「私たちは寂しいからこそ独りではない」

02:00 洗い物と炊飯器のセット終わりアイスコーヒーで一休み。

有名なエリザベス・キューブラー・ロスの死を受容するまでの5段階モデル。

1.否認と孤立

2.怒り

3.取り引き

4.抑うつ

5.受容

今の父親(95歳)はこのキューブラー・ロスの5段階のどこに相当するのかと考えた。たしかにこの段階は高齢者にとっては顕著な心理なのだろうけれど、うちの父親の場合は段階のようにはっきりはしていないと思う。それらが混ざり合ってごちゃごちゃになっているようだ。

最近の父親はほとんど部屋から出てこなくなった。
そして何事にもやる気がなくなっているのがありありとわかるのだ。入浴もおっくな感じ。
それでも身体を拭くとか入れ歯の手入れとかは行っているのだけれど。自分はもう長くないし、一日3時間は昼寝しているので腹はへらないから1日2食でいいと言い出した。
と言ってもやっぱり食べたいと思うときにそなえて一応夕食は作っておくのだ。逆に一日2食は自分で咀嚼してちゃんと食べているわけなのだけれど。

ディサービスで同世代の老人と触れ合うことで気分転換をするということも、何度か試してやはり自分の望んだ世界はないのだと失望しているようだ。「4.抑うつ」の段階なのだろうか?

家族としては父親のストレスを少しでも緩和してあげたいとは思うけれど限度がある。一時期息子の音楽活動や創作活動についていろいろ質問してきたのは家族との接点を求めていたのだろうし。
でも父親が望んでいるのは、同世代で趣味・・・短歌創作や絵画・・・に関して話の出来る同世代で異性の存在なのだろうけれど。
んなものそこらのディサービス行って見つかるわけはないのだ。家族が創作活動をしていたとしても父親と同じ趣味である可能性はないし話合わせてもすぐぼろが出る、結果は余計落胆させることになる。

考えたら息子のほうがもう「5.受容」の段階にあるのかも。ひとりで生きひとりで死ぬ、心静かに死を待つ・・・などというにはほど遠いわ(^_^;

ただ世代年齢は違うけれど孤独という点は共通しているわけなのだ。「私たちは寂しいからこそ独りではない」っていうこと。

》隣り合わせの独房に入れられ、壁をこつこつとたたいて通信し合う囚人ふたり。壁は、ふたりを分けへだてているものであるが、また、ふたりに通信を可能にさせるものでもある。わたしたちと神のあいだも、そんなぐあいだ。どんな分けへだても、きずなになる。/シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』

もしそうならこの世界は独房の壁を叩く音が鳴り響いて神様はきっと不眠症になるに違いない。

あ、ワタシこの前のオープンマイクで刺激されてまた近々またオープンマイクで歌いますよ。
なんかいろいろ書いてしゃべるよりもよりライブの最中ががホントの自分。
臆病で不器用で対人恐怖で変なこだわりで媚びない頑固、それ以上でもそれ以下でもない、つまり誤魔化しようのない自分。

それ以外にも予告していた月いちの「ガザ停戦」のためのスタンディングライブもやります。ワタシはアコギ弾きながら独房の壁を叩くのです。

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