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言語表現の解像度

 これから書くことはおそらくは言語学者や哲学者にこれまで論じられてきたであろうことで、孫引きくらいは見たことはあり得ても不勉強ゆえに先行者は知らないままのわたしが、何重にも焼き直されたそれを無謀にも自分なりにアウトプットしようという試みです。したがってオリジナリティはないかもしれません。

「あの先生はいい先生よね」

 この仕事をしていてよく聞くフレーズです。先生をクリニックに置き換えても個人経営の場合は大体通じますが、病院への置き換えは難しいですね。もっと言えば「よくない」に置き換えた方が、心なしかよく聞くような気もします。いいことではありませんが。
 これは具体的には何を意味しているのでしょうか。ある患者さんにとっていい先生とは「診察時間をたくさんとってくれる」先生であったり、また別の患者さんは「肯定してくれる」先生だったりするでしょう。うんうん言ってくれる先生がある人にとっては優しいと肯定的に捉えられ、またある人にとっては何もアドバイスをくれないと否定的に評価されたりするでしょう。患者さん以外からでは、書類を遅滞なく書いてくれるのがいい先生であったり、看護師の意見を尊重してくれるのがいい先生であったりします。独善的とみられる態度が一方ではリーダーシップがあるとみなされたりします。誰かにとって正しいことは別の誰かにとって正しくなかったりします。傾向はあれど「いい(Good)」はなかなか一意には決まってくれません。

言語表現に変数が多いと解像度が下がる

 かように抽象的な表現というのは文脈依存性が高く、変数が多いと情報の解像度が下がります。一見それっぽいフワフワした名言風のタームが実際にはほとんど内容のない音に過ぎないことはその例です。変数をある程度固定すると(解像度を上げると)「慢性期統合失調症の男性患者さんの言葉が出てくるのをちゃんと待ってくれる(いい)先生だ。」みたいな感じになるでしょうか。でもこれでは、既に存在する関係の中でいい先生であることを説明は出来ても、これから診療を受けたい人にとっては同一な変数の多寡で情報の精度が変わってしまいますね。神経症の若年女性にとっていい先生かどうか、上の例ではわかりません。冒頭で病院に置き換えが難しいと書いたのは、ここにさらに医師が複数人という変数の集合を挿入すると「いい(Good)」という情報の価値がほとんどなくなるからです。もっとも、医師以外でも事務スタッフやコメディカルが全体として対応がいいというのは病院単位でもかなり重要な判断材料で大切な要素にはなりますが。特定の専門分野に通じているとかなんとか理論をものしたとか〇〇学会の会長であるとか、わたしたちはとかく形式的な情報で物事を判断したくなりますが、それは事前確率を上げることにはいくらか貢献しても、私や彼/彼女から何を受け取って何を返してくるか(つまるところその人にとって「いい」支援者であるかどうか)を特定できるような情報ではないということを心得て置く必要があります。

言語表現の解像度を操作する

 言葉の持つ意味内容の曖昧さについては発達障害者支援の文脈ではよく聞く話ではありますが、決してそれだけに留まるものではありません。無意識に固定された変数を意識しだすと、他人からもたらされた情報が実際にはとても扱いづらい情報であることがわかります。これを端的に表現すると「他人の言うことを信じない」と言えます。ずいぶんと極端な言い回しですが、毎回ちゃんと吟味をしていたら同僚からそう誤解されることはあるでしょう。このように他人の表現の中に格納された前提となる変数を吟味していくと、相手の理解と同じ意味に受け取ることができる情報というのはほとんどなくなっていくような気がします。そこに病的な解釈が挿入されだすとそれはもう精神病の世界の端緒ですね。コミュニケーションのコストが高止まりして非常に疲弊します。統合失調症の方では、健常者が意識しない変数を半ば意識的に埋め戻す作業に脳のパワーが費やされていることが、彼らの「おそるべき面倒くささ(計見一雄)*1」につながっているように、私には思えます。健常者はそういう変数を無視したり意識したりして表現の解像度の上げ下げを半ば自動的にやっているようですね。

