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焼き鳥デート

12月のとある金曜日の夕方。品川の街並みは、スーツを着たビジネスマンで混雑している。 オフィスビルからスーツ姿で駆け足で、タクシー乗り場まで向かう。
今日は、大手クライアントとの契約が無事終了したところだ。
普段は、ジーンズにジャケットやセットアップのラフなビジネススタイルだが、 今日は、久しぶりのスーツ姿。
そんな日に限って、彼女から慶応商店街の焼き鳥屋さんへ行きたい!との連絡が来ていた。 丁度、品川での契約も予定していたこともあり、安易に了解をしてしまった。
しかし、こんな日に限って焼き鳥屋とは… タクシーで商店街近くまで送迎してもらい、支払いを済ませる 多くのビジネスマンで混雑する商店街へ駆け足で向かう。 さすがに12月の金曜日、ビジネスマンの笑い声と呼び込みの店員さんの大きな声が響き渡り、賑やかさで寒さも一瞬忘れてしまう。

今日向かう焼き鳥屋さんは、呑み好きなら誰でも知る名店だ。彼女からの希望で、 やっとの想いで予約報告を入れると、両手を広げて喜んでいたことを忘れない。彼女のこの瞬間の為に、自分は頑張っていると言っても過言ではない。

そんな楽しみにしている彼女は、いつもと違って、早めに仕事を切り上げ、店の前で待っているらしい。予約時間の30分前から店に着いていたらしいが、 こちらは、クライアント先を出たばかりだった。 どんなに楽しみにしているのか?想像はつくが、こちらは日中からのプレッシャーと戦ってきたばかりだ。いやそれ以上に焼き鳥屋さんのプレッシャーの方が強いのかもしれない。

商店街の角を曲がり、お店を近くまで駆け足で近寄ると、 彼女は無邪気な笑顔で迎え入れてくれた。早くと急かされるが、まだ予約時間前だ。
この焼き鳥屋さんは、カウンターだけで古びた歴史を感じる外装で、入り口の扉は無く、店の入り口を覆っているビニール製の入り口から入る。まるでキャンプテントの様だ。
黒のTシャツを着た元気な女性の店員さんに 予約の時間と名前をつげ、
『早めに入れますか?』と問いかける。店員さんは、『少々待ちください。』とカウンターに戻る。

彼女の表情は、上目遣いで眉をひそめて、期待と不安が入り交じる感情だ。この表情が愛おしいくてたまらない。店員さんに願いを込めて数分待つと、明るい声で店内に誘導してくれた。
彼女は、小声で『やったー!』と言いつつ、外で並んでいるお客さんに申し訳なさそうに店内へ入る。 店内に入ると、空気は煙で充満していて、スーツ姿のビジネスマンやOL、これから同伴出勤の雰囲気を醸し出すカップルなど満席状態である。店中央の席を案内されると、 カウンター内の体格の良い50歳代の男性が忙しそうに、火の前で串を回している。
モクモクと出る煙と目頭は戦っている様子だ。
彼女は興奮を抑えられない様子で、何をオーダーするか?独り言で自分自身と打合せをしている。 先程の店員さんにビールだけをお願いして、焼き鳥は彼女に一任しよう!と 心に誓う。

彼女との出逢いは、今から1年前に新規クライアントとして、社長訪問した際が、最初の出逢いだ。
彼女の会社は、大手食品メーカーで、海外進出の際のチームビルディングや派遣先の社員さんのケアを依頼された。 契約終了後、担当マネージャーと共に、彼女の会社の社長はじめ役員数人と挨拶を するため、丸の内の本社へお邪魔した。彼女は経営企画室の中堅として、社長並びに役員からの信頼は厚い。
今回の挨拶訪問をアテンドしてくれたのも、彼女だ。僕は初対面だったが、担当マネージャーは数回面談済みで、仕事ぶりの前評判は事前に聞いていた。
応接室に通され、温かいお茶のもてなしを受けた。 扉からノック音が鳴り、彼女が入ってきた。
彼女の第一印象は、背中ほどのストレートヘアで小柄。淡い色のニットに膝下までの白のタイトスカート。靴は白の低めのハイヒールを綺麗に履いている。少し緊張した様子だが、表情は笑顔で少し丸みをおびた輪郭と白く透き通る肌は、 役員の心を撃ち抜く気持ちも理解できる。
名刺を交換し、ソファーに腰掛け、採用頂いたお礼を軽く伝えると、終始笑顔で落ち着いて1トーン落とした声で、こちらのお礼に応えてくれた。
軽く雑談しているところに、社長と担当役員が入室し、今後の活動について簡単に説明をする。ひと通り説明も終わると、 クライアント側の担当役員の方から、急遽会食の提案を頂いた。
この業界あるある話しなので、こちらも事前に覚悟を済ませておいた。 場所は、こちらで手配しておきますので。と彼女がひと言添えた時、きっと彼女も同行して楽しむタイプだな!と確信した。
集合時間と場所は、『後ほどSlackでお知らせします。』 と彼女からひと言終えたところで、一旦退出した。

