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青い芝生を見続けるのか、自分の庭を青くするのか。

人間というのはないものねだり。
今自分が持っていないものが欲しくて欲しくて仕方ないのだ。
しかも、ついさっきまで別に考えたこともなかったモノを、他人が持っていて嬉しそうにしているのを見るとすぐさま、あれうちも欲しい!となるのだ。
困った生き物だと思わないだろうか。

もちろん、これは自分の知識や経験を豊かにしていく必要がある、それによって生活をより豊かなものにしていくという本能的意味では機能していると思うし、それがなければ人間は他の動物と同じように一生外で森や草原の中で暮らしていたかもしれない。

ただ、このないものねだり遺伝子は留まるところを知らない。際限がないのだ。
あなたがこの遺伝子を野放しにして好き放題欲しがらせていると、何を手に入れても手に入れた瞬間からそれへの興味を失い、次は何を手に入れようと常に模索しだす。
一度自分の持っていない何かや経験していない何かを目にすれば、それが次のターゲットだ。

このないものねだり遺伝子が次々に反応する度に、それが欲しいのだと錯覚してはいけない。
本当に自分が欲しているものなのかどうかの最終決定権は常に自分自身に置いておこう。

そうしなければ、本当は自分の標準ではすでに満ち足りた暮らしがすぐ足元に広がっていて、愛するものに囲まれているのに、それに気づかず、隣や周りの永遠に青い芝を眺めては、ああ、うちもああならいいのに、なんでうちはこうなんだろう、と無意味な比較の枠に囚われたままだ。

自分が本当に必要としているモノはなんなのか、何が自分を幸せにするのか。
それは受け身で目に映ったものや人から聞いたものの中だけから判断するべきではない。
しっかりとありとあらゆる選択肢の中から、自分が実行可能であると思えるもの、どうしたら自分を幸せにできるのか、そのために何が必要なのか、を自ら選びながら生きていくのだ。

全ての個人がまずは自分自身のことを幸せにする。そのことに全力で努力する。自分がちっとも幸せだと感じてもいないのに、誰かに幸せを提供することなんかできない。
自己犠牲の上に成り立つ支援は続かない。
結局、あなたがその人のためにと思ってやっていることは、あなた自身のためにやっているのだから。

時に、自分自身の幸せと向き合うことは、つらい。
自分の人生と向き合わずに、自分以外の他人や他所に自分が生きる意味をそれとなく見出す方が楽なのだから。
しかしそれは毎日出来合いのコンビニ弁当で腹を満たすのと同じことだ。

自分以外の誰かに自分の幸せの起因を委ねるのは危険だ。
人は誰しも生きて消えゆくし、その前にあなたの前から遠のいて行くことも十分にある。
その度に、あなたは次のターゲットを見つけなければならない。
それじゃまるで、取り憑き先を探す幽霊みたいなものだ。

だから、自分の幸せは自分の選択と行動によって実現するべきだ。
誰かに易々と提供してもらえると思ってはいけない。それはいつか必ず消えて無くなるのだから。

周りばかりを見て、他人の幸福を羨み、誰か私にも幸せを与えてくれないだろうかと嘆くのはもうやめよう。
自分で自分の足元に種を撒こう。

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