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37.5度ネジを緩めた隙間で

「久しぶりじゃない!」
「元気そうでよかった」
「どう?その後の調子は?」


彼らとの間には、そういう挨拶はあまり意味がない。

久しぶりに会っていようが、仕事が大変だろうが、ついさっきまで夫婦喧嘩をしていようが、何があっても全部ひっくるめてお互いの存在が自分の生活の片隅にあるみたいな気の置けない仲間たちが集う。

馴染みの店では到着した順に、好き勝手に飲み物を頼んで全員が揃うのを待つ。お勘定はワリカンになるというのも全員の暗黙の了解のもと、5分ほど先に到着したルイスとカルメンはお洒落にマルティーニなんて飲んでいる。

ルイスが食べ残したピックの先に刺さったオリーブの実をカルメンが文句を言いながらもパクリと食べてしまうのもいつものこと。到着した私達にルイスが、色気なんてこれっぽっちもない不器用なウインクをした。

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そんな見慣れたやり取りを見ながら、私達もいつもの地ビールを頼んだ。琥珀色で香りが高く存在感のあるモルトの味わいがとっても気に入っている。キレのある泡立ちに嫌味のないローストの香ばしさが鼻先に薫るビール。

冷凍庫から取り出したばかりの白く凍ったグラスがビールと一緒に運ばれてきた。手が触れた部分だけが溶けて透明の指の跡を描いている。こういう小さな気遣いもちゃんと美味しさになる。トプトプとビールがグラスに注がれる様子を愛おし気に眺める。

ようやく先着陣4人のグラスが揃い、カチンとそっと打ち付ける。グラス同士が軽く触れるだけの微かな音が、言葉の必要のない「乾杯」を演出するのには十分だ。それぞれが人生の後半戦に差し掛かり、様々な自分の物差しをそっとポケットに入れている。とりあえず「乾杯」なんてもう要らない。

琥珀色の液体が細かい泡を連れて喉元を撫でながら通り過ぎる時、何とも言えない解放感に包まれ、「ふわぁ~」という声が思わず漏れてしまう。

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「一人で飲んでいても美味しくも何ともなくてさ」


私達と一緒に飲むのが一番楽しいと言うルイス。早速、ワインリストをチェックし始める。本当は、カルメンがあまり飲まないので一人でワインを一本飲み干すのが面白くないだけなんだろうだけど。まぁいいか。嬉しそうだし。

値段やワイナリーに拘らず、品種や料理との相性を考えながら決めていく。もちろん、私達が行く店には目が飛び出すような高価なワインは置いていないし、あったとしても選ぶことはあまりない。

時間と料理を楽しく共有するための普段着のワインを自分たちがリストから選んだワインとお店側のお勧めワインの中から選ぶ。


「リベラ・デ・ドゥエロ産のワインで舌触りが滑らかなバランスの良い赤が入ってます。テンプラニージョ種で、小さなワイナリーですが実力派でコストパフォーマンスがいいんです。試飲してみます?」

そう言ってグラスを取りにカウンターの中に消えて行ったウェイターと入れ違いに、約束より30分遅刻してマリとホセが店にやってきた。

和やかなマリとは反対に、ホセが明らかに神妙な、いや、ご立腹の様子。ぶっきらぼうに「オラ」と言い終わるよりも早く、じゃがいもの入った麻袋みたいにドサリと腰を下ろす。その様子を見たマリが呆れた様子で言う。

「機嫌が悪いならどうして来るのよ?私一人でだって来れたのに」
「機嫌が悪いからこそ、こいつらと居たいんじゃないか」


どうやら、腹だけでなく気も立っているようだ。ちょうど戻ってきたウェイターにグラスの追加を頼み、汗が止まらないからと水を頼み、いや、ガス入りがいいと頼み直し、先に私たちが注文した料理を聞いてポテトを追加した後、昼間もポテトだったのを思い出し、キャンセルしようとして嫁に怒られ、やっぱりキャンル取り消しはキャンセルする、というのを2分間でやってしまった。

スペイン人が仕事をしないというのはデタラメで、やれば出来る人種なのだというのがこんな時に分かるというのもスペイン人らしいといえばスペイン人らしい。

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ホセのご立腹の理由は、両親の遺産相続問題で起こった兄弟間での意見の対立が原因らしい。耳まで赤くして熱弁し、ワインが運ばれて来る頃にはかなり落ち着いた様子で深く息を吐いた。


「まあな、そう。うん。そういう事なんだよな」


年齢的にも近い仲間たちなので、同じような悩みを抱えていることも多い。近い将来、いつ自分に降りかかってきても不思議ではない彼の話を誰一人として口を挟むことなく聞き入った。

勝手に話し、勝手に解決しまったように見えなくもないけれど、それは違う。第三者に聞いてもらうだけで自分の心を整理できることがあるというのをみんなが知っている。

勧められた赤ワインは、偶然にも私がよく知っている若手醸造家チームの作るワインで、試飲する間でもなかった。グラスの中に流れ落ちていく深いルビー色のワインがグラスの淵に僅かに紫色の輪を映し出す。ゆっくりと空気を含ませると野苺のような甘い香りが立ち上ってきた。

初めて試飲させてもらった時に、祖父の代から受け継いだ彼らのブドウ畑の脇には野生のタイムやローズマリーがたくさん生えているんだと話していたのをふと思い出した。自然の味を嫌味なく素直に伝え、容易に受け入れさせてくれる味だと思った。

