小説【アコースティック・ブルー】track1: SLOWDOWN #1

 ノイズ混じりの古い録音。
 薄い膜を張ったような少しくぐもった音声データには、柔らかな音色のアコースティックギターの演奏が収録されている。
 ローテンポながらも静かな力強さがあり、アクセントに織り交ぜられた低音域の弦の響きが心地よい重厚さを醸し出している。ギターの腕前は決して上手とは言えないが、どこか懐かしさを感じさせるメロディーはロックバラード特有の切なくも情熱的な雰囲気を上手く作り出していた。
 伸びのあるアコースティックギターの音色は録音環境の悪さのせいか、すぐに無音の中に溶けていってしまう。ボーカルの歌い出しが始まる直前の一小節ほどのほんの短いブレイクで音の空白が生まれると、ホワイトノイズがひときわ際立ち、ギターの余韻が完全に失われそうになった。徐々に薄れていく音色の影から息を潜めるように小さなブレスが聞こえる。
――次の瞬間、まるで空気と共鳴しているかのような驚くほど透き通った女性の歌声がアコースティックギターの旋律に融合した。
 空気を震わせるというよりも溶け込んでいくような圧倒的な透明感。ガラスを振動させたような繊細な歌声はどこか幼く、少女のようなあどけなさを残しつつも、一方では穏和な表情の奥に秘めた強い意思が確かな存在感を放っているのも聞き取れる。
 的確に音階を捉えていく安定した技術と、曲の世界観を彼女の声として具現化させられる豊かな表現力は、聞き手の心を揺さぶるのに十分な実力を備えていた。

 もう何度この曲を聞き返したか解らない。
 これまで数え切れないほど幾度となくこの音源を繰り返し聞いてきたというのに、この優れた才能の輝きに触れるたびに、セイイチはいつも胸の奥を激しくざわつかせる。
 じっとしているのが息苦しくなるような、今にも走り出したくなるような、どこか焦燥感にも似た衝動が胸の底を突き上げる感覚。それは初めてロックに触れたときの感動をセイイチに思い起こさせた。

 3分15秒
 手元を誤ったギターが場違いな高音を発して演奏が途切れると、ほんの一瞬の間が空いたあと、若い男女の笑い声が聞こえてそこで収録が終了した。
”プー”という機械音がイヤホンから発せられて、時代遅れの古いデジタルプレイヤーが再生を停止する。無惨にひび割れてしまっている液晶には「Notitle」の文字が表示されている以外何の情報もなく、バッテリー残量を示す電池のアイコンが絶えず点滅していた。
 誰が歌っているのか、曲のタイトルすら解らない古い録音データに記録されている謎の才能。この歌声の圧倒的な魅力に気圧されて、呼吸するのさえ忘れていたセイイチは息苦しさと気だるい高揚感が体の表面を揺蕩っているのを意識した。

「――さんっ…… セイイチさん!」

 ふいに名前を呼ばれて我に帰るセイイチ。耳に装着したカナル式のイヤホンを取り外すと店内の喧騒が唐突に雪崩れ込み現実に引き戻された。

「ああ、悪い。なに?」
「なに? ぢゃないですよ、もぉー」

 困ったように眉間をハの字に歪めて抗議の声を上げたKが、呆れた様子でカウンターに突っ伏す。

「セイイチさんのために無理言って何とかラインナップに捩じ込んで貰ったんですから、ちゃんと聞いてて下さいよぉー」

 唇を尖らせてブツブツ文句を言いながら、Kはそのまま店の奥に位置する小さなステージに視線を向けた。そこでは小柄な体には聊か不釣り合いな、大きなアコースティックギターを胸に抱えた若い女性が現代的なポップロックを歌っていた。

