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部分最適の行き着く先で

 福祉、特に公的扶助の領域で仕事をしていると、支援機関がそれぞれ自己に最適化した結末を見ることがあります。と言われてもなんのことやら、という感じですね。これまで折に触れて言及してきたことですが、具体的にはどういうことなのかをお伝えしたいと思います。

 カスタマーハラスメントやモンスタークレーマーなどの言葉が徐々に流通してきました。医療現場や福祉事業所からもそういう声が聞かれることは珍しくなくなりました。恫喝、セクハラ、暴力暴言、その他ルールを守らない、そういう不適切な言動に対する労働者の憤りは相当強いようです。毅然と対応すべきだ、警察対応すべきだという声もあり、それらの対応は実際にクレーマー対応マニュアルとして整備されつつあるように見えます。これを読む実務関係者にもそういったケースには多少とも心当たりがおありかと思います。こういったケースに対応するためのルールは、建前では節度のある支援被支援関係の為のルールではありますが、実際には支援契約を維持できない人を支援機関から排除するようにも機能します。いわゆる出入り禁止というやつですね。
 わたし達はほとんどの場合、自分が所属する支援機関という単一の接点でしか、クライエントと出会うことはありません。それは上に書いたような人についても同様です。つまりわたし達は、自分たちの目の前から排除した人たちの帰趨を知ることが自然にはできない、ということです。公的扶助は契約によらない支援被支援関係なので、契約ベースの支援機関を去った後の帰趨を知る機会に恵まれていると言えそうです。

 そこからわかるのは、つまり本人の申込みと機関の承諾を以てする契約を土台にした民間の支援機関になじまないニーズがあること、特定の支援機関とだけうまくいかない場合とどこへ行ってもうまくいかない場合とがあることです。
 前者の例は統合失調症や境界知能の人にはよく見られることです。共通して言えることは、病気や障害について回るスティグマを非常に敏感に理解していること、したがってそのスティグマを自認しなければ受けられない障害福祉サービスに葛藤を生じること、しかし支援のニーズはあることです。この障壁はわたしにとっては自明のことなのですが、支援をお断りされる方便としてよく言われます。曰く「支援の必要性を理解していない」「支援を求めていない」「自分のことを理解していない」などなど。それがなけなしの自尊心を捧げることだとはあまり理解してもらえません。
 後者は福祉に留まらず医療現場でもよく見かける話でしょう。あちこちでトラブルになっている人というのは一定数います。その理由はだいたい同じです。医療機関の判断材料もだいたい似通っていますから、いくつかの医療機関でトラブル(わかりやすいのは暴言暴力)を生じた経過があれば、診療情報提供書(福祉でもサービス導入の相談に際して支援者が紹介状のようなものを用意します)を通じて地域の医療機関から事実上の締め出しを食らうようなことも起きています。

 各々の支援機関が契約になじまないという理由で特定の被支援者をロックアウトすること自体はある程度やむを得ないようには思います。少なくとも医療職にも看護職にも社会的包摂や排除、障害理解といったコンセプトは少なくとも制度的にはビルトインされていませんし、道徳的に自然発生するものではないでしょう。ですが、福祉を生業とする人については、自分たちが支援を提供しないことで目の前の人はどうなっていくのか、ということにもう少し想像力を働かせて頂けないものかと感じます。予算制約、限界設定、専門性etc、どんな言葉を弄したところで、何らかの助けが必要な人の手を払うというということと社会がわたし達のクライアントにしてきたこととは本質的には同じです。それがちゃんとわかっている方が感じる申し訳なさはときに職業的矜持に対して破壊的に作用します。だから本人ではなくコブ付きたる支援者の方に頭を垂れてくるのです。本人には説明も説得も機会がないままの方が一般的で、それ故に断る/断られる体験自体が何の気付きにもつながらないのです。
 手に余る大変さを背負い込むのもよくないとか、彼らに支援を提供できないのは(給付や制度の)制約があるからだとか、うちのコンセプトに合致しないとか、わたし達は目の前の支援ニーズを払い除ける上等なレトリックをたくさん持っています。端的に手に負えないという場合もあります。その理由は労働者の保障と権利、組織防衛に照らして正当なものではありますが、一方で容易に「わたしは何も悪くない」の言い換えになり得ます。それらの釈明に後ろめたさを感じる人の中には、うち以外にも選択肢はあるから、というレトリックを持ち出す場合もあります。ですが、上にも書いたように、わたし達は多くの場合で自分たちの前から立ち去った人たちの行く末を知りません。本当にほかの選択肢があるのかどうかわからないのです。わたし達が手を払ったのと同じ理由でほかの事業所からも排除されるかも、されないかもわかりません。それでもわたし達は誰かの手を払い除けますか?

 わたしにしてみれば、生活保護ケースワーカーが保守的でときに頑迷とも思える判断をするのにはそういった理由もあるからだと感じています。わたし達民間の支援者が支援する相手を選別していること、簡単に手を引けることを彼らは経験的に知っています。誰からも選別されてニーズが宙に浮いた人を手ずからで支援しています。その多くは円満終了とはなりませんから、一期一会の民間支援者より組織としては遥かに長い時間軸で支援をします。そこは、各支援機関がやりたいようにやり、やりたくないことをやらなかった支援の答え合わせの場所にもなり得ます。

 わたしはそんな彼らを通して、支援者が被支援者を選別している事実とその業の深さを思い知りました。わたし自身、その業からもたらされる後ろめたさ、申し訳無さ、罪悪感を軽々に手放したくないですし、願わくば同業の方々にももう少しそれらが共有されてほしい、そう思います。

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