各自グラスを目線のあたりにまで持ち上げる。ホセと昔から仲の良いルイスがゆっくりと自分のグラスをホセのグラスに当てるとコツンという凝縮された小さな音がした。

共感と励ましと男同士の友情を込めた拳同士をぶつけるような、粘着質でしっとりと沁みる温かな音。その音がまさに言葉だった。

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「ところで、ナンドはどうしたんだ?」

そうだ。ナンドの姿がない。

ルイスいわく、今日が彼の誕生日で家族揃って食事会をしているらしい。


「もう終わったんじゃないか。電話してみろよ」


ホセにそう言われてルイスが電話なんてするはずがない。スマホを手に取り、程よく出来上がった全員の写真をいきなりナンドに送り付ける。

そんな写真を見せられたナンドが我慢できるはずがない。即答で「ウチに来い!」とメッセージがあった。ジントニック用のトニックウォーターがないから調達してこいという条件付きで。

しかし、夜の11時に、しかもコンビニなんて存在しないスペインの片田舎でトニックウォーターなんて調達するなんて至難の業。

案の定、村のガソリンスタンドは閉まっていて、ぞろりぞろりとトニックウォーターを探して自販機巡りをすることになった。

普通、そういうことを見越して買ってきてくれと頼むものだろうけど、スペイン人は違う。頼む方も頼まれる方もそこまで考えていない。でも、ほとんどの場合、行き当たりばったりでも最終的には何とかなってしまうのがスペイン。

でも、そういうのにも慣れて何とも思わなくなってしまった私はすっかりスペイン人化してしまったのかも。そう思って鏡を見ると、やっぱり中年の日本人女性がそこにいて、嬉しいような寂しいような複雑な心境になる。

結局、トニックウォーターは自販機にもなく、知り合いのピザ屋で「来週は店に食べに行く」ということで分けてもらい目的地に向かうと、痺れを切らしたナンドと彼女のレベッカが家の外で待っていた。

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ナンドの家は村の旧市街地のど真ん中、協会から通じる細道にあった。間口が狭くてドアを開けたらいきなり居間。敷地面積にして2mx5m程しかないのに四階建てという面白い間取りで、昔ながらの鉄の手すりを伝って上がって行くたびにミシミシと家全体が揺れる階段を最上階まで上がると、満天の星空が静かに広がっていた。

ボロ家だけどね、贅沢を言わなかったら必要なものは何でもあるから便利よというレベッカの言葉に、満天の星空はアマゾンにも売ってないからねと言うと、彼女は声を上げて笑い、野外であるのを思い出して慌てて口を塞いだ。

ナンドとは歳がひと回りも違うレベッカ。年齢以上に落ち着いて見える彼女に父親はなく、離婚後、ウェイトレスと清掃員の仕事を掛け持ちながら、病気の母親と娘を一人で養っている。誰もがそれぞれ自分だけに課せられた透明の鎖につながれている。

下に戻ると、小さいながらも一端のレトロなバーのようなカウンターでジントニックを用意しているところだった。なんとジンの種類は5種類もあった。

マリは勝手に牛乳をレンジで温めてホットミルクを作り、カルメンはピーチリキュールにするらしい。既に飲み過ぎ警報が鳴っている私は少し薄めのレモンたっぷりのジントニックにした。ウィスキー崇拝者もいる。そして、どういう訳か、ホセのジントニックだけがピンク色だった。

今度は8人でナンドの誕生日を祝ってグラスを持ち上げる。今日、何度目かの乾杯。あともう少しで日付が変わる。


「おめでとう!」
「乾杯!!」


みんな口々に乾杯を叫び、各自が全員とグラスを打ち付け合う。

酔いも交じり、乾杯をした拍子にジントニックを零すのはやっぱりホセで、またマリに叱られていた。それを見たナンドが額に手を当てながらカーペットが汚れるのを嬉しそうに愚痴る。真夜中だというのに近所迷惑な平均年齢61.5歳の少年たちがそこにいる。

ナンドが柔らかで緩みきった笑顔をみんなに向けて、グラスをさらに高々と掲げた。

「みんなに乾杯! Salud (サルー)!!」

君らと過ごせることが最高の誕生日プレゼントだ。

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「乾杯」に決まった意味なんかない。

あるとすれば、「乾杯」は同じ時間を過ごす者たちが、普段は締めすぎている心のネジをほんの少し緩めるための合図。

あるとすれば、ネジを緩めることで生じる隙間にふわりと顔を覗かせる小さな心の欠片を共有するための合意。

ネジを37.5度だけ緩めた者同士だけが心の中をそっと覗き合う。37.5度。それは、体も心も脳ミソも少し微熱を含んだ状態でもある。決して土足で踏みにじったりしてはいけない。この空間に零れ落ちる愚痴や涙は明日には忘れてしまうのが原則。

スペイン語で「乾杯」の一言に値するのは健康を意味する「Salud (サルー)」。それぞれの喜怒哀楽の一切れを肴にして互いの健康を願い、共に生きていることそのものを祝い感謝する。




得体の知れない何物かの力に引きずられるようにして半年以上が経った。何が本当に大切で、何を守るべきかを見つめ直す暮らしの中で、人々の生活スタイルが明らかに日々変化している。

今までがそうであったように、これからも「乾杯」の形は時と共に変わっていく。形式だけの「乾杯」は姿を消し、もしかしたら、去年までのように肩を寄せ合って何度も乾杯し、崩れ落ちるように笑い転げることすらなくなっていくのかもしれない。

でもそれで「乾杯」がなくなるというのではない。生きる喜びを分かち合う手段としてこれからもずっと「乾杯」は形を変えて私たちの暮らしに寄り添うのだろうと思う。



携帯電話がメッセージの着信を知らせる。


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今から始めてのデートに出かけるような小恥ずかしい緊張感と高揚感を感じながら、お気に入りのワインをたっぷりとグラスに注ぎ、パソコンの画面を立ち上げる。

頬が緩む。

画面の向こうで仲間たちが、いつもと同じ笑顔で手を振っていた。


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