会食場所は、落ち着いた料亭で談笑も2時間程で終了した。
役員さんをタクシーでお送り、私達も失礼します。といった空気の中、彼女と帰宅する方角が同じだったことに気がつく。僕から『もし良かったら近くまでお送りしましょうか?』と伝えみる。
彼女は少し迷いながらも、『お願いしていいですか〜?』とひと言。
いつもなら、お断りのシーンだか、彼女とタクシーに乗ることとなった。運転手さんに行き先を伝え、数キロ走ったところで、『何故今回タクシーに乗って頂けたのですか?』と聞いてみる。
彼女は実は財布をオフィスに忘れており、 移動手段が無かったことに、困っていた様だ。
『オフィスまで戻りましょうか?』と伝えて、運転手さんに行き先を変更してもらった。オフィスに戻り、財布を取り戻した彼女は、気分が晴れたのか、表情が一気に明るく変わり、一安心した。

12月の金曜日だからだろうか?夜の街並みは少し浮ついていて、 真面目に帰宅するには、もったい無いよ!と言わんばかりの雰囲気を醸し出している。麻布十番に高校の同級生がイタリアバルのお店を運営していることを思い出す。しばらく行っていないと思いついたところで、彼女を誘ってみる。
ダメ元だから、断られることは覚悟済みだ。
元々、好奇心が旺盛な彼女だろう、軽い間の後に、『是非お願いします!』と。送っていただいた御礼もしたいとのこと。

運転手さんに、麻布十番駅までお願いをして、友人に連絡を入れると、カウンター席を空けてくれるとのこと。 しばらく東京の夜景を地上からふたりで楽しみ、東京タワーの明かりが、 12月の夜を更に盛り上げている気がした。

イタリアバルのお店は、先程の料亭とは真逆の雰囲気で、ポップな音楽と暗い照明、カジュアルな店内には海外からのお客さんも数人いる。こっちの雰囲気が好きだなぁ〜とフケっていると、彼女のスイッチもオンに切り替わったのか、仕事モードからプライベートへ 切り替わった。友人と軽く挨拶を交わし、ビールとお任せのオードブルを頼み、軽く乾杯をした。 仕事から解放された彼女は、溢れる笑顔が止まらない。無邪気な子どもに戻ってしまった彼女は、話しもお酒も止まらなくなってしまった。あれだけ役員からの信頼を受ける彼女もプライベートは1人の女性である。
2時間程会話とお酒、店内の雰囲気を楽しんだところで、自宅まで送り送り届ける使命感が襲ってきた。
お店を出ると先程までの賑わいから静けさに変わっていた。静まりかえる街中を歩き、タクシーを捕まえて彼女の自宅へと急ぐ。
2時間話し続けたからだろう、彼女はすぐに僕の左腕を枕に眠ってしまった。 きっと普段の仕事で疲れているのだろうと首都高を走るタクシーの中から六本木ヒルズの夜景を見ながら、彼女の微かな重みを感じていた。

