「歌うと歌詞が画家の名前に聴こえるエランダールという曲」についての解説
はじめに
この記事は「エランダール」という2014年3月に公開した楽曲が、2022年末にYoutubeのshortsでバズったため、歌詞に隠されたギミックについて解説をするという記事です。
Youtubeのshortsでバズった動画
歌詞のギミックに関する自由な解釈
歌詞のギミックについてはそれぞれ聴いた人が自由に解釈していただければ良いと思っていたのですが、聴く人が増えると様々な意見が集まるようで「これ無理があるだろ」みたいなコメントが散見されたのでこの記事を書いています。
もともと2014年の公開当時からこのギミックについては公表していましたが、このような形で深く説明をしたことはありませんでした。
というより深く説明するほど気にも掛けて貰えていなかったというのが実際のところです。
あとは以前から知ってくださっていた方や、今回のshorts動画をきっかけに菩化鳥のことを好きになってくれた方々が、なんとなく否定的なコメントを目にした場合に、「なんかモヤッとするなあ」と感じてしまう方もいるのではないかと思い、この件に関しての持論をここに記しておこうと思いました。
この記事を見られようが見られまいが、可能な限りコメントを返していきたいと考えている自分としては、否定的なコメントに対してもその時の気分で気楽に適当に返答できるという自己防衛的なものも含まれています。
このギミックに関しては「伝わる人にだけ伝われば良い」ですし「自由な表現を楽しんで」いただければという感じです。
エランダールの歌詞とギミック
エランダールの歌詞が画家の名前に聴こえるという部分を以下に抜粋しました。
歌詞原文を見ると、え?どういう意味?という具合の内容になっており、幸い多くの方にご好評いただけましたが、歌詞の意味の強引さに苛立っている方もちらほらと見受けられました。
歌詞原文
”合法もお強請り月(Moon)
汲み入る安否
下層者がある荼毘に引致
粘土(Clay)を掘るのはある”
ひらがな表記
ごうほうもおねだりむーん
くみいるあんぴかそうしゃがあるだびにいんち
くれいをほるのはある
登場する画家
ゴッホ モネ ダリ ムンク
ミロ ピカソ シャガール ダ・ヴィンチ
クレー ウォーホル ルノワール
発声の仕方
「ごっほもーねだーりむんくみーらんぴーかそーしゃがーる
だーびにぃんちくれーいうぉーほるーのわあるー」
と、発声するとそれっぽく歌えます。
歌詞に登場する画家の名前は厳密に言うと名前ではない
「歌うと歌詞が画家の名前に聴こえる曲」というタイトルの短いショート動画ですが、これに出てくるどの画家も、ファーストネームではなくファミリーネームを用いており、これは日本では苗字にあたります。
そのため厳密に言うとそもそも名前ではありません。
ダ・ヴィンチに至ってはヴィンチという村の出身という意味にあたり、名前どころか苗字ですらないので、ここに対してのご指摘が最も多かったかもしれません。
これに関しては、日本でレオナルド・ダ・ヴィンチのことを、「レオナルド」と呼ぶ人がどれほどいるのかは未知ですが、現代においてはレオナルドと言われて真っ先に思い浮かぶのはディカプリオの人の方が多いのではないのかとも思います。
一般的に日本で浸透しつつ画家と認識できるワードで構成した歌詞が、今回のエランダールの言葉遊びに繋がったということで、大目に見てくださいという気持ちも少しあります。
参考(フルネーム省略)
Vincent Willem van Gogh(フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホ)
Claude Monet(クロード・モネ)
Salvador Dali(サルバドール・ダリ)
Edvard Munch(エドヴァルド・ムンク)
Joan Miro(ジョアン・ミロ)
Pablo Picasso(パブロ・ピカソ)
Marc Chagall(マルク・シャガール)
Leonardo da Vinci(レオナルド・ダ・ヴィンチ)
Paul Klee(パウル・クレー)
Andy Warhol(アンディ・ウォーホル)
Pierre-Auguste Renoir (ピエール=オーギュスト・ルノワール)
歌詞の文法に無理がある
見出しの通り画家が浮かびあがってくるこのパートの文法は、前だろうが後ろだろうがひっくり返ったとて、どう転んでも無理がありそれは自分自身も理解しています。
まず前提としてエランダールの歌詞の中に登場するキャラクターはそれぞれ魔法をかけられて過去の記憶を思い出すことのできない、Ra(ラー/太陽)、&romeda(アンドロメダ)、Luna(ルナ/月)の三名です。
画家に聴こえるパートの大枠の解釈は何かを思い出したくても思い出せないアンドロメダが見ている悪い夢の中を表現しているものになります。
