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太宰治『黄金風景』とチェーホフ『三人姉妹』

 文豪・太宰治がロシアの作家・アントン=チェーホフに大きく影響を受けていることは、太宰をよく読む方であればご存じであろう。例えば、彼の代表作『斜陽』は、チェーホフの晩年の戯曲『桜の園』から着想を得たといわれている。『斜陽』は、かつては裕福だった一家が、戦後生活の困窮により東京の家を売ることになり、伊豆に移って慎ましく生きようとするも次第に落ちぶれていくという内容で、一方『桜の園』は、没落した女地主・ラネーフスカヤ夫人がかつての農奴・ロパーヒンに自らの領地「桜の園」を売り、故郷を去るという話であるが、いずれも自分の住処を売らなければならないほど没落した貴族を描いているという点では共通している。実際、太宰も青森県の地主・津島家の出身であり、彼の生家は戦後落ちぶれてゆく。そんな実家の姿を『桜の園』に重ねて書かれたのが『斜陽』というわけである。

 ほかにも、彼の著作にはたびたびチェーホフの名前や作品が登場したり、あるいはその一節が引用されたりする。そうした作品の例として、いま私が思いつくものだけでも『正義と微笑』『火の鳥』『津軽地方とチエホフ』などがある。そして、中には、チェーホフの名前も作品名も引用もいっさい出てこないが、彼の影響を受けたのではないかと思われるものもある。それが、表題に挙げた『黄金風景』という作品である。これは、彼の四大戯曲の一つ『三人姉妹』の影響を受けていると考えられる。

 『黄金風景』は、新潮文庫では『きりぎりす』に収録されている作品で、ごく短い小説である。内容を簡単に要約すると(上記のリンクから読むことができるので、ネタバレを避けたいという方は、先に一読してから以下に進むことをお勧めする。短い作品であるため、五分もあれば読み終えることができるだろう)、かつて「私」がいじめていた女中・お慶が、家を追われ文筆でもってなんとか生活している落ちぶれた「私」の前に家庭を築いて再び現れ、「私」は罪悪感と屈辱感で捨て鉢になるも、お慶一家が海岸うみぎしでのどかに石を投げて笑い興じながら、「私」のことを少しも責めず、それどころか褒める光景を見て、自らの再出発に希望を見出す、という話である。太宰の著作の中では比較的明るい作品であり、美しい短編である。

 この作品には、次のようなエピグラフが付されている。

海の岸辺に緑なす樫の木、その樫の木に黄金の細き鎖のむすばれて   ―プウシキン―

 これは、プウシキンの叙事詩『ルスランとリュドミラ』の冒頭の一節なのであるが、このエピグラフこそが、チェーホフの影響を受けたと考えられる部分である。というのも、この一節と全く同じ部分が、『三人姉妹』に於いても登場するからである。しかも、それは一度だけではなく、四度にわたって引用されるのである。以下に、その個所を示す。

マーシャ "入江のほとり、みどりなす樫の木ありて、こがねの鎖、その幹にかかりいて……。こがねの鎖、その幹にかかりいて……。"

マーシャ 入江のほとり、みどりなす樫の木ありて、こがねの鎖、その幹にかかりいて……。こがねの鎖、その幹にかかりいて……。(泣きださんばかりに)いやねえ、どうしてわたし、こんなことばかり? けさ起きぬけから、この文句がついて離れないの……

マーシャ "入江のほとり、みどりなす樫の木ありて、こがねの鎖、その幹にかかりいて……こがねの鎖、その幹にかかりいて……" わたし気がちがいそうだ。……"入江のほとり……みどりなす樫の木……"

マーシャ "入江のほとり、みどりなす樫の木ありて、こがねの鎖、その幹にかかりいて……みどりなす猫……みどりなす樫……" こんぐらかっちまった……(水を飲む)失敗の人生……わたしこうなったらもう、なんにもいらない。……わたし、じきに落ちついてよ。……みんな同じことだ。……なんだろう、入り江のほとりって? なぜこんな言葉が、頭にこびりついてるんだろう? ごちゃごちゃだわ、あたまの中が。

(神西清訳より。前二者は第一幕の、後二者は第四幕の台詞である)

 冒頭でも述べたように、太宰は数多くの西洋の作家の中でも、なかんずくチェーホフの影響を受けている。それは、『斜陽』をはじめとする数多くの作品に於いてチェーホフが引用されていることからも明らかである。この『三人姉妹』もよく彼が持ち出す作品の一つで、例えば『火の鳥』や『津軽地方とチエホフ』などに登場する。

成功であった。劇団は、「鴎座。」劇場は、築地小劇場。狂言は、チエホフの三人姉妹。女優、高野幸代は、長女オリガを、見事に演じた。
(『火の鳥』より)