彼女を自宅に送り届け、自宅に帰宅すると、部屋の明かりは全て消えていて、家族全員は就寝中である。ソファーでひと息つき、2次会の余韻に浸る。彼女が気になる、 何だろう?この感覚は。懐かしくもあり、鼓動が高まる感情。頭の中は彼女の笑顔で覆われている。自分には家族もいる。しかもクライアント先である。頭では感情を抑えることに集中しなければいけないのに。それを逆らう様に感情は高まるばかりだ。シャワーを浴びても、眠った翌日でも彼女で一杯だ。 数日が経過しても、何処か彼女の存在を気にしていた。自分でも何が起きているのか?理解が出来ないし、どうすればいいのか?全く分からない状態である。
大学院時代の友人でもあり、ビジネスパートナーとして、一緒に会社を立ち上げた副社長は、僕の異変にいち早く気がついた。彼とは定期的に面談を 行い、隠し事や気になる事は、全てアウトプットすることにしている。
面談の日に、いつものラウンジで面談がスタートした。彼の前に座ると自然と先日の出来事から自分の状態を話し出す自分がいる。彼は表情ひとつ変えない。もう分かってましたよ。と言わんばかりの雰囲気だ。ひと通り話しが終わると、 彼からひと言、困りましたね!と笑顔。流石の余裕である。これまでは彼の話しを聞く側だった僕が、話す側に交代してしまった。彼は大学院時代に駆け落ち同然にパートナーと結婚し、大学院を辞めて、生活費を稼ぐ為に、日中は体力労働、夕方から深夜までバーテンダーのアルバイトを掛け持ちしていた。 そんな生活は、長く続くことも無く、パートナーを失うことなる。そんな時に、起業の意思が固まった僕から誘いを受けて、2人で人生を賭けた勝負に出た。苦労を共にしてくれたお陰で、どんなことが起きても笑える仲になっていった。
今回も彼は笑っている。まるでコーチングを受けている様な 質問攻めに、僕も正直に答える。 彼からは、『これは病ですね!』とひと言。
病は病院へ行きましょう!と。精神科か?メンタルクリニックか?と恐々としていると、彼からの提案は、『直接彼女に伝えましょう!』とのこと。
今年1番の大声でリアクションをすると、彼は『アポイント入れておきますね!』と笑顔。
僕の気持ちを本人に伝えるということは、会社並びに仕事や今後の関係性が業界に広がれば、既存の取引先を失い、会社を無くす可能性もある。そんな不安感しかない僕に対して、彼は毅然とした態度で、『伝えましょう!』としか言わない。
最近はパワハラやセクハラに気をつけなければならない時代なのに、 彼の様子は、全く変わらない。 翌日、彼はアポイントを本当に入れた様で、ホテルのラウンジで打合せ目的で3人で逢うことになった。 落ち着かない数日を過ごし、当日を迎える。この歳になって、何をしてるのだろう?と頭を抱えながら、都内のホテルに到着する。
コロナ緩和もあり、ラウンジは、 満席状態である。待合せ時間まで少しあるので、庭園で軽く散歩をして、頭の中でデモを繰り返す。創業当時のピッチ大会でもここまで念入りにデモを繰り返すことは無かった。確実にその当時よりも緊張しているし、全てを失う覚悟をしている。

丁度、ラウンジの窓側の席が空き、先に僕達がソファーに 腰を下ろす。そこから数分後に、彼女からSlackにメッセージが入る。『ホテル到着致しました。』と。事務的な文面が更に緊張感を高める。 一息深呼吸をすると、フロント側から彼女が少し駆け足でラウンジ入り口までやって来た。
今日の彼女のスタイルは、後髪を上げて、前髪は斜めから軽く流す感じ、 両サイドから細く垂れる髪の毛が、色気と女性らしさを引き立たせている。
少し緊張した面持ちで、ソファーに座ると、彼女が一呼吸してから、『先日は申し訳ございませんでした!』と深々と頭を下げる彼女。
僕達ふたりは、呆気にとられ、お互いの顔を見合わせる。あまりの突然に唖然としながら、 笑いが込み上げきた。
副社長とあまりの突然の笑いを抑えていると、
彼女から『先日は、御礼をするつもりが介抱されるし、お会計も何もしていないことに、罪悪感を感じでいました。今回、副社長より連絡が入った事で何らしかのクレームのお詫びかと存じます。流石に直接取引先の社長にお詫びを 入れるのも、失礼だと思い、今まで誰にも相談出来ず、この度は大変失礼致しました。』と、ひと通り彼女からのお詫びを聞いたところで、副社長から僕に話しを振られてしまった。
僕からは、ひと言『あなたが好きです。先日ご一緒してから、あなたを忘れることが出来なくなりました。今日は、それだけをお伝えに来ました。』
彼女は、唖然としていて、開いた口が塞がらない。とはこう言うことなのか。と納得する。
彼女は、困る様子も無く、『ありがとうございます』と 軽く応えてくれた。僕は心臓が張り裂けそうに鼓動を打っている。伝えるだけのつもりだったが、何かに期待している自分がいる。その期待を彼女に向けることも出来ずに、長い沈黙が過ぎていく。

