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永久に切なく愛おしい記憶 3

本記事は連載予定の小説です。
セミフィクション。実話を元にした創作作品です。

大連空港について、各自躊躇いもなくホストファミリーと合流するみんなのスムーズさに慌てながらも、私も「凛月」と書かれた紙を持ってニコニコしている自分のホストファミリーを見つけた。

例の日本人学校で中国語を教えているというお母さんだ。
体型はふっくらしていて、肝っ玉母さんという感じ。でも清潔感があって、まだまだ発展途上だった当時の中国ではしっかりした仕事についてまずまずの生活をしているという感じがした。

彼女は静さんという。中国語ではjingという読み方。
この時の私はなんて彼女のことを呼んだらいいのか分からなかったし、何と呼んだら良いか聞く能力すら無かった。
というより、変なことを言って理解してもらえないのがとても怖かった。
何かを言おうとして、頭で浮かべては、いや違うかな…と悩んだことは数知れず、言葉は考えているうちに綿飴のように脳内でじわりと溶けて消えて、ザラザラとした感触だけが残ってしまう。

静さんは、私のことをリンユエ、リンユエ、と呼んだ。
中国語で凛月はlinyueと読むからだ。
私はこの響きが気に入っていた。まるでなにか美味しそうなお菓子みたいな響きだから。

タクシーに二人で乗り込み、しばらくすると、静さんの家に着いた。
そこはマンションがいくつか立ち並ぶうちの一棟の二階だった。
玄関には旧正月に飾る縁起物の赤いタペストリーのような飾りが付いていて、あぁ中国だなぁ、と感じた。
これから1か月、ここで生活するんだ。

中に入ると、玄関からそのまま正面にダイニングスペース、右手が広々としたリビングになっていた。
ダイニングの左側には窓が全面にとられた明るいキッチンルームがあって、窓辺にはいくつか観葉植物も置いてある。
ダイニングスペースの奥には廊下が続いていて、その先にバスルームや個室が繋がっている。

「リンユエ、ここがあなたの部屋よ。」
そう静さんは言うと、奥の廊下の一番手前の部屋に案内してくれた。

広くて明るい部屋の中心には大きなダブルベッドが居座っていて、奥の窓辺にはデスクと椅子がある。

「前に空き巣が入ってきたことがあるから、窓は絶対に開けないで。」

静さんは英語で私にそう言うと、部屋から出て行った。
絶対にわかって欲しい重要事項だから、中国語ではなく英語で言ったようだった。

たしかに窓の外は二階のはずなのに歩道となっていて、簡単に人が近づけそうな不思議な作りになっていた。
窓の外は、半紙に薄い墨汁を垂らしたような淡いグレー色の空が広がっていて、雪も積もっていた。

中国の家の中は冬でも暖かくて快適。
セントラルヒーティングという温水をパイプに通して輻射熱で温めるシステムで、家全体がじんわり暖かい。

荷物を整理しようと、部屋でスーツケースを広げた。
見るもの全てが新鮮なこの世界に着いてから、見慣れたものが詰まったスーツケースを開けると少しホッとした。

持ってきた洋服をクローゼットに掛けて、アクセサリーや小物などをデスクの上に置いた。
心なしか、自分の部屋のように感じて安心した。

手土産に日本から持ってきた桜の花びらが入ったゼリーの詰め合わせを渡そうと、何と言って渡そうか辞書で調べて忘れないように頭の中で何回も繰り返してから、ダイニングの方へ戻ると、静さんがお昼ごはんを用意してくれていた。

餃子だ…!

中国では餃子は決まって水餃子で、ぷるっと茹で上がった皮がおいしい。
自家製のタレにつけて食べるそれは、日本で食べられている餃子とは全く別物なのだ。

日本の焼き餃子とは違うそれにうっとりしていると、静さんは私が箱を持っているのに気づいた。

「どうしたの、これはなにかしら?贈り物を持ってきてくれたのね?ありがとう」

笑いながらそう言ってくれたのでそのまま頷き手渡してしまった。
私は美味しそうな餃子にすっかり気を取られて、さっき覚えたはずのセリフを忘れてしまっていたのだ。

どんどん話す自信を失っていく気がする…。

山盛りに茹で上がった餃子が大きなお皿に積み上がって湯気が揺れている。
中国ではたくさんのご飯を出して、家族やお客さんが食べ残したら充分に食事を提供したとみなす文化だ。
だから、食べ残さず、お腹いっぱいになったことを伝えないといつまでも出してくれる。
でも、私はこの習慣になかなか慣れず、食べ残すことが申し訳ないように感じてしまい、どうにもできなかった。
それに、なんと言っても美味しいから、食べ過ぎてしまう。

そんな私に静さんは毎回、ご飯足りたかな?と聞いてくれて、私は返事をするので精一杯だった。

「もうすぐ息子が学校から帰ってくるわ。夫とはね、離婚してるの。今は私が一人で育てて、週末夫がたまにここに遊びに来るのよ。」

静さんは笑いながらそんなことを言った。
そうなんだ…私も離婚で母子家庭に育ったから、何か言葉をかけたかったけれど、センシティブな話題だし、そんな絶妙なニュアンスを醸し出せる気の利いた言葉など、中国語で言えるはずもなく、ただ頷いた。