「まだまだ発展途上の逸材ですよ。路上で歌ってるのを見つけて声かけたんです」

 新しい才能はいつも輝きに満ちていて、未知の可能性を感じさせてくれる。そんな彼らを見出だし、未来への扉に手を掛けられるのはごく限られた人間だけで、歴史の一部になれることにセイイチとKは誇りを持っている。
 ステージを見つめるKの横顔には、そんなまだ見ぬ未来への期待が顕れているようで、とても楽しそうで自慢げだった。しかし録音データの歌声が未だ耳の奥に残るセイイチには、ステージから流れてくる音楽が聞こえていなかった。現実世界に聞こえる音がどこか遠くから聞こえて来るもののように感じられて、自分一人だけが別の次元に居るようなそんな感覚にセイイチは囚われている。
 氷が殆ど溶けてしまっている飲み残しのウィスキーのグラスを手に取り、その冷たさを指の表面で確認すると、白い紙の上に垂らしたインクが黒いシミを広げていくように、指先から徐々に現実世界へ引き戻されていくような気がした。グラスに薄く残った琥珀色の液体を通して、コースターにプリントされた店のロゴが歪んで見える。
”Bar Tom&Collins ”

 アンティークやインダストリアルを基調とした内装で、barというよりもカフェに近い赴きを感じさせるこの店には、業務用のコーヒーマシンも完備されているため、コーヒー目当てにやってくる客も少なくないらしい。
 店の奥には小規模ながらも本格的な音響設備が導入された小さなライヴステージあり、ジャズにロック、ラテンやカントリーなど多様なジャンルの音楽が、プロ、アマ問わず幅広いアーティスト達による生バンドの演奏で楽しめる。
 大音響のライブハウスとは違い、落ち着いた雰囲気の中で食事や酒を音楽と共に楽しめるため、最近では耳と舌の肥えた中高年達の社交場になりつつあった。
 だから今夜のように若い女性シンガーがステージに立つことはこの店では珍しい。若く張りのある声がティーンエイジャーの甘酸っぱい恋心を可愛らしく歌っているが、中年男性が多いこのバーの客層にはあまり似合わない選曲であることは間違いない。
 それでも客観達は何時もと違うこの雰囲気を素直に楽しんでいるようで、サポートバンドの面々も、いつもジャズクラブで演奏を披露している凄腕のベテランアーティスト達ばかりなのに普段あまり演奏しないタイプの曲のせいか、いつもより張り切っているようにさえセイイチには見てとれた。髪に白いものが混じり始めている初老の男性達と彼女とでは祖父と孫ほども年が離れているので、その対比がなんだか妙に微笑ましい。

 ようやくステージに意識が向いてきたセイイチはKが用意してくれた資料の存在を思いだしてカウンターに放置したままだった黒いファイルを手に取った。フェイクレザーの分厚いバインダーに仰々しくファイリングされている割には大した内容はなく、彼女の写真と簡単なプロフィールが印刷されているA4用紙が一枚挟まっているだけだった。

 名前はサエ。父親がイギリス人で母親が日本人。年齢は18歳とあるが、ステージに立つ彼女はそれよりもずっと幼く見える。目元のほりが深く鼻筋が通り、瞳の色が少しグリーンがかっている。一方でアジア人らしい肌の色と綺麗な黒髪がオリエンタルな雰囲気も漂わせていて、まだ幼いがほんの数年で美しい女性に成長するだろうと想像できる端正な顔だちをしていた。
 プロフィールの最後に”帰国子女”と印字されている。Kの話では日本にやってきて三年ほどで、日本語がまだ苦手らしいが、歌声を聞くかぎりではそれほど気にならなかった。時折妙なイントネーションになることはあるが、それがかえっていい味を出していて、セイイチには可愛らしく感じられた。

「どうです、彼女? 結構いい声してると思うんですけど」
 Kがセイイチに向き直って自信ありげに声を弾ませる。
「ああ、そーだな。いいんじゃないか」

 セイイチはただボーッと文字が印刷された紙の表面に視線を這わせているだけで、返答は上の空だった。そんな反応を見てKが「はぁー、やっぱダメか」と心底残念そうに肩を落とす。

