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(朗読音源付き) 言葉以外の何かで…

※上記の音源は、普段お世話になっているめちゃくちゃ声の良い先輩にお願いして、この文章を朗読してもらったものです。「Listen in browser」のボタンを押してもらい、声と同じペースで文章をスクロールしていくと、黙読の時と全く違う言葉が広がっていく印象を得られると思います。先輩の良い声をお楽しみください!

 いままで読んできた数ある物語において、最後に私の中に沈み込んでくるのは「言葉ではない何か」に人は生の美しさを見いだすというイメージだった。それは、恋愛であったり、信仰であったり、献身であったり、様々だが、結局最後は「言葉ではない」ということがファクターとなっていた。

 井上敏樹の『海の底のピアノ』の主人公、和憲が自分のピアノに捧げた自らの人生のすべてを一時間で出し尽くす演奏をする描写では、背筋の筋肉がこわばるほど見入ってしまった。

 石田スイ原作の『東京喰種』で主人公の金木が喰種になる直接的原因を与えた神代利世を金木が脳内で喰らうシーンを見ている間、思わず我を忘れていた。

 新海誠の『言の葉の庭』で、ヒロインである雪乃先生が、いろいろな事情があり流すことができなかった涙を最後に流すことができた場面には、声優の演技の良さもありつつ、暖かいけれど切なさを伴った不思議な気持ちにモヤモヤさせられた。

 谷崎潤一郎の『春琴抄』での、佐助が自らの目に針を入れる場面の強烈さ。押井守の『パトレイバー2』における、物語の最初から最後まで飛び続ける「Ultima Ratio(ラテン語で「最後の手段」)」の文字が印字された飛行船が、物語の最後のカットで不気味に飛んでいる姿。

 中上健次の『千年の愉楽』での主人公である中本の一統たちが死へと吸い込まれるかのように陥っていく残酷で運命的な作品展開……幾らでも、例を出すことができると思う。

私はどのような物語を読んだとしても、そこに言語外の何かを見いだしたいと願うことを求めた。自分が味わったことの無い感覚、知らなかった感情を、擬似的に体感することが物語を読む一番の動機であったとすら言うことができるだろう。

 つまり、私の中で本当に大きな存在として残る小説も、漫画も、アニメも、言葉をともない、最後は言葉の外側に大きな何かを見いだすものとして同等の価値を持っていた。

 物語を読むということは、還元すれば自分の知らない言葉を求める行為であると言える。読者にとって、未知であり未開の領域を半強制的に開拓させること。それが、物語を私たちが読みたいと願ってしまう理由であるのではないだろうか。

 「知らぬが仏」ということわざがあるように、世の中には、知らない方が幸せになれる知識や事実が存在しているのだろう。前述した「言語外の何か」というのが私にとってはまさにそれであった。

 恋愛、死、恐怖、運命、自然。こういった言語の外側に存在する大きな「何か」。そこに該当する言葉を求めようとするのは理に反しているのではないか、と警告を与えようとする私がいる。その一方で、そうした言語外にある不可思議な現象や感情、そうしたものを言語化したいという欲望が、私の中にはどうしようもないほど確かに存在している。

 私は言葉を使うのが達者ではないと自己分析している人間だ。だが、それと同時に、どうしようもない自意識が肥大した自らの現状をどうにか変えたいと願い、ジャンルも内容も決めないで物語や評論を読みあさってきた。

 作家の川上未映子がインタビューで「私は物語を書き始める前に必ず敗北している」といったことを述べていた。おこがましいかもしれないが、この気持ちが私にはよく分かる様な気がしている。

 なにかものを書こうとする人々は、必敗が確定した行為をしようとする人々である。知らない方が幸せになれる「言語外の大きな何か」を知ってしまい、それを言葉にしたいという隠しきれない欲望を形にしてきた先人達。私はそんな彼らの作った物語をいつまでも読みたいと考える。そして、いつか自分もその場所に行ければ良いなと妄想している。

 知りたい、分かりたい、言語化したい……終わりの見えない欲望。それと付き合いながら、言葉や概念を学びつつ、そういった欲望の外側に存在する「大きな何か」に指先でも良いから触れることができようになることが私の現状の夢である。

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