それは理科の実験で物体を変容させた時のような高揚感をくれる。

1杯のコーヒーを作り待つ時間は私が私を取り戻す貴重な時間になっている。

私はもともと頭に詰め込める限界量が少ない。有難くも仕事で忙しくなった日々は、考える作業にスピードを求めてしまい、疲れる。自分の内部にガスが溜まり、大きく膨らめば、口から漏れてしまう。ため息や愚痴になって吐き出されやっと気付く。自分は疲れているんだと。それはコーヒーの粉が膨らみ切って、プスウとガスが漏れ出る様そのものだ。コーヒー豆が変容を遂げるその一連の様子は、私である。私は私を眺めているのだ。

ハンドドリップは「待てる」自分を確認できる。急か急かした流れを堰き止め、緩めてくれる。客観的な視点を取り戻すことで冷静になり、私を保たせてくれる。だからこそ朝のあの時間だけは、コーヒーに速攻を求めるわけにはいかない。インスタントやコンビニに任せるわけにはいかないのだ。

「その草がその場所に生えてきたのには理由がある」という考え方がある。私にとって、ハンドドリップというルーティンが私に根付いたのには理由がある。誰にでもその趣味や習慣を選んだのには理由があるのだ。

コーヒーを淹れ始めてもう10年以上になるだろうか。流行りにのって我が家に招き入れたハンドドリップは、私の重要な調整弁に成長した。一滴一滴のブラウンが白いカップに溜まり、計量機が180mlを示したらリセットは完了だ。いつものコクと苦みが、これからも私の人生に寄り添ってくれるだろう。


この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?