数秒、数分経過したところで、彼女が副社長へ庭園に誘う。僕は庭園で話す2人を窓越しのソファーから 見ることしか出来なかった。 数分後、彼女だけが戻ってきた。 彼女から『お気持ちはとても嬉しいです。でもそのお気持ちにお応えすることは出来ません。しかし肩書きや会社の関係を外した1人の人間として、お近づきになれると嬉しいです。』と彼女から精一杯の応えをもらえた。 庭園で副社長と何を話していたのか?そんな事をふたりに聞くことも出来ずに、まずは僕の気持ちを伝える事が出来て、胸の荒波は収まった。
流石、副社長だ。こんなに仕事に集中しない社長が居たら、多方面に何かと影響が出ると考えたのだろう。特効薬を処方してもらえた感覚だ。 しかし、そんな気持ちを受け止めてしまった彼女は、複雑な心境である。
何かと面倒なバックグランドを背負う僕とどの様に接していくべきか?そんな彼女にきっと副社長は、庭園で丁寧にケアをしてくれたのだろうと思う。

そこから僕と彼女の関係は、時間を掛けながら、取引先から1人の人間、男女へと 関係を深める。その流れはごく自然だった。僕の海外出張の際に現地で集合し、ふたりだけの時間を楽しんだ。国内では、高校の友人から紹介してもらった会員制のBARで休日前に軽く乾杯をしたり、僕のアトリエ兼個人のマンション部屋で、束の間のひと時を過ごした。


ようやく焼き鳥メニューとの格闘に決着がついた彼女は、いつもの様に戦略的なオーダーを店員さんに伝える。
そう、もう僕がオーダーしそうな焼き鳥も、分かってますよ〜!の雰囲気で、自分だけが食べたい焼き鳥、シェアして食べたい焼き鳥、僕の焼き鳥と、次々と店員さんへオーダーを伝えていく。
あとは運ばれてくるのを待つだけ、といった様子で、ワクワク感が抑えるのに必死だ。まさにエサを前にした子犬が待てと命令されて、落ち着かない様子そのものである。
お通しとビールが運ばれ、とりあえず乾杯をする。 今日の出来事をお互いに話していると、彼女が大好きなレバーと砂肝が運ばれてきた。 美味しそうに食べる彼女の姿。僕はそんな彼女が大好きだ。いつも美味しそうに食べる彼女を見ているだけで、こちらはお腹いっぱいである。
特に焼き鳥は。半分っこしながら、数個の焼き鳥を食べ、お腹も落ち着く。終始笑顔が止まらず、『お店予約してくれて、ありがとう!大変だったでしょう⁈』と 僕の表情を覗き込む。
この時代に何度もお店に電話したのは久ぶりだよー。とは言えず、軽く『大丈夫だよー』とさり気なく応える。
真っ直ぐに感謝の気持ちを伝えてくれる彼女も大好きだが、少し彼女に振り回されている僕自身も少し好きだった。
彼女と出逢ってから約1年。1年記念日は、仕事の関係で一緒に過ごすことが出来なかったが、今日は彼女に秘密でピアスのプレゼントを用意していた。
落ち着いたタイミングで、これまでの感謝の気持ちと未来のことを伝えることを準備していた。 1時間程、焼き鳥屋さんを楽しんだところで、外の混み具合も気にしながら、早めのお会計をお願いする。
店の外へ出て、いつもの様に麻布十番の友人のお店へ行く手配をしていると、そっと彼女から僕の左手を握る。どうしたのだろう?と彼女を見ると、東京タワーまで歩きたいとのこと。
商店街から東京タワーまでは少し距離があるが、久しぶりに都会の夜道を歩くのも良いかと思い、歩き出す。 彼女の小さな手は、お酒の効果もあり、ほんのりと温かく、弾力感があり柔らかい。上品な朱色のネイルが、女性らしさを演出していた。

