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あばら家の猫男と焼きリンゴ【レシピエッセイ】

『あばら家の猫男』

男は近所の人たちにそう呼ばれていた。


ある日、ずっと空き地だった猫の額ほどの小さな敷地と道の間に、トタン板と鉄網のパッチワークみたいな、塀というにはあまりにお粗末な仕切りが出来た。男の茶色い顔色は、日に焼けなのか、汚れているのか、地黒なのか、その全部だったとしても、そんなのは世間の人間にとって全く重要ではなかった。

どこの誰だか全くわからないその男は、野良猫たちと一緒に仕切りの中の小さな世界で生きていた。毎朝、暗いうちから出かけ、夕方また戻ってくる頃には近所中の猫たちが男を出迎えた。男の歩幅に合わせて足の隙間を擦り抜け、餌をねだって飛び跳ね、足に纏わりつく猫もいた。そんな時、男は茶色い顔を皺だらけにして幸せそうに笑いかけるのだった。

天涯孤独に見える男にも、その昔、家族があった。遠くに住む一人娘がいるものの、音信不通。生活保護を受けながら、廃品回収、日払いの畑仕事、左官工事なんかで得た収入で細々と暮らしている。
 
そんな情報が少しずつ近所で共有されるようになる頃には、パッチワーク仕切りの一部に廃品の扉が付き以前よりもちょっとだけ塀らしくなった。敷地内の家屋らしきものの窓はカラフルなキッチンの透明ガラスタイル。それがまるで、教会のステンドグラスのようで、そのアンバランスさが神聖にすら思えてくる。

男の名はファン。ご近所の植木の手入れや雑用を安く請け負ってくれるらしいという情報が流れてきたのは、それから間もなくしてから。そして、ひょんなことから、猫男がウチにやって来ることになった。当時、私は二人目を妊娠中で、2歳になる長男に手も掛かる頃。家事も仕事もある。庭木の手入れ、芝刈り、ブロック塀の修理だけでもお願いしてみようかということになったのだ。

◇◇

仕事が始まり数日が経った。

猫男は朝9時からの開始予定なのに毎朝15分も前から家の前に座っている。それならば開始を1時間早めようと8時からに変更しても、やっぱり10分前には必ずやって来る。「やる事がないんで」と笑った顔には下の歯が1本なかった。
 
夫が仕事に出る前にその日の仕事の指示を受ける。淡々と仕事をこなし、朝10時きっかりに庭の隅にあるブロックに腰をかけて、持ってきたパンを齧る。プロの手際の良さとは程遠いものだったけれど、とにかく真面目だった。終了時間になると外門ブザーを鳴らし、私が彼の姿を確認するのを待ってから、頭の後ろで大きく手を振って帰っていった。

猫男はよく働いた。歳は私よりも二周りくらいは離れていたと思うが、外見は年齢以上に老けて見えた。私とはほとんど話をすることはなかったけれど、目が合うと、オラ!と言うように少しだけ口角を上げて顎を突き出す。

毎日、決まった時間にやって来て、そこに居てくれるだけで安心した。庭木の殺虫剤散布をしてもらった日には、袋の底に残った殺虫剤を持って帰った。ブロック塀の修理をした日の数日後には、同じブロックが彼の家の塀に登場した。剪定後の薔薇の枝は、彼の小さな家の庭に根を付けた。

相変わらず話こそしないけれど、通院や買い物で家を空ける時には外門の鍵を預けるくらいになった頃だった。彼が風邪を引いて二日間、無断で仕事を休んだことがある。電話はもちろん携帯電話も持っていないので、もしや何か悪い事でも起きたのかと、夫があばら家まで様子を見に行った。

幸い、ただの風邪だったらしく、三日目には姿を現したけれど、まだ生気が無い様子で、夫と相談して完治するまで仕事を休んでもらうことにした。

あの日もちょうど今頃の季節で、オーブンで焼きリンゴを作っていた。芯を抜いてシナモンシュガーを詰め込み、モスカテルという甘口ワインを注ぎ入れる。バターを加えないこの作り方だと飽きずにいくらでも食べられる。

(リンゴの出汁も無駄にしないように、トレーに薄く水を張っておこう。美味しいソースになるように……)

30分もすると、キッチンがリンゴの甘酸っぱい香りに占領される。

「ファンにもあげたようかな。食欲がなくても焼きリンゴなら食べられるだろうし」

喜ぶんじゃないか。自分じゃ作らないだろうから、と夫が言う。器は返してもらえなくてもいいように、使っていない古い小鉢を探し、良く焼けたリンゴを一つ乗せて透明ラップで包んだ。

リンゴから出る湯気でラップが白く曇って小さな蒸気の粒が広がる。指に付いた薄茶色のソースを舐めるとトロリと舌に絡みついて、シナモンの香りが鼻孔から逃げていった。


(美味し……)


