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『あるものさがしの感度がよろこび指数をあげる』第38言

日本人には「桜をみると春を感じる」というかわいらしい感度がある。

電車が駅に到着する手前、見下ろす位置に川。その両岸に桜が満開に咲いている。昨日の朝それを見たとき「うわぁ」と心の中で口走っていた。太陽にきらめく桜はやはり文句なしにきれいだ。

今日はくもり空、午前中に通った公園。桜が満開に咲いていた。ここにこんな桜があるなんて。またまた「うわぁ」よくばってその美しさを写メにおさめてしまう。

これも立派な「花見」である。

よく、「その音楽を聴くとあの時のことを思い出す」なんて表現をする。それもひとつの感度だとわたしは思う。むかし耳で聴いた音、それがその時の出来事や感情までを思い出させるなんて、すごい感度じゃないか。

わたしたちは時間や季節をたのしむ感度がある。

ことしは花見ができない、それでも、あるものさがしの感度をあげれば、花はそこにあり、見ることはできる、春のよろこびを感じることができる。

あるものさがしの感度をあげる

いつだったか、家から駅に向かう道を変えてみようと思い立ったことがある。たったそれだけであんなに世の中の「ある」に気づくことになるなんて思いもしなかった。

1本だけ向こうの道にする、たったそれだけ。

その時、自宅の1階をコーヒー焙煎・販売している一軒家を左側に見つけた。その脇には立派な木があって、ピンクっぽい花が少し咲いていた。

「さくら?」何気なく通りすぎた。

またある時、その道を通ったら、その木に白い札が付けられていた。

「わたしは杏(あんず)です」 ………。

わたしの声を聴いていたのかと思うようなタイミングに、つい「すいません」とあやまってしまいそうになった。

「杏さん、おはよう」

それからそこを通る時のあいさつルールになってしまった。

以来、よく道に咲いている草・花・木を見るようになった。よろしければぜひ一度おためしを。結構びっくりするくらい生えている or 咲いているんですよ。

「ない」が「ある」に変わる

「ない」と思っていたのはじぶんが見ていなかっただけで、最初から「あった」ことに気づく

そんな体験をしました。

日本人がむかしから大切にしてきた「めでる」文化ってこういうところから根づいていたんじゃないかな、なんて思ったりする。自然の中にごく当たり前にあるものを「ない」と見過ごすんじゃなく、「ある」を見いだすことに長けていたんじゃないかな。そのものが持つ美しさや色やにおいや季節、そして労いや癒しを。

そういう意味では「ある」に気づく感度や、その中からよろこびを見出す感性が本来はすぐれているんじゃないかな、って思ったんです。

時代が変わっても、どんな状況下でも、わたしたちは音楽でその時代を思い出す感度がある。

だからあるものさがしできる感度もあるし、よろこびを見いだす感性も今もちゃんと「ある」はずなんだ。


花より団子で、また新しくできただんご屋さんを見つけてしまう感度と、(あのみたらし団子は美味しそう♪)とよろこびを見いだす感性もちゃんとありますけど(●´ϖ`●)

ほっぺた上げてよろこび指数あげるために歯を大事にしなくっちゃ


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