こなひだ三幕の戲曲を書き上げて、それからもつと戲曲を書いてみたくなり、長兄の本棚からさまざまの戲曲集を持ち出して讀んでみたが、(中略)いろいろ讀んで、私にはやはりチエホフの戲曲が一ばん面白かつた。(中略)さらにまた「三人姉妹」に於ては、トウゼンバツハ氏とマーシヤさんが、次のやうな會話を交してゐる。
トウゼンバツハ――二百年三百年後はおろか、たとへ百萬年の後でも、生活はやはりこれまでの通りです。我々に何の關係もない――少くとも、我々の到底知ることの出來ないやうな、それ自身の法則に從ひながら、生活は永久に變ることなく、常に一定の形を保つて續いて行くでせう。渡り鳥、まあ、例へば鶴などが飛んで行くとする。そして高級なものか低級なものか、とにかく、どんな考へがその鶴の頭に宿つてゐるとしたところで、彼等は依然として飛んで行きます。そしてなぜ、どこへといふ事は知らないのです。たとへ、どんな哲學者が彼等の間に現れようと、彼等は現在も飛んでゐるし、また未來も飛んで行くことでせう。何とでも勝手に理窟をこね廻すがいい、おれ達はただ飛べばいいんだつてね……
マーシヤ――それにしても意味といふものが――
トウゼンバツハ――意味ですつて……いま雪が降つてゐる、それに何の意味があります?
(『津軽地方とチエホフ』より)

 もちろん、太宰は大の読書家であり、ほかにも様々な西洋の作家の作品に親しんでいたから、プウシキンの『ルスランとリュドミラ』も読んでいた可能性は十分にある。しかし、中でもチェーホフの影響が大きいことを考慮すれば、プウシキンから直接引用したというよりは、『三人姉妹』を介して孫引きしたと考える方が妥当であるように思われる。おそらく、太宰は『三人姉妹』を繰り返し読む中で「入江のほとり……」の一節が印象に残り、それを『黄金風景』を書くに当たり、エピグラフに持ってきたのだろう。そうだとすれば、引用個所がほぼ一致していることにも納得がいく。

 では、なぜ太宰はこの一節を『黄金風景』のエピグラフとして付したのであろうか。

 私は最初、主題上の関連性を考えた。『ルスランとリュドミラ』あるいは『三人姉妹』のテーマが、『黄金風景』のそれに関係しているのではないかと思ったのである。しかし、どうもそういうわけではないらしい。というのも、『ルスランとリュドミラ』は、さらわれた姫を騎士が救い出すという物語で、『三人姉妹』は、故郷モスクワへ帰ることを夢に見つつも現実の煩わしさに苦しめられる悲劇(喜劇的な要素もあるが)であるのに対し、『黄金風景』は、立場が逆転し落ちぶれた「私」が、罪悪感と屈辱感にさいなまれるも、お慶一家の平和な光景を見て、自らの再出発に希望を見出すという内容であり、前二者とほとんど主題に於ける直接的な共通点が見られないからである。そのためか、このエピグラフはやや解釈が難しいものとなっている。実際、私はこの記事を書くに当たり様々な感想や批評、解説を調べたのだが、その中でこのエピグラフを十分に考察したものはほとんど見られなかった。唯一、プウシキンからの引用を前提として、その意味を考察したものがあったので、それを以下に掲げておく。

 また、『三人姉妹』からの引用を考慮し、この戯曲に於ける「入江のほとり……」の一節の役割と何か関係があるのではないかとも考えた。先ほどの引用個所を見ていただければわかる通り、『三人姉妹』に於いて、この一節はもっぱら次女のマーシャが引用している。彼女は三姉妹の中で唯一結婚している人物なのであるが、その生活に不満を抱いており、細君に苦しめられている軍人のヴェルシーニンと互いに打ち解けあい、ついには彼に恋をする。退屈な結婚生活から自分を救ってほしいという気持ちを、さらわれた姫を騎士が救い出すという物語である『ルスランとリュドミラ』の一節に仮託しているというわけである。しかし、これも『黄金風景』の主題とは繋がりにくいように思われる。強いて言うなら、苦しい「私」の心境がお慶一家の和やかな光景によって救われたことに関係しているのかもしれないが、やはり解釈として無理のある感じは否めない。

 そこで、私はもう少し単純に考えてみることにした。すなわち、このエピグラフは、単にラストの「黄金風景」の暗示なのではないだろうか。海岸で石を投げて笑い興じあっているお慶一家の美しい光景を、海辺を想起させるこの一節によって示唆しているのではなかろうか。なぜプウシキンの『ルスランとリュドミラ』の冒頭部分であったかと言えば、それは彼が読み親しんだ『三人姉妹』の中によく登場するからであり、彼の印象に残っていたからであろう。また、プウシキンという外国人の詩の一節を、部分的に持ってくることにより、権威付けというか、何か意味深長な印象を与える効果を同時に狙ったのかもしれない。解釈としてはやや安易ではあるが、こう考えるのが一番自然であるように思われる。

 これはあくまで仮説でしかないが、チェーホフを好んだ太宰であれば十分にありうる話だと思っている。論文なども当たってみたが、ついぞこの点を指摘した言説を見つけることはできなかった。もしそうした指摘がすでに存在していることを知っている方がいれば、ぜひ教えていただけるとありがたい。

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