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『臨床現場に生かすクライン派精神分析』読後評

 昨年、縁あってウィッテンバーグという分析家の本を読む機会を持ちました。

 素養のない人間にとってクライン派や対象関係論というのはとにかく難解で、スィーガルをちょっと読んだきりクラインアレルギーを起こしていて、失礼ながら「どんだけ乳房って言うんだよ」などと感じておりました。そんな自分にも本書は素直に了解可能な部分が多く、ワーカーが本邦の文脈に即して心理療法家と訳される苦汁を味わいはしましたが、枯渇していた精神分析への関心を揺り起こしてくれそうな本でした。
 何よりも、アタッチメント理論が20世紀に置いてきた「愛着形成過程における〈母親〉役割の個人的資質」の視座がそこにありました。この議論がクライン派とすべきなのか、はたまたウィッテンバーグに限った話なのかは浅学ゆえに判断できませんが、少なくともクライン派という体系と言語でアタッチメントと同じようなことを説明しようとしているのだな、ということが腑に落ちたのはそれだけで収穫でした。
 これはわたしにレクチャーしてくれた講師の先生の解釈というか捉え方も多分に含まれているのでしょうが、乳幼児期の内的対象を統合できなかったクライエントとの作業は、なんやかんや言って発達過程を心理的に体験し直すしかないということのようです。また、わたしが私淑していた高橋和巳も、社会性を維持しながらカウンセリング下で乳児期まで退行する(そういう言い方はしていませんが)二重状態を被虐者カウンセリングの過程としていますから、これは大いに得心のいくことでした。出生外傷みたいな考え方も、生後から虐待を受けてきた人の世界観だと思うとその見方はだいぶ変わってきます。現実の母親やその関係を観察しないのは片手落ちだとは思いますが、母子の個人的素質を顧みないのは最近のとっぽい理論たちも大同小異ですからね。
 とはいえ、こういうクライン派の考え方、わたしは割と好きですね。好き、という主観的な言い方をしているのは、本稿がアタッチメントやトラウマの理論的な潮流に色々と異論を差し挟もうとしてボツにした残骸だからなんですが。だから、この話は好みの考え方の話でしかありません。ボツを繰り返しながらふと過去記事を読み返しておりましたところ、わたしが考えていることのほとんどは既に記事にしてありました。それらにアタッチメントやトラウマという用語を外挿してもほとんど含意は同じです。関連する記事を一番下に貼っておきます。

 わたしは理論の大きな潮流に抗う術を知りません。だからこんな事を書いてなにかが変わるとは思いません。頑張って抗おうとしていた時期も長かったですが、さすがに諦めました。粛々と、現場で説得的な説明をして回る方に専心します。そういう人間からすれば、本書はとっぽい概念体系を用いてこそいませんが、それらよりよほど身体に馴染む気がしました。自分は興味を引くものすら持て余す人間なので醍醐味にたどり着く前に撤退しているであろうジャンルも結構ありそうな気がしますが、久々に新鮮な読書体験でしたね。

おまけ

  これまで愛着について書いてきた記事たちです。我ながらまとまりなくいっぱい書いてきたなと思います。古いものは常体で書いているので今よりもさらに感じが悪いですね。まあでも、ツンケンしているのはわかってほしくて一生懸命だったんだろうと思います。

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