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前思春期的な親密さをやり直す

 サリヴァンは前思春期的な親密さを体験することの重要性を度々説いていて、なんだったらそれを経験しそこねた患者に追体験してもらうことを精神科治療に持ち込んでいる。

 荒涼とした学生時代を過ごした私にとって、デイケアは彼の言うような前思春期的な親密さの追体験の場になっていたように思う。十全だったかはともかくスタッフとしてなすべき仕事をおろそかにしていたつもりもない。その意味で、あくまでスタッフと通所者、或いは支援者/被支援者という関係ではあったと思う。
 しかし、若く無能な私をかわいがってくれた彼らと互いに冗談を言い合ったり互いに影響されあったりする経験は、私自身にとって治療的だったのだと思う(すべての人と麗しい関係を築いたわけではないけれど、それはひとえにスタッフとしての私に責任がある)。一緒に何かに取り組み、彼らと感情を共有する体験の意味は大きかったし、デイケアを離れて違うフィールドで人と出会うようになったときに、その家族愛とも異性愛とも違う親密さを経験的に理解していることが役に立っている。

 斎藤学は「見捨てられ不安を諦観のうちに受け入れるのが成人期の本質」であると書いていたけれど、私自身の孤独にはおそらデイケアにあったような前思春期的親密さがいたく効くのだと感じる。
 けれど一方で、学生時代にやりそこねたそれがどれだけ心地よくても究極的に孤独は癒えない、ということが最近になって少しずつわかってきて、斎藤の言う孤独の意味を改めて噛みしめている。諦観はまだまだ遠いらしい。

 東畑開人の『イルツラ』が私に残した微妙な不快感の正体はこれだったようだ。彼は私が考えるような意味で孤独ではなく、ああいった対人関係の場にやり直しの意味が生じる人でもなかったようだ。だから彼はデイケアにあって遠い人であり、メンバーから影響されない人だった。私がデイケアの妙味だと思っていたものは私にとって治療的だったというだけのことで、彼にとってそうではなかったというだけだ。彼を論難する気はない。

 でも私は、私が考える意味での孤独に触れることが大事なことだと思うので、そういう人の言葉を大事にしているつもりではある。それはサリヴァンであったり中井であったりする。斎藤も本質的には孤独の人であろう。孤独でない人も彼らに意味を見出すけれど、そこに見出す意味が彼らのそれとは少し違うだけなのだ。

余談:
 ただ正直に言って、前思春期でつまずく場合にそこが起点となるべきかはあやしい。原家族とのつまずきが明るみに出るのが学齢期、ということでしかない気がする。母子関係まで遡る議論が細くも連綿と受け継がれているのはそういうこともあるだろう。

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