しばらくすると、静さんの息子が帰ってきた。
彼は今中学一年生と聞いていたけれど、私よりも背が高く、まるで高校生のようだったので驚きつつ、あいさつをした。
運動はバスケットボールをしているそうだ。彼の背の高さなら納得だ。
年頃なこともあってか恥ずかしがっているようですぐに部屋に入っていった。

今日は朝早くから日本の家を出て、1日がとてもとても長く感じなんだか疲れてしまったから、私も部屋に戻って休むことにした。

広くて殺風景な生活感のない部屋で、真ん中に鎮座する大きなベッドに寝転んだ。
ただただ真っ白な天井は、まるでExcelのシートでセルを白で塗り潰したような無機質な表情をしている。

…ふぅ、疲れたなぁ。
思ったりよりも全然うまく話せないな。
なんと言ったらいいか表現が分からないこともそうだけれど、分かることですら発音がうまくできなくて伝わらなかったらどうしようと尻込みしてしまう。
こんなことじゃ、ホームステイしてる意味がない。
だけど、話さなくちゃと思えば思うほどに、私の口は固く閉じてしまうのだった。

明日は確か朝から留学先の大学に集合だ。
最初の一週間は同じ手配会社で来た学生だけで導入のクラスとしてみんなで勉強する。
そのあと、クラス分けをして他の国から来ている大学全体の留学先のクラスに分かれて勉強することになる。

空港まで一緒だったのに、なんだかもうずいぶん千佳やなっちゃんの顔を見ていないような気持ちになり、早く会いたいな、と思った。

寝転んだまま、窓の方へ目をやると、だんだんと薄暗くなってきたから、厚手のカーテンを閉めて、電気をつけた。

「リンユエ、ご飯よ!」

そう静さんが呼ぶ声が聞こえて、もうそんな時間か、とびっくりした。

ダイニングルームに行くと、テーブルの上には黄色くてフワフワしたものの中にほのかに赤いみずみずしいものが入った料理がある。
すでに息子は食べ始めていて、静さんはキッチンで何やら片付けなどをしている。
彼にまじってテーブルにつくと、小皿に取って食べてみる。

トマトと卵の中華炒めのようだ。
これがシンプルながら、火が通って甘味が引き立ったトマトの淡い酸味と、卵のふんわりした優しさがとってもマッチしてほんのり塩気もあってすごくおいしい。

あまりに気に入って、勇気を出してこの料理はなんて言うのか聞いてみることにした。

「これは西紅柿鶏蛋という料理よ。」

静さんはなんてことなさそうに言った。
食べ物の単語をあまり予習してこなかったからその場ではどう書くのか分からなかったけれど、”シーホンシージャオダン”と読むもの、ということは分かった。

この黄色いふわふわをお腹いっぱい食べて満腹になった私は、静さんにお礼を言った。

「シャワーはあなたの部屋の向かいの部屋だから、自由に使ってね。」

そう言われたのでそのままシャワールームを見てみると、トイレと洗面器が手前にあって、奥にそのままシャワースペースがある造りになっていた。

やっぱり湯船はないんだな、と思った。
日本では毎日入っているからシャワーだけの生活は初めて。
ちゃんとお湯が出るのか心配になりながら、蛇口を捻ると、しばらくしてあったかいお湯が出てきたのでホッとした。
家全体があたたかいから、シャワーだけでも寒くなく、案外平気だ。

シャワーから出るとダイニングやリビングは電気が消されて暗くなっていて、そのまま静さんや息子は自分の部屋にいるようなので、私も自分の部屋へ行って明日の準備をしてそのまま疲れていたから寝てしまった。


翌朝、外に積もった雪に太陽が反射した光が窓の外から入ってきて、自然と目覚めた。

今日は金曜日。平日の朝は静さんも息子も仕事や学校で朝早くから出かけているから、私が一番起きるのが遅く、私が起きる頃にはもう2人とも出ていた。

朝はここにあるものを適当に食べてね、と言われたカゴの中から適当に甘いパンのようなものを食べて、支度を済ませ、昨日もらった家の鍵でドアを閉めて家を出た。

外に出ると、凍った空気が鼻を刺した。
大連の冬はとても寒い。3月でも真冬の寒さだ。
大学までは歩いて7分くらいの距離だから遠くないのだけれど、それでも耳が取れてしまうのではないかと思うほど空気が冷い。

通り道に雪化粧を纏った針葉樹の並木道があって、どこかおとぎの国に迷い込んだみたい。
カラスに似た白と黒の模様の大きな鳥が何羽か道端にいて、中国のカラスは日本のカラスよりかわいらしいなぁ、なんて考えながら歩いていると、大学の前に着いた。

門のところには見覚えのある顔が立っていた。

「千佳!」

私はそう言うと、駆け足で彼女の元へ向かった。

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