そこの歌詞だけあえて「" "」ダブルクォーテーションで括った理由も、現実の部分と夢の部分の区別をつけるためにそれとなくつけたものです。
当時絵本の物語のような形式で歌詞そのものの解釈を綴ったことがありますが、それが以下の文章。
”どんな手を使ってでも月に会いたい気持ち
そんなことをしたらあぶないと心配する声
罪を犯せばただでは済まず命はないらしい
だから今僕は誰かのお墓をほっている”
夢の中の出来事は辻褄が合わないことばかりなので、その世界を表現するのであれば、何を言いたいのかさっぱり理解できない文章のほうがそれはそれで成立している。という思考です。
言葉一つ一つに意味を持たせて無理に解釈するとすれば以下のような感じに。
「合法もお強請り 月(moon)汲み入る安否」
正攻法(合法)では成し得ない目的(もといた世界の月に会うという目的)がありつつ、奇襲(非合法)をかけて強引に目的を成し遂げることを考えるも、やはり真っ向から歎願(合法)する純粋なアンドロメダの成功と無事を祈る月
「下層者がある荼毘に引致」
絶対的な権力のもとに盾突き反逆者の烙印をおされた下層の者は強制的に土に葬られるという世界
「粘土(clay)を掘るのはある」
数多の反逆者達が粘土質の土を自分で掘り、自分の墓穴を作るためのスコップが反逆者の数だけ用意されている
※粘土質の土壌改良には腐葉土などを混ぜると柔らかい土になるそうです。
「スコップ持って自分を埋葬する嫌なひと時を過ごした」
ここで夢から覚めたアンドロメダの「スコップ持って自分を埋葬する嫌なひと時を過ごした」という回想に繋がります。
だとしても無理がある
ここまでが歌詞のギミックの説明になりますが、ただの空想世界の物語だとしても、それに対する「無理矢理!」のような声はなくならないと思いますし、解説も後付けだと言われればそれまでで、実際に自分でも日本語としては無理があるなと思いながら作ったものです。
なぜなら画家の名前先行で言葉を強引に紡いでこじつけたもので、そこにまともな意味をつけること自体に無理があるのは当然のことだからです。
※だとしても、それなりに曲の世界観に繋がるような言葉の羅列になるように、アナグラムとはまた違いますがそれに近い感覚で画家の選出と並び替え等を繰り返して構成した歌詞です。
そのため「無理がある!」のような歌詞に対する否定的なコメントがつけられたとしても、それは至極真っ当な意見で「そうだよな」と思っています。
また、先の説明の通り辻褄の合わない夢の中を表現しているため、無理があること自体が正解ということで成立していると考えています。
ですがそのコメントにいちいち説明するわけにもいきませんし、「ぼくもそう思います」と返答するのも奇妙な話で、返された人や閲覧した人を混乱させてしまいます。
場合によっては煽っているように捉えられてしまう可能性もあるため、見ましたのハートだけつけてスルーをする形になると思います。
無理でも無理じゃなくても正直どちらでも良い
結論としては、無理でも無理じゃなくてもどちらでも良いと考えています。
ただただその表現を楽しんでください。
と、言うのも言葉や文法の正誤に関して、何が正しくて何が誤っているのかというのは、現代の使用されている言葉のルールに従い、各々が照らし合わせてその判断を下しているに過ぎないと思うからです。
掘り下げると言葉の起源まで遡ることになってしまいますが、言葉を使うのは人、言葉を認識するのも人、そして言葉を作ってきたのが人で、日々新しい言葉は生まれ続けています。
なので文法上は無理がある言葉だとしても、その言葉の表や裏に意味が宿されて言霊となり、その言葉がどんな形であれ、好きだとか嫌いだとか人の心を動かしたとすれば、無理矢理だろうがなんだろうが、それは何かが伝わったことに変わりはないですし、菩化鳥に言わせれば菩化鳥が独自の解釈で作った支離滅裂な言の葉が刺さってしまっただけのことなのです。
まだ上手く喋れない子供が伝えようとする喃語やつたない言葉、外国の方が喋る片言な日本語もそれと同じで、受け取る側の心の持ちようで、その言葉の意味は伝わる場合もあれば伝わらない場合もあります。
言葉が存在する限り、言葉のコミュニケーションに終わりはありません。
自由な解釈で自由に表現して、それぞれが生きる自分の世界を楽しめれば言葉のルールなんてのは二の次でいいんじゃないかなと思います。
おわりに
言葉はナマモノで常に変化し続け、語れる時期の限られた魔物のような不思議なものです。
兎にも角にもなるほどなと、これも一つの考え方として菩化鳥のこれまでとこれからを、あまり深く考えずにその瞬間瞬間を楽しんで貰えたらこれ幸いと。
では、ひとまずこれにて。
菩化鳥
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