いつもの味に安心する。これなら食べてくれるだろう。夫に渡してもらった焼きリンゴを猫男は大事そうに両手で抱えて帰っていった。


ところが翌日、猫男はやっぱり朝8時前にやって来た。いつもならアルミ箔に包んだ小さなパンを持って来るだけなのに、この日は違った。もう片方の手に重そうにスーパーの袋を下げている。「とっても美味しかった。お礼にこれをセニョーラに」と言われて夫が受け取った袋の中には、朝露をまとった沢山の柿と、洗ってビニール袋に入れられた小鉢が入っていた。

ほら、と夫から手渡された両手で持ちきれないくらいの柿たち。艶々とした橙色で深緑の葉がピンと張った柿を手にして、嬉しいはずなのに何故だか複雑な気持ちになった。

少しでも食べてもらえたらという素直な気持ちで焼きリンゴを渡したことに間違いはない。けれど、彼は、本当はどう思ったのだろう。どういう気持ちで私に柿をくれたのだろうと気になってしまったのだ。

体調の良くない昨日の今日で、こんなに沢山の柿を歩いて買いに出かけるのは辛い。何よりも彼はその日暮らしのギリギリの生活をしている。お金がないのだ。直接、農家から買ったとしても、そのお金があれば、自分に必要なものが買えただろう。もし、貰ったというのでも、こんなに沢山、私が貰うわけにはいかない。命を繋ぐ大切な食糧なのだから。そして、もし、私に渡すために朝一番にどこかの畑からこっそり取ってきたとしたら……。

想像ばかりが独り歩きをする。喜んでくれて、お礼をしたいと思ってくれたことは嬉しかった。けれど、ただのお返しだと素直に受け取ることはどうしてもできなかった。何か無理をさせてしまっている気がして仕方がなかったから。



人にはそれぞれ与えられた環境があって、そこに順応しながらそれぞれのルールの中で生きていく。そこに他人が軽い気持ちで踏み込んで良いのだろうか。誰かに手を差し伸べたり、相手を思って何かをする気持ちは、その相手に受け止められてこそ『やさしさ』になる。そうでないなら、ただの『ありがた迷惑』や『お節介』ではないのか。

ご近所同士で庭や畑に実った果実や手作りのケーキなどを交換したりするのは珍しいことではない。お皿が付いていれば、そのお皿に何か載せて返すこともあるし、お皿を空のまま返すこともある。そしてまた、何かの機会にお返しをする。慣れていれば、まあ、そういうものだろうという程度のお付き合いだと思っている。

けれど、そういった人付き合いが苦手な人もいれば、何かの理由でそれが出来ない人もいる。どういう過去があったのかは知らない。けれど、家族と離れて一人で生きることを決めた猫男にとって、それほど親しくもない近所の人間から焼きリンゴをもらったことは、本当の意味で嬉しいことだったのだろうか。


もし、彼が人との接触を避けていたのに、これが引き金になって、また複雑な人間社会で生きる羽目になったら、彼はそれを望むのだろうか。迷惑だと言えず、仕事が無くなっては困るからと思った可能性だってある。かれこれとお節介を焼く前に、まず、彼が選んだ生き方を尊重して寄り添わないといけないのではないか。

何だか、毒リンゴを差し出した魔法使いになってしまったような気持ちでいると、同時にもう一人の自分の声がする。


そんな事はない。誰も一人では生きていけないし、好きで貧しい生活をしているわけではない。辛い苦しみの中で藻掻いている時に「ここにいるよ」と背中を支え、「大丈夫だから」と肯定してくれる気持ちは受け取った人に大きな力を与え、時に奇跡さえも生む。もう一度、人の温かさに触れたいという感情が生まれ、心を開くきっかけになるかもしれない。献身的に彼を支え、出来る限りのことをしてあげるべきだろう。

そうかと思えば天邪鬼が後ろでケタケタと笑い出す。


たかが焼きリンゴ一つじゃないか。大袈裟だ。どうして、そこまで深く考えるんだ。貰ったからお礼をした。それだけのこと。大体、その「してあげる」って、あんたは一体、何様のつもりなんだ?

