本当の平等・共生を考える「自己責任論」は社会を否定する

こんにちは。ボイストレーナーの浜渦です。

自己責任論という言葉がもう「使いにくくなるほど」に、自己責任社会が浸透してしまっているように思います。はっきり言って私は自己責任論には反対なのですが、その問題点を今更ながらですが、ボイストレーナーとして、また表現の世界の端っこにいる者として考察してみたいと思います。

「誰かのせい」にするということに変わりはない

「社会のせいにするな」その対義語が「自己責任論」と捉えられているのでしょう。しかし、どちらも「誰かのせい」にしているのには変わりありません。その根底にあるのは、恨みや妬み、復讐の感情、つまりルサンチマンをどこかにぶつけたいという欲求でしょう。

「自分のせいにすることで自分にハッパをかける」というのは、自己抑制と言えば聞こえは良いですが、もはや品位のない詭弁にも聞こえます。実際、世の中を見ると、責任を自分自身に押し付けて、ハッパをかけるどころか、苦しんでいる人の方が大多数でしょうし、実際は、社会のせいにできないので、自分のせいにしてしまっているだけでしょう。

どちらにせよ、ルサンチマンから出るものであって、健全な精神の醸成に寄与するものではないでしょう。

社会には参加したいが責任は負いたくない

社会に参加せずに生きられるような人はまずいないでしょう。そんな仙人のような存在には憧れはしますが。

社会には様々な問題があります。それは間違いなく「社会のせい」にするのとは違い「社会システムの問題」でしょう。

しかし、私のような小さな存在とて、その社会システム作る構成員のひとりです。全ての人がそうです。社会の問題は当然、我々一人一人の問題ですが「そんな面倒なことはごめん」な訳です。社会の責任を追うのはまっぴらなわけです。そうなると、無人島ででも一人で暮らすべきなのでしょうが、それは不可能となると…。

自己責任論は結局「誰かのせい」

結局、一人では生きられないし、責任は負いたくない。しかし、それを社会のせいにしてしまうと、その中に「自分自身」が含まれてしまう。でも「俺は悪くない」責任は負いたくない!

そうなると、あとは個人攻撃しか残っていないわけです。それが「自分以外の個人」に向けているうちは、まあ「いじめのようなもの」で、セイセイもするのでしょうが、自分自身に向いた時に、多くの人は、参ってしまうわけです。

いや、多くの日本人がもう参ってしまっていることでしょう。社会のせいにはできない、自分のせいにもしたくはない、落ちたら自分のせいになる、落ちたやつは自己責任。ど素人考えですが、新自由主義ってこんな風に起こっていくのでしょうか。

とにもかくにも、何が悪いかって、出発点が不健全な精神ってことです。人間の最高の能力である(と私が考える)芸術の精神とは真逆ということです。

個人の能力差を否定しない社会へ

私は、この国がどんなに貧しい国になっても、一人一個人の能力を発揮しあい、助け合える世の中になって欲しいと切にそう思っていますし、それを目指してボイストレーナーを続けています。

個人に能力差はあるのは当然です。人は残念ながら平等には生まれてきません。だから仕方ないのでもなく、勝てば正義でもない。やはり平等は大切なのです。平等の考え方の問題です。

問題は能力差を、弱者叩きや、仮想敵を作って埋めることや、逆に、手を繋いで50m走をやるみたいな、ニセモノの平等で誤魔化すということです。どちらも問題の本質をぼやかしています。本質とは何か?それは個人の能力を否定するところです。

個人の能力を否定すると、有能な人間は、海外へ流出するでしょう。また有能でも出し抜くことを知らない人間は潰されてしまうでしょう。また、無理やり全員が貧しい方に合わせる考えも当然、個人どころか、社会全体を貧しくするでしょう。

「健全」な社会に必要な次の一手

「社会のせいにするのと社会問題の解決は別のこと」だと書きました。

では健全な社会とはなんでしょう。国力が豊かなことでしょうか。経済が豊かのことは素晴らしいことです。しかし、それがだれかの不幸や犠牲の上に成り立つようでは、人間は進化しませんし、同じ過ちを繰り返すでしょう。

私は、ボイストレーナーとして生徒さんの能力を引き出す責任を負っていますが、生徒さんの強みを活かすだけではその人の歌もセリフも本物にはなりません。強い部分も弱い部分も、その全てを生かさねばその人の生きる姿を映し出す、また人の心を震わす芸術にはなり得ないのです。弱い部分に合わせては退化する。強い部分が主張すると、結局自分を殺してしまう。(ボイトレ業界も、流行りとカラオケの点数を追ってしまい上手い人は増えても、逆に没個性の偏差値教育のようなものが蔓延しつつあります。これはまたの機会に)

しかし、どんな生徒さんでも弱いところ、強いところが手を取り合い、生かし合い、弱いところは強いところに負けない努力をし、強いところは弱いところを労ると素晴らしい歌・表現・演技・セリフになるのです。どんな生徒さんでもです。

そこに才能など関係ないのです。

私が社会に求めるのはまさにそれなのです。

個人の能力差を認め合い、弱者は強者を認め、強者は弱者に手を差し伸べる。いや、全部が強いひとなどいないでしょうから、部分部分でそれをやる。それが本当の共生ではないでしょうか。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?