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無敵で無責任な論理

 当事者を持ち上げておけば時流に乗って自分を埒外にして他人を断罪出来るし、うまくいかないのは自分以外の誰かのせいだし、お金が足りないと言っておけば(いくらで足りるのかを指定しないゆえに)永久に言い逃れができる。そして、自分たちの主張を実現するために他人が払うコストのことは常に計算に入れない。そして、何が望ましいかは自分たちだけがわかっている。
 福祉っぽいロジックとはこういうものである。

 彼らは言わない。障害を持った人、逆境を生きる人、社会の中でうまく振舞えない人が暮らしやすくなるために必要なコストを言わない。障害を持った人が施設や病院を出て地域で生きるために必要なコストを言わない。今まで接点のなかった多くの人がSympathyやEmpathyを感じるような、彼らに伝わるような言葉で語ることをしない。口当たりのいいことを言っても自分たち以外に最終的な責任を取ってもらっている例を言わない。自分たちの限界を言わない。自分たちの責任を言わない。

 彼らは、自分たちがいいと思うもののために人々がお金を払ってくれるのは当然で、払ってくれないのは人非人くらいに思っていて、政府には無限の無駄金があって、それが当然自分たちに回されるべきだと思っているように映る。彼らが無駄だと断罪する予算が何を守り、誰を養っているかは知ろうとしない。また、自分たちがいくら必要なのかを提示しないから、論理的にはいつまでも金を要求することができる。そして自分たちが提示する社会問題が解決しないのは政府が金を払わないからだと結論することができる。すべての社会課題は政府が金を出せば解決できると思っているので、現実にある予算制約の中では人権、社会問題、差別と向き合わない。
 それは無敵のロジックだが端的に詭弁で無責任だ。しかも彼らは自分たちの支援対象以外には無頓着だから、ほとんどの人が制約条件下で現実と妥協して生きているという事実とその我慢とあきらめに共感しない。彼らは社会階級間の調停者ではなく、弱者のアジテーターに擬態した社会のフリーライダーだ。彼らは現実の制約にコミットしないから社会のほとんどの人と話が噛み合わないが、内輪で盛り上がるだけで留飲を下げてしまうのだ。

 パブリックな言論空間でああいう粗雑な主張を振りまく輩が多いから、現実にある無駄、現実にある責任、現実にある差別、そして現実にあるコストに対する問題提起が希薄化されることになる。地道に活動している人たちからすれば苦々しかろうと思う。現場にいても、その手の政治的な野心や自己目的をドライブにしている人間は当事者の方を向いていないから、よくわかる。私自身、行政当局の払い下げ仕事で細々と食いつないでいると、当局が自分たちを雇うためにどれだけの公金をねん出していて、その拠出を正当化するための「自分たちが何をどれだけやるのか」というベンチマークはかなりシビアだと感じる。でも、私は今の仕事を非常に重要で意味のあることだと思うからこそ、もらった金以上のことをするのを厭わないつもりでいる。結局はその持ち出しが当事者のためになる事業を育てる必要条件だと思うからだ。無限に金が降ってくると信じるカーゴカルトとは一緒になれない。

 あの界隈にとって言論は痰壺のようなものだ。でも、痰壺に痰を吐いて自分の留飲を下げることに意味はないし、現実世界と交差することもない。それに、私はそういう手合いと一緒くたにされることも堪えられなくなった。それでも思いの丈がなくなるわけではないから、せめて人に読ませる体裁にしてこうして記事を書く。私は他責性の怪物にはなりたくない。社会的弱者に支払い能力がない以上、福祉屋としてタックスイーターに留まることは避けようがないが、そこに居直らず、今困っている個人や社会集団に対してだけでなく、ほかの社会集団や個人に対しても責任を果たせる人間でありたい。

 「そういうのはよそでやれ」と言われればまぁそれまでのこと、なのかもしれないけれど…

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