対人援助における解像度の重要性

 一般の方であればこの自動処理のデメリットは大きくないかもしれませんが、対人援助職、ことに精神に関わる支援をしている人間には少しばかり大きいように思います。「言われていることを聞きなさい。それはきみの考えている通りの意味ではないと仮定しなさい。」というのはH.S.Sullivanが若き研修医に向けた金言で、文脈的には主観的な重要性や評価についての指摘ではあります*2が、これがあらゆる支援状況で決定的に大事になってきます。重篤な虐待や精神病体験などの(場合によってはこちらから尋ねてはいけない)例外を除き、「それはどういう意味?」「それってこういう意味で合ってる?」と丹念に丹念に確かめていかないと、患者さんや利用者さんの言いたいこと(伝えたいこと)をうまく受け取ることができないからです。あるいは、相手の言語表現に格納されている変数の値が、自分の持っている値に勝手に置換されてしまうからです。

変数の特定と操作

 解像度が低い言語にもメリットはあって、非常に差し迫った局面で相手の困り事や悩み事が掴みきれていない場合に、ひとまずは受け取った感情をそのまま伝え返すときなんかは、解像度が低い方が却ってリスクが少ないです。一知半解の段階で「ははーん、さては自分が発達障害じゃないかって悩んでるんだな?」みたいな当て推量は当たってても外れててもあまりいい結果をもたらしません。また、解像度の低い言葉というのはわかりあうことを容易にして一応の一体感や共感性を得やすい反面、どうしても自分と他人との認識のずれが生まれます。お互いに持っている変数の値が違うから当然ですね。その変数を特定、操作していく作業を解像度低めの言葉で言い表すと「自己覚知」「対象者理解」「制度理解」etc…ということになるでしょうか。(本稿の趣旨から逸れるので深入りはしませんが、このように考えると同僚、上司部下、関係機関、当事者、患者等々、他者の属性間に引かれた境界線が融解していくのがわかるかと思います。なぜかと言えば、ソリューションという最後の一手を除いて、変数を確かめていくという作業自体は一緒だからです。)
 とてもわざとらしくて露悪的な例を挙げますと、障害のある方向けグループホーム(共同生活援助)などはとても分かりやすく意味の差が現れます。社会福祉サービスにあまり詳しくない先生は「福祉事務所にアパートを認めてもらえない患者さんにとりあえず提案するところ。対象となる範囲??限界設定???」、地域支援の経験のない看護師さんは「アパートに行けない人が退院していくところ」、患者さんは「認知症の人が一つ屋根の下で共同生活している」、中堅PSWさんは「めっちゃ断られる」、地域のベテラン保健師さんは「あそこはダメ、ここはいい…(以下個別事例が続く)」グループホームの職員さんは「アパートまであと一歩の人で自分で来る気のある人向け」みたいな感じです。これは露悪的な例なので実際にはここまでのことは多くありませんが、これではグループホームへ行くことなどとてもできませんね。持っているイメージも違えば、そこに行くことの意味合いも違います。グループホームへの誘いは、ときに患者さんに対して「一人では生きて行けない」というメッセージとして受け取られます。その意図がなければちゃんと伝えるべきですね。そうしてグループホームという言葉の解像度をどんどん上げていって、実質的な意味内容のすり合わせを積み重ねていくことが要するに精神科における支援であり、ときにはそれ自体が治療的な関わりでもあったりするわけです。

