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母とピアノと乙女の祈り

7月末、父が介護老人保健施設に入所して、自由な時間ができたこともあって、このところ、毎日、ピアノを弾いている。
まずは、母が好きだった乙女の祈りを弾いてから、その日の気分で、クラシックから、最新のJーPOPまで、拙いながらも楽譜本を見ながら、最低小一時間は弾いている。

母は、本当に「乙女の祈り」が好きだった。
私がピアノを弾こうとすると、「乙女の祈りを弾いて」とリクエストしてきて、弾き終わると「もう一回」と、繰り返しリクエストしてくれた。

母が生まれ育った昭和初期の時代は、一般的には楽器らしいものはおろか、ラジオもない家庭が多かったと聞く。
15日に終戦の日を終えたばかりだが、いわゆる玉音放送を聞くのに、近所でラジオのある家に集まり、みんなで聞いたという話をよく聞いた。

母の家は、比較的恵まれた家に部類する方だったらしいが、ラジオはなかったという。代わりに蓄音機があった。祖父が、当時モダンなものが好きだったようで、蓄音機の他に、カメラ、八ミリカメラを持っていて、家族の日常をよくカメラに収めていたという。

小学校の何年生かのとき、担任の先生が、学校のオルガン、ピアノに強い関心を示した母に、そんなに好きならと、オルガンを教えてくれたという話をしてくれたことがあった。さらに自慢げに、音楽の時間はいつも、独唱させられたとも話していた。

そんな母の遺伝子を、たぶん受け継いだのだろう。
私も小さい頃から音楽が、特に歌を歌うことが好きだった。
今でも不思議なのだが、歌うことについて初めて意識したのは確か3歳になる前だった。どんなシチュエーションだたかは憶えていないが、歌うって簡単だなと思った記憶がある。なぜ、そんなことを思ったのかはわからない。ただ、そう思ったことだけを、今も強烈に憶えている。

そういうわけで、四六時中、所構わず歌っている子どもだった。童謡から流行歌、父が歌っていたメーデーの歌まで覚えて大声で歌い、母に「もうちょっと小さな声で歌いなさい」と注意されたこともしばしばだった。
毎日、欠かさず歌わないと気持ちが悪く、熱を出したり、お腹を壊したりして学校を休んだときも、具合が悪いのにもかかわらず、どうしても歌わないでいられなかった。ただ、歌っているところを、母に見つかると叱られるので、布団を被り、音が外に漏れないよう、小さな声で歌っていた。本当に歌うことが好きだった。

我が家には、私が物心つく頃すでに、足踏み式のオルガンがあった。
足踏み式のオルガンといっても、今の若いひとには、どんなものか、たぶん想像がつかないだろう。ピアノのペダルの位置とほぼ同じ中央に、四角い穴が空いていて、そこから二つの板が下に向かって斜めに据えられていた。内部を見たことはないので、よくはわからないのだが、そのペダルを踏むことで空気が送られ音を奏でられるようになっていたのではないだろうか。

そのオルガンで、母はよく「乙女の祈り」や「エリーゼのために」を弾いていた。母も子供の頃に、音楽を専門に勉強したいと思っていたという話を聞いたことがあるが、その夢も、戦争によって打ち砕かれてしまった。

やがて戦争が終わり、代用教員から正式に小学校の教員になったことで、音楽の時間にオルガンを弾いたり、歌を教えたりしていたのは、母にとっては小さな喜びだったかもしれない。そんな母が、念願かなって自分のオルガンを買ったときは、さぞ嬉しかっただろう。そして、そのオルガンがあったからこそ、私も小学校一年生のとき、ヤマハの音楽教室に通うことができたのだ。今、私がピアノを弾いていられるのは、最初のきっかけを含め、すべてはこの足踏みオルガンから始まっていたのだ。