こうなると、余計に出口が見えなくなってくる。神妙な顔をしている私を夫が不思議そうにのぞき込む。

「どうした?」
「……ん。なんでもない」

結局、その数日後にこっくりと飴色になった柿のジャムをファンに手渡すことはなかった。


◇◇

私はやさしくないのかもしれない。

『やさしさ』は時として薬となり毒となる。本人が求めない他人の『やさしさ』は傷となることがある。中途半端な『やさしさ』は迷惑でしかない。それはもう、『やさしさ』とは呼べない。

あの時、何をすべきだったのか。親しい付き合いもなく、彼の抱える問題について全く事情を知らなかったし、知ろうとも思わなかった。ただ、焼きリンゴを食べて欲しかった。


先々の事なんて考えないで、その一瞬、一瞬を温かな気持ちで支え合えばそれでいいのだろうか。
 

自分が『やさしさ』だと思い込んでいるものは、本当は誰かに「してあげる」自分自身のエゴに過ぎないのではないか。


必要なのは実質的で的確な援助や助言であって、『やさしさ』とは切り離れたものなのだろうか。

考えれば考えるほど頭の中がこんがらがってくる。

偶然、物置小屋で発見した生れたての猫にミルクやってしまったことがある。すると、戻ってきた母親が子猫についた人の匂いを嗅ぎ分け、子猫の子育てを放棄してしまった。子猫は突然、母親を失い、飼い猫の人生を歩むことを強いられてしまった。誰かが母親に代わって育ててくれればそれで良いという単純なものではない。

アフリカ大陸から難民たちが自由を求めて命がけでスペインへ漂着する。到着後、保護され健康診断を受け、一時的に食事と眠る場所が与えられた後、放置させる。自由を求めて自国を捨てた人たちは怒涛に暮れ、見ず知らずの国の路上を生きるために彷徨い歩く。

他人によって軌道に手を加えられた人生が幸せかどうかは本人にしか分からない。実際には、生まれた瞬間から一刻も絶えることなく誰かの影響を受けながら生きている。たった一瞬の小さな『やさしさ』が人生を変えてしまうこともある。けれども、もし、本人が選び取った生き方があるのなら、その生き方を尊重して、寄り添ってあげるのも『やさしさ』なのだと思う。

 
きっと、どちらの『やさしさ』も大切で、どちらも正解。


『やさしさ』の定義を強いて言うのなら、たとえそれが、相手が求めたものではなく、相手を傷つけたり、苦しめたり、もしかしたら自分が悪者になる可能性があったとしても、心から相手を思って寄り添う『強さ』なのかもしれない。


そして私はまだ、やさしい人間にちゃんとなれないでいる。

◇◇



暫くして私は無事に出産し、さらに数年後、猫男は教会が身寄りのない人や生活に苦しむ住民対象に運営する公共養護施設への入居が決まった。希望者が多いので抽選で入居者を決めているのだが、どうやら運よく当たったらしい。

あばら家は空き家になった。いつの間にか誰かに勝手に売買されて別の誰かが住んでいる。主人を失った猫達はまた野良猫となって、何事もなかったように街角に散らばっている。きっと誰もあばら家の猫男の事なんか覚えてはいない。

結局、あれからも、猫男は私たち家族にも必要以上に近づくことはなく、施設に入るまでの間、猫のみを家族として生きた。おそらくそれは、彼なりの私達に対する『やさしさ』だったのだろう。

今日もまた、オーブンからは焼きリンゴの甘い香りが漂っている。ざらりと舌の上を這う甘酸っぱさ。シナモンを多めに効かせバターの香りがしない私好みの味は、誰が食べても美味しいわけではない。『やさしさ』の好みの味が受け取る人によって異なるように。

『あばら家の猫男』


彼に何をすべきだったのか、私には今でもわからない。でも、ただ一つだけ、分かっていることがある。


彼は最期まで焼きリンゴが大好きだった。


公共養護施設で働いていた人が教えてくれた。猫男は一人で亡くなったのだと。

(了)

【バター無し 焼きリンゴの作り方】

<材料>
リンゴ         4個
ブラウンシュガー    大匙4+2
シナモンパウダー    大匙1
甘口ワイン(モスカテル)200ml.
水           200ml.


<作り方>
① オーブンを180度に設定する。

② リンゴの皮を丁寧に洗って、芯をくり貫く。(底の皮を破らないように注意)

③ リンゴをトレーに並べ、穴の中にシナモンシュガー(目安:砂糖大4+シナモン大1)を詰める。

④ 甘口ワインを穴から注ぎ、残りを全体に振り掛ける。

⑤ トレーの底の部分に砂糖を溶いた水(目安:水200ml.+砂糖大2)を敷く。

⑥ オーブン中段に入れて30分で様子を見る。35-45分程度で完成。

<補足>
シナモンシュガーの比率はお好みで。トレーの底の水はトレーの大きさによって異なります。リンゴのコンポートにならないように適量を見つけてください。リンゴの皮の上部が乾いて硬くなりやすいので、適度トレー底の水をかけてください。穴にレーズンなどを詰めても美味しいです。

甘口ワイン(モスカテル)とは、モスカテル・デ・アレハンドリアというスペインの地中海沿岸部で中心に栽培される糖度の高い白ブドウを使ったデザートワインです。

手に入らない場合は、ブランデーやフルーツ系のリキュール(カルバドスやグランマニエなどでもOK)で香りをつけてください。もちろん、水だけでも大丈夫です。

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