 上記は処遇調整の例ですが、患者さんの直接支援でもこういうことはよくあるわけで、自分の言語体系を解体、点検していく作業を怠っていると、相手の表現の意味していることを自分の持っている体系以外で理解することが難しくなる、すなわち「それってどういう意味?」という確認ができなくなるわけです。そうやって話というのはかみ合わなくなっていくんですね。事実を述べたつもりが「べき論」を読み込まれてしまったり、かと思えば「べき論」を説くために理詰めになったりします。それは支援者と患者さんのどちらにとっても不幸な事です。患者さんが「あの人はわかってくれない!」というのは、往々にして事実性の確認ではなくそこに込められた感情や解釈があなたには受け取ってもらえなかった!という意味だったりするのですよね。何がそんなにつらいんですか?寝れないことですか、落ち着かないことですか、それとも命を狙われていることですか?何も大丈夫ではなさそうな状況ですけど何が「大丈夫」なんですか?ということが、本当はそんなに簡単にはわからないはずなのに、存外確認されていないんですよね。虐待はその最たる例でしょうか。虐待は社会的なコンセンサスの外側で起きていることですから、支援者自身が内面化しているコンセンサスを(解体とまではいかなくても)相対化することなしに、患者さんが被ってきた被害とその苦しみをその通りに受け取ることは難しいでしょう。(トラウマ理論やアタッチメント理論が「お母さんは悪くない!」という社会規範を強力にビルトインしていることを繰り返し批判しているわけはここにあります。そのように変数を固定してしまうと被虐者の理解の様式に認識できない領域が生じる、ということを言ってきたつもりです。)というか虐待ほど人によって意味の違う言葉もあまりないという感じがします。虐待の場合に変数という比喩を使い回すなら、そもそも関数が人と違っているということも出来そうです。(具体的なやり取りを書いた方がまだニュアンスが伝わりやすいことは承知しつつ、何を書いても事例性というか誰かの何かを不用意に連想させてしまう畏れがあるので、具体例は割愛させてください。)
 ただ、上に書いたようにこういう作業は精神的な負荷の強い作業ですから、毎回これをやっていたらお互い持ちませんね。でも実際には確認が完了した言葉から注釈なしで飛び交うようになっていくので、コミュニケーションによる収穫は逓増していくみたいです。よくできているなぁと思います。これを楽器の調律に倣ってチューニングが出来てきた、などと表現されたりします。久々に会った人とはわかりやすくチューニングが合っていなくて、そういうところも納屋から引っ張り出してきたギターが非常に音痴であるのに似ているような感じがします。これはもちろんオリジナルの表現ではありませんし、元々はラジオの周波数合わせから採った比喩ではなかったかと記憶しています。

 さて、わたしが自閉スペクトラム症という現象を理解するために一番参考にしている真行寺英子さんが自閉症の息子英司さんとの日々を書いたエッセーがあります。この本の中ほどで、それまで息子さんの言動に翻弄されるばかりだったお母さんから突如「英の〇〇は××だから」というフレーズが出てきて驚いたものです。おそらくはお母さんの息子さんへのチューニングが完成しつつあったのでしょう。この情報は息子さん以外への適応可能性は限りなく低い一方で解像度は非常に高いので、息子さんを理解するためにはこれほど有用な情報もないというものでしょう。*3

まとめ

 結局はこういう地道で疲れる作業の積み重ねが、支援という文脈に沿った言語表現における意識的な解像度の上げ下げを可能にして、虐待ケースと聞いただけひるまない、クレーマーと聞いただけで嫌がらない、患者さんに「死にたい」と言われて動転しないような支援者を形作っていくのだとわたしは思います。それが意味している内容を自分自身で確認するまでは、表現に込められた支援者の不安や軽蔑から自由でいられたり、患者さんの切迫性、切実さを理解する冷静さを提供してくれたりします。この作業があまりにおざなりになり過ぎていると、法令とガイドラインと倫理綱領を杓子定規に当てはめることしかできないの支援者になってしまいます。実際にそういうbotと見紛う同業者に出くわしたことがあるかもしれません。そんな支援者はそう遠くない未来にAIによって仕事を奪われてしまうかもしれませんね。

おしまい


*1『急場のリアリティ 救急精神科の精神病理と精神療法』(計見一雄:2010
 , 医療文化社)
*2『サリヴァンの精神科セミナー』(R.G.クヴァーニス・G.H.パーロフ 編 
 中井久夫 訳:2017, みすず書房)
*3『言葉のない子と、明日を探したころ 自閉症と母、思い出を語り合う』 
 (真行寺英子+英司:2005, 花風社)

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