本当は2年通うところを、進度が早く1年で修了したとき、両親は引き続きピアノを習わせるか相談したそうだが、足が悪くペダルを踏むのが難しいだろうと判断。
小さかった私は、そんな話になっていたとは知らず、オルガンが弾けるだけで満足だった。
そして数年後、電気オルガンを買ってもらった記憶がある。
確かその頃、母は親戚の電気店でオルガンを教えてくれないかと頼まれ、講師をしていた。音楽の学校を出たわけでもなければ、音楽専科の教員免許を持っていたわけでもないが、きっと教え方が上手かったのだろう。実の娘には厳しかったが…

そこから記憶は途切れている。気づくとオルガンは我が家からなくなっていた。
たぶん、父の転勤で何度か引っ越すうちに、処分したのだろう。その頃、私は音楽への思いを強く抱きながらも、社中に所属し、書道の道へと進んでいた。

再び鍵盤を触ったのは、父が定年退職した年、母が、ずっと欲しかったと言って買った、アップライトピアノだった。
オルガンを手放してから十数年という年月が経っていた。
母は弾けたとしても、私は十数年も前に1年習っただけ。そんな程度でピアノが弾けるのか、と、父は宝の持ち腐れになることを心配していたようだった。
が、手が鍵盤を覚えていた。目が楽譜の読み方を覚えていた。

教育テレビ(今のEテレ)で、やっていたピアノを一から教える番組の楽譜本を買い、視聴しながら、少しずつレパートリーを増やしていった。
同時に、昔からずっと練習していた「乙女の祈り」も再開。
一番に練習したような気がする。
そのおかげで、弾けるようになった。

なのに、2001年東京に移り住むことが決まった段階で、ピアノを手放すことにしたのだった。
一戸建ての家から、狭いマンション暮らしでは、ピアノを置く余裕などない。母のお気に入りだった、クローゼットセットも手放した。レコードプレイヤー付きのコンポ+ LPレコード数十枚などなど、容赦無く手放して、ようやく引っ越すことができた。

それからまた20年近く経った2年前、突然、またピアノが弾きたくなった私は、家にあったはずの携帯のピアノを押し入れの奥から探し出し、弾き始めた。
自分でも不思議だったが、初見で楽譜が読めたのには驚いた。きっと読めないだろうな、バイエルから始めないと行けないだろうなと思っていた。
なのになぜ?空白期間の長さを思うと、今、ピアノを弾けるのは、やはりあのとき、一年間とはいえ、音楽教室でオルガンを習い、しっかり楽譜の読み方を習ったおかげだと思う。

毎日、毎日携帯ピアノに向かう姿を見て、そんなに好きならと、母が電子ピアノを買ってくれた。
実際に弾いてみると、携帯ピアノはそれなりの音は出るが、鍵盤の数が少ない。楽譜によっては、出せない音がある。それを見かねた母が、私のために買ってくれたのだ。せっかく弾くなら、ちゃんと音が出るピアノで弾きなさいと…

「エリーゼのために」、服部克久さんの「ル・ローヌ」、リチャード・クレイダーマンの「渚のアデリーヌ」、「愛しのクリスティーヌ」、他に「追憶」、「すべてをあなたに」etc…
一度は手放した楽譜本を、サイトで見つけ出し、何冊も買った。手に馴染んだ音が欲しかった、音で弾きたかった。
気づけば、20年以上も前の楽譜本ばかり。

練習していても、母は、やっぱり「乙女の祈り」が一番のお気に入りだった。
上達するほどに、リクエストの回数も多くなった。
たまに、感情が入り込む時があると、音が違って聴こえてきたと、感想を言ってくれたりもした。

今は、もうそれも聞けないんだなと思うと、自然に涙が溢れた。
でも、母を見送って、数日後、ふと、そうだ母に聴かせよう、きっと聴いてくれている、届いているとの思いが湧き、それからは毎日弾いている。
もちろん、「乙女の祈り」は欠かさない。時間がある時は、最後に。
時間がない時は、真っ先に。
母が生前、大好きだった「乙女の祈り」は、私と母をつなぐ曲になった。
今日も、弾いている。








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