「いや、ダメとは言ってねぇだろ」

 条件反射的に返事をしただけで特に意味などなかったつもりが、迂闊だったと気付いてセイイチは慌てて取り繕うが、すでに臍を曲げてしまったKには無意味だった。

「セイイチさんがそうやって気の無い返事するときは、大抵ダメじゃないスか」

「そんなことねぇよ」と言いかけて返答に詰まるセイイチ。
 まだ若く美人だし歌唱力もある。磨けばなにか光るものを見いだせるかもしれないが、それ以上の特別なものをサエに感じなかったセイイチは、彼女の歌声が人々の心に感動を生むような、一流の歌い手に成長していく姿がイメージ出来なかった。歌の上手な美人なら沢山いるが、頭一つ飛び抜けなければプロとしては通用しない。セイイチはそんな漠然とした物足りなさを彼女の歌声に感じながら、無意識のうちにあの歌声を思い出していた。

 丁度そのときステージで歌っていたサエが最後の曲を終えて観客達の間から拍手が起こった。サエがはにかんだ笑顔で観客に向かって頭を下げる。
 セイイチの興味を惹けなかったのが悔しかったのか、項垂れた表情でそれを見守っていたKが徐に立ち上がると「この一年、新しい才能発掘出来てないんですから、そろそろ結果出さないとヤバいっスよ俺達」と捨て台詞のように言って席を離れて、そのまま撤収作業を始めているステージに向かった。

「うるせぇよ。社長みてぇなこと言いやがって」

 Kの言い分を理解しながらも、それを素直に受け入れられないセイイチは、店内の喧騒にかき消されてしまうほどの小さな声でKの背中に向かって悪態を吐いた。

 Kと共に仕事をするようになって三年近くになる。もとは同じレーベルに所属する後輩アーティストだったのだが、セイイチが仲間と共にインディーズレーベルを立ち上げ、移籍の話が進んでいたのと同じ時期に、Kの所属していたバンドが解散してしまったため、Kはセイイチのサポート役として共にレーベルを移籍することになった。以来、スカウトとプロデュースの仕事を共にし、今ではセイイチにとってKは無くてはならない存在になっている。
 己の信念に正直でこだわりが強い割に直情的で気が短いため、他人と行動を共にしたり協調するのがセイイチは苦手だった。業界内では気難しい人物だと噂されているらしいが、今の自分が自由に振舞えるのはKという有望な右腕がいてくれるからこそだとセイイチ自身理解している。しかし最近になってKとの意見の相違が表面化するようになってきており、セイイチはそれが気がかりだった。
 因みにKというのはバンド時代のあだ名で本名は圭一。セイイチと組まされた時、発音が似ていて紛らわしいという理由で、セイイチが社内の名簿や名刺まですべて
”K”に統一させのだった。

 Kが立ち去り際に残したセリフに苛立ちながらセイイチは溶けた氷で薄まってしまったウイスキーの残りを一息に飲み干した。

「天才プロデューサーのお眼鏡にかなう才能は未だ現れずか」

 やけに嬉しそうにニヤつくケンジがカウンター越しにセイイチを見下ろしていた。

「プロデュース業は上手くいってるかねセイイチ君?」
「嫌味な野郎だな。今の聞いてたくせに」
「これでも期待してんだよ。セイイチ君が認めた人はいつもスゴいからさ」
「よくいうぜ」

 セイイチは照れ臭そうに唇の端を歪めると表情を隠すようにケンジから視線を反らした。自然とステージへ目が向き、演奏を終えたバンドの周りにほろ酔いの客が数名集まっているのが視界に入る。撤収作業をしながら和やかに応対するサエの後ろで、Kが慣れた手つきでシールドを捌いていた。
 サエのステージが終わり、それまで静かに演奏を聞いていた客達が談笑をはじめ、料理やドリンクの注文が再開したことで店内が俄かに騒がしくなってきていた。

