著名アニメータによる映画「ベイマックス」(2014年)分析
Cartoon Brew に連載されたエド・フックスさんによるオスカー(アカデミー賞)ノミネート作品の分析シリーズ。日本でも大ヒットを記録したディズニーの「ベイマックス」はフックスさんの目にはどのように映ったのでしょうか。ここから学べる演技の重要性は何でしょうか。
(注意点)
1. 翻訳の正確さは原文(下記リンク)を参照してください。
2. 翻訳では日本語バージョンにおけるキャラクターの名称やDVDのタイミングが正確に対応しない場合があります。ご容赦ください。
3. 「演技の分析」という文章の目的上、物語の内容に直接触れる箇所が多々ありますので未見の方は一度映画をご覧になってからご覧いただくことをお勧めします。
映画が売ろうとしているもの
コマーシャルでは製品こそがスターであり、演技はその中心ではありません。個人的には100以上のコマーシャルにおけるカメラに登場して、役者にはコマーシャルのオーディションでどのように成功するかを教えてきました。コマーシャルはSAG-AFTRA(訳注:映画俳優組合)の会員にとって第一の収入源であります。それについての本を書いたこともありますし、コマーシャルを観た時それについて語ることもできます。映画「ベイマックス」はコマーシャルです。
映画が売ろうとしているのは子どもたちのおもちゃとなる新しいアクションフィギュアのラインナップであり、そこにディズニーのブランドを焼き付けようとしています。もちろん、それは間違いではありません。では何故それについて言及したかというと、ドン・ホールとクリス・ウィリアムズの監督した「ベイマックス」を、アカデミー賞の最優秀長編アニメーション候補の一つとして分析する場合に、私はかなり難しい立場に置かれているからです。この映画を美的感覚を持って考察する場合、映画というよりも長編映画の体裁をとったコマーシャルとして機能しており、演技を分析するのはやっかいです。
この映画の演技は、ほとんど科学的な度合いまでその範囲が調節されていると言えます。その中にはいくつか驚くべきものもあります。よく知られているように人間のモラルにまで踏み込んでいるにもかかわらず、(観客が)モラルについて深く考えたくなるようにはしていません。この後、それについても触れますが、まず最初に少しだけ、どうしてこの映画が巨大なコマーシャル、まるでスーパーボウルの合間における広告のようになっていると言えるのか、そしてこの映画はどうして観客が他の長編映画(「千と千尋の神隠し」や「アイアン・ジャイアント」)のように分析することができないのかを説明します。
広告と芸術
全国放送における広告は、商品棚にある製品を消費者に売るためにライフスタイルを宣伝しているのです。テレビの視聴者に対してこのようなメッセージを暗に示しています。「この製品を買うことで、この広告に出てくるような人たちになることができます。幸せで、友好的で、カッコよくて、ロマンティックで、健康的で、豊かであり、お金の心配をする必要はありません。あなたがこの製品を買えば、夕方のニュースに出てくるような醜い出来事に遭遇してトラブルになるようなことはないのです。」私が役者たちにどのようにコマーシャルへの出演を勝ち取ることができるかを教える場合に、まず第一に彼らは自分自身を売るべきであり製品を売るべきではないと教えます。広告会社は製品を売っているのであり、役者たちはそのための道具にすぎません。
芸術は、広告とは反対に、人間の置かれている立場についての考え方やものの見方を伝えるためのものです。私達は物語を語る動物であり、物語からどのように生き残っていくか、その方法を学んでいくのです。ブラッド・バードの「アイアン・ジャイアント」は、「あなたは自分がなりたいと思うものになれる」という考えを伝えているのです。ホーガースは「君は銃になる必要はないんだ」とジャイアントに伝えます。もしも人間が地球上で絶対的な義務を持っているとするならば、それは次の世代への生き残りということになります。もしそれに失敗すれば、恐竜と同じ轍を踏むことになります。芸術が語っているのは、私達の中で思索や意見の交換を促すような、そういった類のことなのです。スーパーボウルにおける様々な広告はこれを妨げ違う方向に向けようとするものです。単純に私達がビールを飲めばハッピーな生活が送れるようになると信じこませようとしているのです。
