見出し画像

卵子凍結をしてみた話(3)

時はきた。
卵子凍結を未遂に終え、歯ぎしりをしながらリセットのため薬を飲むこと約20日。2回目のチャンスが到来し、私は産婦人科に向かった。

かつて常人より数百倍以上も高かったエストロゲンの数値は1231→10と人並みになっていて、人体の神秘に面食らう。

久々のエコー検査。相変わらず気遣いに欠ける医師ヒデオイタミの手さばきが妙に懐かしい。いつの間にか私たちなりの信頼が築かれていた。
画像を見ると、かつてゾッとするほど膨れていたブラックホールのごとき塊はすっかり小さく、使用後のコンドームみたいな形になっている。
「いい感じだね。卵も左に5つ、右に2つくらい見える」
3日もすればブラックホールは消失する。注射はそれが完全に無くなってからにしよう、とヒデオイタミは言った。注射によりまた膨らんでしまう可能性があるそうだ。

果たして3日後、私はまたもご開帳マシンに乗っていた。
この格好、どこかエヴァンゲリオンのエントリープラグを思わせる。
逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ…。
超音波やりまーす、と気の抜けた掛け声と共に例の調子で器具がIN。
ヒデオイタミは「あっ、いい感じ、いい感じですね~」と突然脱がし上手なカメラマンみたいな事を言う。
こちとら既に下半身むき出し・ヘア解禁状態なので、どうすることもできず「オス!」と返すしかない。

かくしてこの日から、注射10DAYSがスタートした。
皮下注射ゆえ、インフルエンザの予防接種のような、否、それ以上の痛みを感じた。
産婦人科の待ち合いは少子化なんて嘘でしょってほど混み合っていて、やけに視線が突き刺さる。視線の先は私の足元。なるほど7センチのピンヒールを履いている女は産婦人科で浮いてしまう。

外来が休みの日曜祝日は、入院病棟で注射を打った。
指定されたフロアは産科だった。右手には数組の家族が談笑し合うラウンジ、左手にはガラス張りの部屋のなか、透明なケースに赤子が並ぶ。それをパジャマ姿の女性が見つめて微笑んでいる。
フロア中に満ちている柔らかい温かさ、これを幸福というのだろう。
私だけが異質だった。
その日の注射はいつもより痛く感じて、思わず「イテテ」と声に出してしまった。年々堪え性がなくなっていく。別に我慢することなんてないんだけど。
エレベーターに乗り込むと、奥の鏡に写った自分の顔があまりに浮かない表情で驚いた。
きっとあのフロアの人たちがあまりにも笑顔だったから、私の陰鬱さが際立って見えたのだろう。

注射を打ちながら、3日に1回くらい血液検査と診察を行う。
日によって、ヒデオイタミではない医師が診察をすることもあった。
ある日診察室で待っていたのは金髪の女医。体育会系のポジティブテンションが眩しい。
金髪女医はエコー検査の際に「超音波やりまーす」に加えて「よいしょー!」という掛け声と共に器具を挿入した。角度を変える際もよいしょー!である。
やっぱそうよね。異物入れるときは掛け声大事!よいしょーが最適なのかは分からないけど…。
金髪女医の「おー、いっぱい育ってる!」の声に思わずヤッター!と応える。
ご開帳を終えて診察ルームに戻ると、私が腰かけるタイミングで女医は「よいしょー」と呟いた。
気配りだと思っていたのは、ただの口癖だったのかもしれない。

注射を開始して約1週間。
「卵胞液含めてだいたい13mmくらいに育ってます。25個ぐらいかな~。右9、左16」とヒデオイタミは言った。
お腹張ってません? と聞かれるがあまり自覚がない。
「あまり暴れずにいてくださいね」と注意されたが、私を何だと思ってるんだ?

