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ら抜きの殺意

言葉は変わるもの、それをテーマにした舞台を観たのは、ずいぶん前のこと。
数日前、ある文章を読んでいたら、突然、れる、られるという言葉がふっと湧いて、それに釣られるように思い出したのが「らぬきの殺意」

演劇よりも映画が好きだった母と、映画よりも演劇が好きな私。
いつも母に付き合わされて映画を観に行ったのに、私に付き合ってくれたのは数えるほどだった。

札幌にいたときから、ときどき芝居やミュージカルがくると観に行っていた。
森繁久彌さんの屋根の上のヴァイオリン弾きや、上海バンスキングは二度観たし、一時期、演劇観賞会に入会していたこともあった。
凝り出したのは劇団四季が、キャッツのロングランを終えた後、仮設の劇場を設て、オペラ座の怪人、美女と野獣、ユタと不思議な仲間たちなど、次々とミュージカルを上演したのがきっかけだった。

そんな私にとって、東京は、いつでも好きな作品や観たい作品が観られる魅力的な街だった。わざわざ札幌から飛行機で観にきたこともあった。
東京に移り住んでからは、ストレートプレイをが好きだったこともあり、いろんな劇場に足を運んだ。まだ来て間もなくて、地理に不慣れ、しかも方向音痴にも関わらず、観たい一心で出かけたことを思い出す。
好きすぎて、チケット代も嵩んで、あるとき母から「いい加減にしなさい」と言われたのをきっかけに、好きな演劇と、書くことが好きを融合させられないかと、三年ほど戯曲講座を受講したこともあった。
結局、才能がなくて挫折したが…

らぬきの殺意は、母と一緒に観た数少ない作品のひとつだ。
永井愛さんが書かれた戯曲で、ら抜き言葉をテーマにしたもので、今は、らぬき言葉に対して、あまり問題視されなくなった気がするが、上演された頃は、ちょっとした問題提起の舞台と、新聞などにも取り上げられたりした。

舞台は、健康食品・器具を扱う会社の事務所兼倉庫で、ら抜き言葉を平気で使う若い社員と、ら抜き言葉が我慢ならない中年のアルバイトの男性が、激しくぶつかり合うという内容で、殺意さえ湧くほど言葉にこだわる、こだわることに拒否反応を示す二人のせめぎ合いは、ある種の滑稽さを映し出し、笑いが漏れる作品に仕上がっていた。

観た当時は、言葉に対しての問題提起をしている作品であり、私自身、どちらかといえば、言葉使いにこだわりを持っている方なので、ら抜き言葉に対しても、あまり好ましくはないと、中年男性に近い感覚を持っていた。
言葉使いに無頓着な若者というのは、ありがちなステレオタイプの人物に見えなくはないが、考えてみれば、今も新しい言葉を生み出すのは、10代から20代にかけての若者で、それにいつも眉を顰めるのは、やっぱり中年以降の人たちという構図が出来上がっている。それを思えば、この作品で描かれた若者は、ステレオタイプでもなんでもない、時代を象徴する存在なのかもしれない。

言葉は移ろう、時代を映す鏡だ。
ら抜き言葉がどんなに不快でも、それが市民権を得れば、当たり前に使われる言葉に変わる。
例えば、今は当たり前に使われている、新しいという言葉もむかしむかしは、あたらしという言い方だった。

ら抜き言葉のようなニュアンスでは、全然と全くもそう。
本来、全然は、否定的な意味合いとして使われていたが、今は全然いいなど、肯定的な意味で使われるようになっている。そのせいか、あまり全く(まったく)という言い方をしている人を、あまり見かけなくなった。

また、一時期私も使っていた「〜じゃないですか」という表現。
ある時、この言い方は、相手に対して失礼かもしれないと気づき(あなたは当然知っていますよねというのが、前提にある)使うことをやめたが、今も、結構、使っている人がいる。
時々、知らない、知らねいよそんなことと反撃されている人を見かける…
市民権を得た、というところまではいかないが、ある程度、生活に馴染んだ言い回しと言えるかもしれない。

そして、ら抜き言葉もいつの間にか生活に馴染み、溶け込んでしまったように感じる。
言葉のニュアンスやアクセント、言い回しに、人よりちょっと気にする傾向にある私自身、最近はあまり気にしなくなった。
まったく気にならないか、違和感がないかと言えば嘘になるけれど、そもそも言葉は移ろうもの、変化していくもので、手垢がついた古びたものを、それが正しい、正統なものと主張することの方が、一般的な日常生活の範囲においては意味のないことように感じ始めている。

今、もし、ら抜きの殺意を観たとしたら、どんな感想を持つだろう。
やっぱり、あの頃と同じように感じるかもしれない。
あるいは、時代を描いた作品としてではなく、今を生きる者としての視点で観たとしたら…逆に違和感を覚えるかもしれない。

言葉は変わる。
今も刻々と新語が生まれては消えていく。
時代に合った言葉、そして残った言葉を、日々、私たちは使っている。


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