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目の見えない白鳥さんとアートを見に行く 読書感想文


先日、3歳息子が通う保育園の作品展に行ってきた。

ちょうど本書「目の見えない白鳥さんとアートを見に行く」の序盤部分を読み終えたところだったので、よし、鑑賞者の自由にアーティスト(息子)を感じてみようと意気込んだ。

息子は嬉しそうに自分の絵や工作物を見せてくれるが、その一つ一つに私が僭越ながらコメントなんぞを述べる。

私「あの右下のやつは、もしかして鬼太郎?」

息子「ううん、違うよ。」

私「あの真ん中の茶色いのは、ハンバーガーじゃない?」

息子「ううん、パパだよ。」

その周囲を取り囲んでいる人らしきものこそ、私も含めた家族の絵だと思っていた身としては、なんでパパだけ茶色にしたのか理解できなかったが、アーティストがそう感じたならそうなんだろう。

本書から、まず学んだのは、アートの見方は自由ということだ。これまでも私は美術館にはよく行く方だったが、私の鑑賞はもしかしたら大いに囚われていたのかもしれない。作者の意図を読み取ろうと目を凝らすたびに、自分が埋もれていくような。見るのに疲れ集中力が続かず、終盤はさささーっと早足で回り、グッズ売り場でポストカードでも買って帰っていた。

もっと自分の感じ方を意識できていたら、充実感は違ったものになっていたのかもしれない。


人は一人ひとり違うんだ、とは

昔から言われ続け、擦り切れてもなお、誰の目の前にも現れる言葉だ。それでも、特に日本人にいたっては、本当の理解が深まらない言葉である。ホシノさんの言葉を借りれば、「浅はかさだけがうすーく滑って」なかなか深いところにまで届かない。

本書の中でも、一つの作品について語る、川内さんとマイティの違いは明白で、私なんかの小心者は二人の意見の食い違いに心配してしまうのだが、しかしそれが人間の基本設定、ひとが違うのだ。

障害とか健常とか、男とか女とか、学歴才能環境収入…挙げればキリがないのだけど、そういったカテゴライズ前の段階で大いに人は違うのに、違いによって生じる差別等のドス黒いモヤモヤは、なぜこの社会から無くならないのか。

結局のところ、「一人ひとり違う」という言葉の意味は、浅い部分でしか人に入っていないのだ。

上っ面でしかないから、障害者への声かけも過度なものになってしまう。

「障害をもつ私と、健常者のあなた、違いはなんですか?」障害者の男性が、とある小学校の子供達に投げかけたところ、一人の女子児童が面と向かってこう言った。

「生きる辛さ!」

その正々堂々ぶりに、テレビを見ていた私はコーヒーを吹いて笑ってしまった。子供ながらの素直さで、それは本当に褒めるべき純粋さだった。

しかし、その女子児童はきっとこんな風に社会から習った、もしくは植えつけられたのだろう

「障害者は困っている。助けなければならない。」

半分は正解で半分は間違いであるこのタネは、日本人の中に根をはり、芽を出し、むくむくと大人になる。そして良心と無理解だけでなく、時に攻撃的な感情すら含んだ造形物が出来上がり、差別が生まれる。

困ってない人にサポートの押し売りをする人も、アイマスクをして視覚障害者の気持ちになろうとする人も、結局は「違う」ということを表面でしか理解していないのだ。本来は1000兆通り以上もある組み合わせなのに、障害者ならコレだ!と言わんばかりに、一律の価値観で手を差し伸べる(もちろん助けて欲しい人もいる)。それが上っ面なのだ。

「僕はけんちゃんの頭の中に入り込めない。感覚にも入り込めない。ただ寄り添うだけなんですよ。」

ホシノさんのこの言葉を、私は川内さんと同じルートを辿って受け止めることが出来た。

最初は私も、障害者と同じ感覚を味わおうとするその体験が、理解に繋がるだろうと思っていた。「ほかの誰かにもなれない」なんて、分かり合うことの放棄じゃないか、と。

しかし違った。

白鳥さんは「ちゃんと伝わってますか?」という問いかけが嫌いであるという。それはつまり白鳥さんに伝える人が、目の代わりになってしまうことで、作業のような、翻訳機械のような、無機質なものなってしまい、結局は二人とも楽しめないってことではないか。

それはアイマスク体験と同じで、一致させようと努力すること。そしてそんな努力は要らないのだ。だって、白鳥さんはあなたと作品の間に起こる現象を感じたいのだから。一緒に今を笑いたいのだから。

私たちは、友人と、ただ一緒に笑い合いたいんだ。その今を楽しみたいんだ。

「他の誰かにはなれない」「寄り添うことしかできない」

これは、分かり合うことの放棄ではなく、「違う」ということを自分の深いところで理解している人の言葉だった。私は薄っぺらだった。

自分の深いところで理解し、「違い」を楽しめた人だけが辿り着ける地点がある。

森山さんのいう「自分が楽になる」がそれだ。

森山さんはダウン症のお子さんと暮らしているが、白鳥さんたちとワークショップを重ねる体験を通じて不安は薄れて行ったようだ。

「いろんなひとがいて、どんな状況でもやっていけるって」と森山さんは述べているが、それは、障害を持っている人でも楽しく生きていることを目の当たりにしたからというより、「違い」を感じあうことの連続によって垣根が取っ払われたのだと私は推測した。

障害者と健常者の違いを出発点に、健常者と健常者の違いへ発展し、個性や特性の概念、自身の得意不得意、誰かの得意不得意、そんなぐにゃぐにゃで頭が更新されると、「違い」が本当の意味で当たり前になり、楽になるのではないか。多くの日本人がこの地点に辿り着ければ、この世の中はもっと生きやすくなる。

私は仕事柄、障害を持つ方々と接する機会が多い。

先日はお客さんの許可をいただき、息子に私の仕事を見せてみた。

全盲の方で白杖は使わない。玄関から車に乗り込むまでの数メートルを、私の両肩に後ろから両手を置いて歩く。息子はきょとんとした表情で、父とその知らないおじさんの光景を眺めていた。
私は特に「この人は目が見えないんだよ」といった説明はしなかった。お客さんと私の言葉、歩き方、表情、声かけ、動き、私とお客さん間に流れる雰囲気を、息子がどう感じるかに任せた。

大人の責任は大きい。私たちが子供たちにかける言動は、その子たちの価値観や考え方に影響を与える。また、既定の学校教育に委ねることは、「いろんな人がいる」環境ではないから「違い」が浅くなる。

息子には色々な人に合って触れ合って欲しいと思っている。将来「違い」を奥で受け入れる人間になってくれたら、きっと彼は笑顔で暮らせるような気がするのだ。これが私なりの種の蒔き方だ。

今回、本書「目の見えない白鳥さんとアートを見に行く」という作品に出会えて本当に良かった。自分の中に鎮座している浅い理解を取っ払うきっかけになり、私も楽になった。川内さんを始め、作品中に登場する方々にはたくさんのプレゼントを頂き、本当に感謝しています。ありがとうございます。

#読書の秋2021

#目の見えない白鳥さんとアートを見に行く


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