今日からラスト4日間は、注射を2種。飲み薬はストップ。
6日後に採取決行。前日には精密なスケジュールで点鼻を行うらしい。
「排卵直前の卵子が一番いいんですよ。だから時間をちゃんと決めた上でシュシュッと薬入れて、最終仕上げしてベストの状態で採取します」
ブランド野菜でも作るみたいなテクニカルだ。
今日から追加される注射は排卵を阻止するためのもので、腹に打つ。痛くはないが、抜いた直後から虫刺されのような強烈な痛痒さが約30分続いた。

その日の午後、仕事をしながら、下半身(内臓)が妙に軋むのを感じた。お腹が張る=この事?ずっと満腹感が訪れるのかと思っていたが違うようだ。
そして夜、それはちょっとした痛みに変わる。軽い生理痛のような鈍痛。
仰向けで寝ていないとしんどい。お腹が熱をもっている気がする。
ポコポコ泡が弾けるような感覚は、消化によるものなのか、それとも卵子が育っているのか。
採取までまだ6日もあるけど、果たして私の体は持つのだろうか…。


ところで10日間連続で肩に刺す皮下注射ってやつはとにかく激痛なのだが、一度だけ全く痛くない時があった。えっ、もう終わったの!?という感覚。驚いて看護師にそのワケを聞くと、「温めてるんです。薬剤って冷蔵庫のなかに入ってるんで、手でこうやって包んでさすって」とのこと。
腹部の注射もいつもより痒みが少ない。
その日は奇跡のテクニシャンに感動と感謝を伝えて病院をあとにした。


最終診察日は、金髪女医が担当だった。
血液検査の結果、エストロゲン数値2900超。前回やばかったときの倍以上。わたしの戦闘力は2900です…などと突然フリーザ様も降臨。
思わず「うわヤバっ」と声をあげる。
今現在、私の卵巣内には約20mmの卵が20個超存在しており、採取したあとも卵巣が腫れる可能性がでてきた。
「タピオカを抱えてる感じですね」と口にすると、「うーん、タピオカよりは大きいです」と答える金髪女医。
そんな大きな卵を抱えているので、通常ウズラの卵サイズの卵巣は、いまや握りこぶし大になっているらしい。女体の神秘!そら腹も軋む。

それでですね、と金髪女医は口を開いた。
「明日の早朝4時半、ご自身で鼻スプレーと注射をしてもらうんですけど、注射経験あります?」
……注射? おい聞いてねーぞヒデオイタミ。
未経験であることを告げると、注射器の写真が表紙の冊子を渡された。ハウツー動画のリンクも載っている。
「出来そう?」と金髪女医が問う。答えはもう、決まっている。
「…トライしたいです。滅多にない機会なんで」
そう言うと、女医は力強い笑顔で頷いた。


採取前日。寝たり起きたりを繰り返す。下記のスケジュールできっちり起きてミッションをこなさなくてはならない。緊張で眠りが浅い。
 AM4:30…注射、点鼻薬
 AM5:30…点鼻薬
 AM7:30…座薬
そして、ついにその時は来た。

自害スタイルで座ると、「えいっ」と叫んで注射器を腹にぶっ刺す。ひよったせいで針は半分しか刺さっていない。痛みはない。
奥まで刺す指示だったので、ままよと注射器を腹に押しあてると、難なく針は腹に飲み込まれていく。痛みも何も無い。ヴィジュアルと気持ちと体感のズレが不思議だ。てか、いにしえの切腹した人達マジでスゴい。
ポンプをゆっくりと押すとすぐに注入は終わった。えいやーと叫んで針を抜く。完遂した自分に拍手である。

その後も点鼻と座薬のミッションをクリアし、やや遅刻して会社に向かった。
腹の重さと痛みがなかなか強く、普通に歩けない。足を引きずるように、腹を押さえながら歩いた。
体が弱ると比例して心も弱る。
そういえば採卵ってどうすんの?もしかしてタピオカのストローみたいな太い針でぶっ刺される?えーやだ恐い死んじゃう。途端に不安が増す。

夜、ほんの少しだけ出血があった。何ごとかが体に起きている。もしかして排卵が始まったのでは…と、腹に力をいれるのも恐い。
これだけの時間と金と体への負担をかけて、25の卵子を手放したくない。
ここまでの努力を無駄にしたくない。
いずれにしても決戦は明日に迫っていた。

つづく

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?