幸せな人達が何の障害もなく幸せな行為をしている
さて、ベイマックスにおける6分程度のシーケンス(アマゾンのインスタントビデオにおける時間にして54分16秒から1時間0分41秒)を見てみます。主人公である、ワサビ、ゴーゴー、フレッド、ハニーレモン、ヒロ・ハマダ、そして空気によって膨らむ介護ロボットであるベイマックスたちが、最初にスクリーンに現れます。カラフルで超人的なパワーを与えるコスチュームとともに。その数分間の間、スタニスラフスキー・システムにおける目的と行為という観点から見て演技と呼べるものはありません。かわいらしいキャラクターたちが次から次へとスーツを来て登場し、彼らを紹介するためにエネルギッシュなアクションを繰り返し、バックにはファールアウトボーイの歌う「イモータル」が流れている、ただそれだけです。幸せな人達が何の障害もなく幸せな行為をしている様は、演劇的な簡単から見て何の価値もありません。
ヒロの年上の兄であるタダシは、突然にも映画が始まって20分ぐらいで、ビルの爆発に飲み込まれて亡くなってしまいます。重要なことですが、彼が亡くなる時、私達は彼のことを良くは知りません。彼は頭が良くてハンサムであり孤児である弟の面倒を見ているということ以外は。タダシのキャラクターは主にその爆発事故のためと、(少年たちにとって母親の代わりである)キャスおばさん、そしてヒーローの集合体であるキャラクターを紹介するために使われているだけです。
タダシの葬式
タダシが亡くなると、物語は直ちに同族間で哀悼の意を表現するための宗教的儀式へと向かいます。(23分21秒-24分30秒)言葉はなく、わずかながら映画の色彩パレットにはアジア人のフィーリングが入っています。おそらくこれは中国と日本が重要なマーケットになっているからでしょう。ハールマークカードと共鳴して黒いゴルフ用の雨傘が開いて、悲しく比喩的な灰色の雨模様の空が広がっています。23分49秒においては、みんなのシルエットがタダシの墓の周りに集うステレオタイプなお葬式の風景が登場します。そしてキャスのアパートの中に場面は移ります。みんなは行儀よく、場にふさわしい整った喪服を着ています。
注目すべきは、ハニーレモンがワサビの背中に手を当てる24分2秒にあります。あなたはこれを見て何を感じるか、です。そこから伝わるメッセージは、何にせよ人類は大きな一つの家族であり、お互いに支えあうべきだということです。これは共感を呼ぶ効果があり、これを使うことに関してはディズニーのマーケティングチームは一流です。私達は仲間内でハグをしてからいつも通りの生活をこなしたり物を買いに行ったります。もう一度、ここには何の演技もありません。このシーケンスには分析すべきものが見当たらないのです。ここにいる誰ものが、障害を乗り越えながら実現すべき目的を達成しようとしてはいないです。このシーケンスは間奏のようなもので、民族的な儀式においてホールマークのカードで感情を表現しているだけです。
感情とは演技で示すことのできるものではない
映画の中で次に起こるべきは主人公であるヒロに行動を起こさせることです。まず、アクションのない悲しい時間を彼とともに過ごさなければなりません。こういう類の時間帯は、大きな予算をかけてつくられる映画の製作者が罠に陥りやすいところです。そうです、観客はキャラクターの悲しみに共感を得るのですが、彼をいつまでも画面に登場させて時間を割いてしまうと、共感は同情へと変わってしまい、感情はなくなっていくのです。
