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#39 溝口健二 武蔵野夫人 を観た


VOLOJZA(ボロジャザ)という名前でラップをしたり、ビートを作ったり、アートワークをやったり、映像やったりしています。諸々メモがわりにかいてこうとおもいます


溝口健二さんの武蔵野夫人という映画を観た。

原作は野火の大岡昇平さんでこれがとてもよかった。

ところで最近、面白いものというものに警戒していて、話題作とかそういうものにちょっと斜に構えている。

というのも、計算されつくされた面白さみたいなものに面白いのだけど、どこか自分もたかが人間の一人として抗えずドバドバ、ドーパミンを垂流して思考の方向性などを無意識のうちにコントロールされてしまうのではないか?みたいなのがあって(勘ぐりすぎ)。

面白さになれ親しみすぎて、面白いことと真実を混同してしまってるのではないか?みたいな事もよく思ったり。

例えばこんなかっこいい音楽を作っているのだからとか、こんな素晴らしい映画を作っているだから、またはとても詳しいのだからきっと言っている事は正しいのだろう。または正しいと信じたい。
だが現実は、どんな人でも間違っている事はあるし、面白くするという事はどう切り取るか?ということなので、切り取られた現実ゆえのかっこいい音楽や面白い映画と同時に不都合でつまらない現実がフォーカスされいないだけで実は存在しているという事を意識せねばみたいな事をよく思う。

悪いやつにもいいとこはあるし、いいやつにもわるいとこはあるし、いいやつが悪いやつになることもあるし悪いやつがいいやつになることもあるしそれが固定せず複雑に絡み合いながら存在するのが現実で、全てはそうだし、そうとは限らないのだ。

ただ感動がその前提を吹き飛ばしてしまうことがあって、それを自分は警戒している…(勘ぐりすぎ)

たとえば物語に暴力はつきものだが、現実に暴力を振るったら完全にアウトなのに、何故かフィクションではしょっちゅう誰かが誰かを殴っている笑。そしてそれでなにかが解決する事になっている。現実で誰かが誰かを殴ったら解決どころかものすごくややこしくなるのに…。

書いているうちに思い出したがダークナイトライジングでアメリカの排他的水域の外に核爆弾捨てて、なんだか解決したみたいなのとかめちゃくちゃ納得してないしデカ主語使っちゃうとアメリカ人の本音見えたわーみたいに思っちゃったりもする。

話はそれたが 武蔵野夫人だ。

戦中、戦後の西東京、今の武蔵小金井や国分寺あたりが舞台で、

自分は西東京のそこらのエリアの雰囲気が大好きで、なんていうかジブリの映画の中の世界っぽくて。品もあるけど素朴で自然もまだ多いのが良い。
調布とかも好き。実際となりのトトロの舞台でもあるのか?ジブリパークもいいが普通に西東京が自分にとってはジブリシティーっといった感じだ。

そんなこともあってタイトルに惹かれて観ることにした。古い映画をあまり観てないので観ようというのもあった。

戦後まもない武蔵野を舞台に中流階級の没落を描いたこの作品、賛否両論あるみたいだけど自分は凄い好きだった。溝口健二さんの作品は他だと滝の白糸しかみてないんだけどそれも凄い好きで他のも観てみようと思った。

愛こそが力という問いにたいして道徳こそが力と返す主人公、そしてその道徳の上に何かがあると思うのよと続ける主人公。


そしてそれは悲劇?に終わり、高度成長期の日本に入っていくのであった…。

戦前の価値観と戦後の価値観に翻弄されていくところなどとても面白いし、やはり戦争という物が大きなアイデンティティになっているものは凄く貴重と感じた。敗戦濃厚の時期の配給で青酸カリが配られるのも強烈だ。

読んでいただきありがとうございました。



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