「店は上手くいってるみたいだな。始めた頃はガラガラだったのに」
「最近は何とかね」
「音楽辞めてバー始めるなんて言い出したときは、どうかしたのかと思ったけどな」
「自分の店を持つのは夢だったし、
 それに俺はセイイチ君やタスクみたいな天才とは違うからさ。
 君達の後にくっついていったら運良くオイシイ思いが出来たってだけだよ」
「この店が持てたのは俺のお陰ってことだな。少しはサービスしろよ」
「そういうのは溜まったツケを払ってから言ってくれるかい」

 ケンジがそう言ってセイイチの前にチェイサーのグラスを差し出す。
 店が忙しくなってくるとセイイチの相手をしていられなくなるため、ケンジが水を出すときはいつも帰れという合図になっていた。「ケンジ君、注文いいかい?」とカウンターについている客の一人が声をかけたのを皮切りに、セイイチの周りがオーダーを待つ客で賑わい始める。

 セイイチとケンジはかつて同じバンドMor:c:waraに所属し、共に夢を追いかけた同志だった。バンドはずっと続いていくものだと誰もが疑わなかったが、TASKの事故をきっかけにバンドは解散。彼らの夢は永久に潰えてしまった。
 バンドが解散した後、セイイチは仲間とともにインディーズレーベルを立ち上げ、プロデュース業を始めたが、他のメンバーも各々音楽の道を別々に歩んでいくものだとセイイチは信じていた。しかしケンジだけはあっさりと音楽から足を洗い、このbar Tom&Colllinsを開業したのだった。
 客として店に顔を出すようになったセイイチだが、もう二度とケンジと一緒に音楽を演やれないのかと考えると一抹の寂しさを覚える。

 店を出ようとカウンターに広げた私物を整理し始めたセイイチが骨董品のデジタルプレイヤーに手を伸ばしたところで「何か飲まれますか?」と女性スタッフの声が聞こえた。伸びのある穏やかな高い声で、少しだけ鼻にかかった感じが愛らしい綺麗な声だった。声に釣られてセイイチが顔を上げるとそこには、思わず目を見張る美人が微笑んでいた。
 肌の色がとても白く艶やかで、後ろにまとめた黒髪と人形のように均整のとれた目鼻立ちが大人の女性らしい美しさを備えている。その一方で健康的な赤みの差す頬や柔らかな輪郭にはどこか幼なさも垣間見えて、黒目の割合が大きい奥二重の瞳にも小動物のような愛らしさを抱かせる。
 そんな少し潤んだように輝く円らな瞳が、覗き込むと吸い込まれてしまいそうな怪しい奥深さも同時に湛えているのが印象的だった。
 カウンター周辺の小さなランプや店内の暖色系の照明が、無数に並べられたグラスやボトルを通してキラキラ輝き、後光のように彼女の姿を浮かび上がらせていたため、セイイチの頭の中には思わず”天使”という単語が思い浮かんだ。

「あの…… 何か飲まれます?」

 無言で見入ってしまっていたセイイチに少し怪訝な面持ちで彼女が同じ質問をする。

「あ、あぁー。じゃあ同じのをもう一杯」

 セイイチがウィスキーを注文すると女性スタッフはその返答にクスリと表情を綻ばせた。

「え、なに? なんか変なこと言ったか?」
「いえ、ごめんなさい。
 ロックンローラーは皆ウィスキーが好きだって、聞いたことがあって、
 本当なんだなって思ったから……」
「誰のセリフ?」
「おじいちゃん。古いロックスターのレコードを集めるのが趣味なんです」

 そう言って彼女は新しく注いだウィスキーのグラスを差し出しながら「ジャックダニエルも」と微笑んだ。
「ファンキーなじいさんだな」とセイイチがそれを受け取って冷たいグラスから一口飲んで笑う。