最高のアニメーション監督であっても、感情だけで物語が成立するという間違った考えを持っている場合があります。私が思うに、これはフランク・トーマスとオーリー・ジョンソンの時代からの持ち越しだと思います。彼らがアニメーション開拓者だった頃、スクリーン上で感情はどれだけパワフルだったかは知っていましたが、彼らは完全に演技がどのような作用をもたらすかを完全に理解していたとはいえないでしょう。事実として、感情は演技にはなりません。演技とは何かを行うことです。演劇や映画の役者は、感情を演技で示すことは「どんな感情が示されているのか観客に直接示そうとしてしまう」という意味で誤りである、と早いうちから教わっています。
感情とは演技で示すことのできるものではないというのが、私がここで言いたいことです。24分30秒において、ヒロ・ハマダは悲しそうに、彼の暗いベッドルームで彷徨っています。このちょっとしたことでも、演技と呼べるまでには長い道のりがあり、実際にはこれは演技とは言えないのです。ムードを表現しているに過ぎません。副監督であるクリス・ウィリアムズとドン・ホールは偶然によってムードを壊します。ヒロは彼のおもちゃのコントローラを彼の裸足の上に落として、ベイマックスは動作を始め空気によって膨らんでいきます。(26分6秒)
空気の抜けるベイマックス
ベイマックスは、演技という観点から見て興味深いキャラクターです。人間のキャラクターと違って、常に目的を持つようにプログラムされているからです。そして個人的な価値感を表現することで、時々感情と思われるような幻想を起こさせるような働きをします。彼は常にアクションを起こしています。ベイマックスは真の意味で賢いキャラクターとして発明されました。非常に多くのことが彼には可能なのです。私達が最初に彼に会った時、彼の目的はあらかじめプログラムされており、ヒロを気分良くすることです。完璧です!彼は彼の目的を遂行しようとし、私達はその場面を仕立てあげることができるのですから。ヒロはこれで物語のずいぶん深いところまで戻ることができました。
注目すべきは、どのようにしてベイマックスが狭いベッドルームの空間を縮こまるようにして、ベッドの後ろから部屋の真ん中まで出てきたかです。重要なのは、彼のしていることは値の調整が必要だということです。彼とヒロが手の触れ合える距離に至る間、観客はベイマックスをヒロの友達として、ほとんど人間と同じようなものだと受け入れることができています。このシーケンスがどのように構成されていてなぜこのように働くのか、感情に訴えるものについてノートを取ることを私は皆さんにお勧めします。もしかしたらあなたのアニメーションに使える日が来るかもしれませんよ。
私が映画の中で個人的に好きなシーケンスの中で、ベイマックはその一部となっています。(36分11秒-38分54秒)彼が電力を失って空気が抜けていく場面において、非常に高度なアニメーションとしての演技を観ることができます。なぜなら彼をまるで酔っ払っているかのように見せるというクリエイティブ上の判断が行われているからです。酔っ払っている演技をするのは役者にとっては楽しいものです。それは酔っ払っている人は一般的に言って、まるで酔っ払っていないかのように振る舞うからです。そのようなシーケンスの場合、飲んだお酒の種類が何であるかにかかわらず、演技の原理は「体をアルコールにまかせてから演技でアルコールをコントロールする」ということになります。
ヒロは、彼が良い友だちであるように、ベイマックスを助けると同時に彼をキャスおばさんの目から隠そうとします。彼の(達成可能な)目的はロボットを充電器に繋ぐことです。彼のその目的を達成するためのアクションは、ベイマックスから空気の抜けた度合いに応じて、刻々と変わっていきます。両方のキャラクターにとって状況は悪くなっていくので、すべては演劇的な意味で正しいのです。すべての種類の「コメディ」は、ある人間にとっての限界の中にある、一つの要素であることを覚えておきましょう。(「ドラマ」とは私達の可能性の中にある一つの要素を指しています。)このシーケンスを見て、私達が酔っているわけではないのに、笑ってしまう理由は、私達が自分たちの人生においてこのように弱ってしまう経験を一度ならずしているからに他なりません。あるいは私達は自分の友達がこのような状況になってしまったら、彼を助ける必要があったのです。クリエイティブチームがこのようなちょっとしたシーケンスを入れたことはそれだけで価値があり、賞賛に値すると思います。
