フィクションの法令遵守を指摘も私たちの世の中が多様性があるよい兆候
巷ではフィクションにおける「法令遵守(コンプライアンス)」について話題になっています。いちおう私も「盗んだバイクで走り出す」世代なので、自分なりの解釈について述べたいと思います。結論としては私たちは多様性のある世界を生きており、より対話が必要になったという、良い状況だと理解しています。
そもそも何があったのか
映画「耳をすませば」で主人公二人が自転車を二人乗りしてしまう。これは法令違反なのではないかという指摘があったそう。この画像の直前に犯行があったとする話ですね(笑)。
また、映画「となりのトトロ」では入浴シーンが問題になっています。これは児童虐待、児童ポルノだとする話ですね。このシーンの前でお父さんの急所をメイちゃんが隠しているのが、セクシャル・ポルノの表現そのままであると。
指摘する方がおかしいという反発
一方、これらの情報拡散や報道に対して問題視する向きの発言も見られます。これを問題にしていったら作品は何も作れない。こういう発言をする方がどうかしている。フィクションなのだからその辺は大めに見てさしあげろ。などなど。
心情的にこれを言いたい気持ちもよくわかります。しかし、根拠としては弱いと思っています。自分自身も「盗んだバイクで走り出す」世代なのでこれは大問題です(笑)。
指摘する人は自分の中の悪を嫌悪する
自分の中にある「悪」を受け止められない。これが根本原因のような気がします。どういうことか。
以前、「打ち合わせの発言ではなく事実に即して修正して記述した」という趣旨の発言をしたところ「捏造はけしからん」、「コンプライアンス違反につながる」という内容の指摘がありました。
一応弁解しておくと、記載内容は後から調べたところ事実通り、発言をした人の言い間違い、その言い間違いを誰も指摘せず(気づいていたかどうかも不明)、その後、発言を修正した議事録は、利害関係者の対立する双方で確認した上で承認されています。
この件で思ったのはこの指摘をした人は「自分の中の悪」を受け入れられない。そういう状況にあるのではないかということです。上記の例で言えば、議事録とは当日の発言内容から改変できるということになります。つまり、自分が有利になるようにいくらでも改変できるということに気づきます。他者がこれを悪用するのはけしからん。こういう論理なのでしょう。
他者に対する疑惑となっていますが本当にそうでしょうか。そこには自分がその立場になったら「悪」になれる。それに対する不安があるのではないでしょうか。
白と黒ではないグレーゾーンがある
グレーゾーンとどう向き合うのか。それについて確信が持てない。これが原因だと考えています。
コンピュータのプログラムであれば、0か1か二律背反以外はありません。必ず何らかの結果が出てきます。たまに間違える結果が出てきますが、プログラムのバグであったり、そもそもの論理的に矛盾していたり、システム側の作りが悪いのが原因だったりします。
一方現実世界ではそうもいきません。法律・法令の類や契約書はたいへん厳密に書かれています。一方、裁判など法解釈される場合は判例というものが参考にされて判断されます。
つまるところ、白でも黒でもないグレーゾーンがあるということです。私たちはそれを受け入れることが必要だと思います。
明らかに走行車両がない横断歩道を赤で渡るか
これは「道路交通法第7条」により罰せられる内容です。
では、周辺に脇道もなく車両の出入りできる余地はない。その横断歩道の周辺には明らかに車両は認められない。当該横断歩道は29分遮断、残り1分が横断可能ということだったらどうでしょうか。
極端な例ではありますが、普通であればどうするか迷うところだと思います。
法律等は悪をなそうとする人への抑止力である
法律・法令等は意図的に悪をなそうとする人への抑止力であると考えています。
人がたくさん集まっていると必ずといっていいほど悪をなす人が一定数出てきます。当人には当人なりの正義があり、悪だとも思っていないこともよくあります。
意図的に限りなく近い黒をグレーゾーンだとして行動する人もいると思います。とはいえ、密なコミュニケーションがある場合、この行動をし続けるのは難しいと思います。あの人と一緒にいると損をすることが多い。そう思われることで当人にとっての不利益が生じるからです。
法律・法令等により「やってはいけないこと」の定義がされていれば、上記の判断も容易になる。そのことはひいては皆が好ましい行動をすることに繋がる。そういう構造ができるということですね。
自分の正義を信じるには他者との関係が必要
横断歩道の例は極端でした。一方、普段の生活でもどっちつかず、グレーゾーンはよくあることです。また、意図せずグレーゾーンに入っていることもあります。
グレーゾーンいるとわかったら利害関係者が誰かを考えた上で、最善の行動をすることが必要だと思います。利害関係者で合意できる正義を行うとも言いかえられます。
問題は、①そもそも利害関係者が誰であるかがわかっていない、②利害関係者が識別できたとしてそこに決まり事や合意がない、③決まり事や合意を形成するための話あいなどのコミュニケーションもない、ということだと思います。
つまるところ、SNSでフィクションの法令遵守を主張する人たちは、上記の3つを把握や実践していない。故にそれを求めて発信しているのだと考えています。
いろいろな意見が出るのは多様性の良い兆候
「新しい生活様式」こともあり、このあたりが顕在化してきているのだと思います。そしてこれは多様性があるということである意味喜ばしい状況だと思っています。
リアル、ネットと称されますが、だれが利害関係者になるのか、その人達の関係性における現状の問題と今後の方向性は何なのか。利害関係者同士のコミュニケーション、対話が必要なのか。必要だとしてどのように広げたり、深めていくのか。
何らかの発言をしているだけまだましなのかもしれません。むしろ問題にすべきは発言もせず、コミュニケーションもとらずに孤立している人たちです。
未知のもの。自分とは意見が異なるもの。一旦は敵として認知して行動しがちです。社会がなかった頃の生物にとってはこの方が生き残れたのかもしれません。一方、私たちは社会性を持っています。
リアル・ネットの両方を視野に入れ、関係性を持つ、より良くしていくことが必要だと思っています。
ビジュアル化が有用
異なる立場や価値観。様々な人が集まった場合、コミュニケーション自体が難しい。これはよくある話です。そこで有用なのがビジュアル化です。
グラフィック・レコーディング、ビジュアルファシリテーション(ファシリテーショングラフィック)はどの際に非常に便利です。何より時短、効率化に役立つと思っています。
ビジュアル化の恩恵を得られるようになることで、人類はさらなる進化を果たすと思っています。
楽描きが世に浸透するための研究のための原資として大切に使います。皆様からの応援をお待ち申し上げます。