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「テーラメイド」職員は、かなしい。

今日はテーラーメイドな支援ついて、最近考えてることを書いてみたいと思います。

テーラーメイドとは

このテーラーメイドという言葉、スーツなどの服飾品で使われることが多いですが、
意味としては仕立て屋taylor」に特別に仕立てて貰うこと、または仕立てて貰った服飾品それ自体意味するということ。(Weblio辞典より)

支援の場では、その子に合った支援を子どものニーズを聞き取りながら仕立てて行くようなニュアンスで使っています。
こんな定義を聞くと大事だよね、それが理想でしょと思います。
そりゃそうなんですが、施設には拡大された「テーラーメイド」おばさん・おじさんが登場して、現場が混乱することがあります。

「テーラメイド支援」がどう現場を混乱させていくか。

以前からよく書いていますが、入所する子どもたちはそれぞれに「普通」を持ってきています。それぞれ違う文化があるわけです。
そして、様々な理由からそれらの文化が施設という場所で集まってきます。

そんな中で子どもに合わせた支援をすると、子どもも大人も各々の生活をするようになります。ご飯の趣向やら、生活リズム、勉強にたいする意識含めて。それはそうです。それが当たり前なんだから。一人がカップラーメン食べて、ひとりはハンバーグ、ひとりはウーバーイーツ、ひとりは自炊で。
でもそれは家庭(的)生活ではないですよね?ただ人が同じ建物の中にいるだけです。シェアハウスよりも所属感のない生活です。
かと言って、個人的にはみんなで仲良く家族ごっこをしろとも思いません。結局は赤の他人ですから。

でも、わかりやすく「テーラーメイドの支援」を掲げる職員によって、上記のようなバラバラな環境が促進されていきます。
この支援、長い目で見ると嬉しいのはその職員だけです。
子どもも最初はストレスがないと思いますが、結局色々な困りごとを改善していくことがありません。他人との交渉や折衝のタイミングを「テーラーメイド」職員によって摘み取られてしまうからです。

以前にこんな職員がいました。脚色はしています。
「子どもがトマトが嫌いなんだから、食べさせるのは虐待。子どもに寄り添った支援ならトマトは献立から外すほうがいい」と。この職員にとっては「テーラーメイド」にこだわるんですね。子どもの意見だからです。
運営指針には偏食について、適切に対応すると書いてあります。食べさせろとも食べさせるなとも書いてありません。
でもこの職員にとっては、子どもが嫌と言った=食べさせないになっているわけです。
広い目で見れば、他の子がトマトを食べる権利はどこに行ったのか、この子がトマトを克服する機会を奪ってはいないか、栄養素について話す機会を逃していないか、本人が生来的にもつ過敏さの影響はどうか、この子がトマトにまつわるトラウマ  的なエピソードはないかなど、いろいろな視点で考える必要があります。

問題の整理をすると…

問題点を整理すると、テーラメイドは理想とする支援の形だと思います。
しかし現場レベルでは「テーラーメイド」が横行しており、それによって現場が混乱することがあります。
そして、被害を被るのは当事者の子どもや新任職員です。

「テーラーメイド」の課題

「テーラーメイド」の課題は、何より「子どもの声」を隠れ蓑して自分の意見や言葉がないことです。人と人の中では、相容れない場面がでてくるのが普通です。そこで、各々の考えを主張したり妥協したりして二人もしくはチームの意見をきめていくことがコミュニケーションだと思います。
けれど、「テーラー職員」はそのやりとりを無視して結果にたどり着きます。そしてそのプロセスを周りに説明する言葉を持ちえません。
常に「子どもが言っていたから」だからです。

目指すべくテーラメイド

子育てには少なからず大人の「こうなっていってほしい」「こんな大人になってほしい」という願いがあります。今の子どもの声を聞きながら、その思いを子どもに伝えながら、子どもがどうしていきたいかを一緒に考えるのが、テーラーメイドな支援だと思っています。

長い間、集団養護で管理的な支援を重視してきた施設にとっては、統一的な支援に重きを置く「それが施設のルール」職員と今回の「テーラーメイド」職員の空中戦が起きたりしています。これは施設養護の価値観の変遷の中で起こりうるものだろうと思います。
先程書いたように、主張して妥協しながらチームの意見を作れればいいなぁと思うこの頃です。

今日はこのあたりで終わりにしたいと思います。
書きながら、コロナ対応で余裕がなくなっている文章だなと気づきました。まぁ今ホテル療養してるくらいですからね…
また木曜日に更新できれば。


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