セルフィーに間に合うように
この物語の悪役であるロバート・キャラハンはまるで紙で出来た人形のように薄っぺらいキャラクターであり、社会的犯罪者でありながら私達が共感を覚えるような部分は一つもありません。このような映画では、それでも構わないのです。なぜならこの場合の悪役とは物語を構成するための道具の一つでしかないからです。監督は私達に命について教えるようなことはしません。もしそうしようとすれば、悪役は牧師のように見えてしまうことでしょう。ここでは「悪役を旗のてっぺんまで持ち上げて彼をやっつけよう、そしてみんなでアクション・フィギュアーのおもちゃを買いに行こう」という方針でつくられているのです。
(1時間1分50秒 - 1時間29分0秒)この30分間は、54分16秒におけるアクション・フィギュアーの紹介から始まったコマーシャルの延長上にあります。演劇的な意味でこれは時間の無駄です。なぜならどのような結末になるかは始めから明らかであり、それについては何も疑う余地がありません。つまり、ヒロと他のヒーローたちは彼らの新しいスーパーパワーを用いて、キャラハンの娘であるアビゲイルを救い、動かなくなったベイマックスを助けだします。もちろん、エンディングの「セルフィー」に間に合うようにです。(1時間31分41秒)
この最後の30分間における演技をもう少しだけ議論してみましょう。演劇的に意味のあるものが度々見られながらも、大して感情を呼び起こさないものであるのはなぜでしょうか。ヒーローは達成可能な目的をもっています。すなわちキャラハンをやっつけることです。彼らのすべての目的はそれを遂行するためです。論理的に、彼はキャラハンを前にして困難な状況にあります。でもその困難さはテレビコマーシャルの中に見られるような困難であり、現実の世界のものではないのです。まるで項目にチェックをつけているだけのようなものです。
成功は時としてあなたがどうして成功したかを忘れさせる
こんな実験をしてみてはいかがでしょうか。シーケンス全体を再生してみて、あなたの感情がどのように変化したか黄色いパッドの上に記録していくのです。感情は1点から10点の範囲です。感情が揺さぶられた場合に10点、まったく何も感じなかった場合に1点という具合です。おそらくこんな結果になるでしょう。あなたの感情は得点にして3点ぐらいが続くでしょう。そしてベイマックスがヒロの命(しいては世界全体)を救う場面(1時間26分42秒)で5点に跳ね上がります。
映画は「ベイマックス」は、修士レベルぐらいのマーケティングクラスにおいて、中心となる教材とも言えるのではないでしょうか。大企業がおもちゃを売ってブランドを築きあげるという遂行目的に従ってそれを達成しようとしています。まったく設計された通りに機能しているのです。それは映画のように見えて、実際映画のように感じますが、本当はコマーシャルに他ならないのです。キム・マスターズは彼女の2001年に出版した著作「王国への鍵(訳注:原題「The Keys to the Kingdom」)」の中で、ディズニーの長い期間CEOとして君臨したマイケル・アイズナーの引用を利用しています。彼が従業員に送ったメモにはこう書かれていました。「成功は時としてあなたがどうして成功したかを忘れさせる。私達には芸術をつくる義務はない。私達は何かを語る必要はない。お金を儲けることこそが我々の目的なのだ。」お分かりですね?(翻訳ここまで)
まとめ
以上が翻訳になります。フックスさんの長年の経験から、映画「ベイマックス」の本質を鮮やかにあぶり出す一方で、アニメーターにとって参考となる部分も、もちろん丁寧に解説されています。
※なお、「ヒックとドラゴン2」の分析の翻訳も合わせてお楽しみください。
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