しばらく歩き、増上寺辺りの薄暗い落ち着いた歩道で、 彼女が立ち止まる。 数歩先で僕が立ち止まると、彼女が俯向く。

しばらくの沈黙が続く。

『どうした⁇』と伝えるも、沈黙の時間が続いた。

『別れて欲しい』と彼女。 俯向く表情には笑顔は無く、ひと言を発することがやっとの様子だった。
動揺する僕。何が起きたのか?全く分からない! 彼女からの別れは、どこか頭の片隅で想定していたが、なぜ今なんだ⁇ 別れの気配など微塵も醸し出していなかったじゃないか!
僕の理由なのか⁈他の男性の存在なのか⁈ 数々の問いが、頭の中をぐるぐると回る。
1年前に僕の気持ちを伝えた時以上に、心臓の鼓動が高ぶる。

立っているのもやっとだが、冷静に話しが聞きたいという欲求に駆られる。

『春からロンドン留学が決まったの。』と彼女。以前から海外への興味は聞いていたが、留学の話しは聞いていなかった。
これまで留学の希望を出していたが、 5年以上叶わず、一ヶ月前に正式に決定した様だ。5年越しの留学に、彼女の決意も固く、そこに賭ける想いもかなり強い。その気持ちが強く伝わる。

たまに通る車の音が、ふたりの沈黙を和らげる。

元々、自立心の強い彼女だからだろう?きっと自分1人の力で人生を賭けた勝負に出たいのだろう。と頭では理解できる。

『これまで本当に幸せでした。ありがとうございました』と彼女。

急な離れた距離感に心がえぐられる。 さっきまでの笑顔はどこへ行ってしまったの⁇と心奥底で叫ぶ。

この1年間は夢を観ていたのか? 現実に引戻す様な彼女の口ぶりには、彼女なりの決意が垣間見れる。

いつもの様な彼女の笑顔は、そこには無い。

きっと彼女なりに1ヶ月間考えた結果なのだろう。
なんとか引き留めたいと気持ちが込み上げてくるが、彼女の涙を目の当たりにすると、自分自身の感情を抑えることに必死だ。

そして様々な感情が込み上げてくる。
彼女は、それ以上は何も言わないで!と言わんばかりに、『今日は地下鉄で帰ります』と芝公園駅の階段へ歩き出した。

彼女を感じることが出来るのも、これが最後になると思った瞬間、手を差し出す自分がいる。
しかし彼女に触れることは無く、ゆっくりと歩く彼女の背中を見つめることしか出来なかった。

鞄から、おもむろにプレゼントしようと事前に購入をしたピアスを、お洒落な紙袋から取り出す。ピアスケースが入った可愛らしい箱を右手で取り出した。

惨めさ、悲しみ、喪失感、孤独感がtsunamiの様に押し寄せる。
その感情を受け止めることは、到底出来なかった。

その感情から逃げる様に、 ピアスを右手に持ち、夜の東京の街を全力で走り出した。
あて先も無く、ただ走り出したい方へ、スーツ姿の僕は全力で走る。

走って、走って、走って、走りまくる。

革靴を脱ぎ捨て、感情から逃げることに必死だ。
もう何処にいるのかも分からない程、走り続けた僕は、 ボロボロになっている。

スーツを気にする余裕なんてどこにも無い。
自分が感じる身体の感覚は、どこも残されていない。 何度もピアスを捨て様としても、どうしても自分から切り離すことが出来ない。
切り離してしまうと、彼女との思い出も、東京の街に埋もれてしまう気がした。

東京の空は、朝日がうっすら昇りはじめていた。 彼女を失った淋しさを包んでくれる様な、淡い朝の空を見上げながら、彼女の喪失感に浸ることしか出来なかった…


東京の街は、深い眠りから目覚めはじめ、新たな1日へと動き出そうとしていた。


終。

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