「エルヴィス・プレスリーの育ったテネシー州には、ジャックダニエルの醸造所があるんです。ロック発祥の地としても有名ですよね」
「よく知ってるな」
「おじいちゃんの受け売りですけどね」
「じゃあ、エルヴィスは酒が飲めなかったってのは知ってるかい?
 今でこそ、ロック=酒、煙草なんてセットみたいに思われてるけど、エルヴィスはそのどっちもやらなかったらしいぜ」
「そうなんですか? 物知りなんですね。
 セイイチさんは両方とも好きそうですけど」

 セイイチは彼女が自分の名を口にしたことに多少の驚きを覚えたが、この店で働いているスタッフならそれも当然かと皮肉めいた笑みを浮かべて内心でひとりごちる。客としてよく顔を出すので、セイイチの存在に気付く客も少なくないのだが、セイイチの纏う独特の雰囲気に遠慮してか、声をかけてくる客はほとんどいない。店員でも慣れるまでは少し時間がかかるため、物怖じせずに接してくれる彼女の態度にセイイチは少なからず好感を覚えた。

「俺のこと知ってんの?」
「当然ですよ! Mor:c;waraを知らない日本人なんて居ませんよ!
 伝説のバンドじゃないですか!」

 彼女が思いのほか熱を入れてそう言うのでセイイチは可笑しくなって
「伝説ね……」と照れ臭そうに笑ってウィスキーを舐めた。

「私、最後のアルバムが一番好きでした。
 バンドの転換期っていうか、Mor:c;waraらしく無いんだけど、新しい可能性を感じてワクワクしたんです」
「そう言って貰えると嬉しいね。あれは自信作だ。
 発表してすぐに解散しちまったけどな」

 そう言ってセイイチは遠い目をしながら、もう一口ウィスキーを飲み込んだ。ちょうど視線の先にMor:c;wara時代の写真が飾られていて、派手な化粧や衣装で飾り立てた自分の姿が写っているのを見て少し恥ずかしくなる。
 ケンジがお客さんが喜ぶからといって、店内のいたるところにMor:c;waraとゆかりのあるアイテムを飾っているのだが、かつてのメンバー達は恥ずかしいからやめろと散々抗議してきた。しかしこれが店に客を呼び込む宣伝にもなっているため今さらやめるわけにもいかないらしい。

「解散からもう二年も経つんですね」
「ああ、つい最近のことみたいによく覚えてるよ」

 セイイチは古びたデジタルプレイヤーを手に取り、ひび割れたディスプレイを覗き込んだ。どこか寂しげな表情を浮かべる自分の顔がうっすらと黒い画面に映り込んでいて、プレイヤーの本来の持ち主だった古い友の面影がそれに重なって見えた。

「そのデジタルプレイヤー懐かしいですね。私も持ってましたよ。
 まだ動くんですか?」
「ああ、すぐに充電が切れるけど音は出るよ」

 彼女が珍しいものでも発見したように目を輝かせると「さっきは何聞いてたんですか?」と屈託ない笑顔でセイイチを見つめる。

「さあな、俺も知らない」
「え?」
「人からもらったものでね。こいつには一曲だけしか入ってないんだ」
「たった一曲だけ?」
「ああ、どこの誰が歌ってるのかも解らない曲さ。
 その一曲だけだ」

 セイイチがプレイヤーの操作パネルを触ってディスプレイのバックライトを点灯させると、画面には”No title ”の文字列が表示された。寂しげな眼差しでなにかを思い出すようにプレイヤーを見つめるセイイチに、彼女は「なんだか不思議な話ですね」と首を傾げる。

「あのCM覚えてます?
 女性がたった一人、何もない場所でアカペラで歌うやつです」
「CM?」
「ええーっと、あの歌手の人なんて名前でしたっけ?」

 何の話をされているのか分からずセイイチが首を傾げていると「内野あかり!」と突然ハッとしたように彼女が声をあげた。その名前を聞いてセイイチはデジタルプレイヤーの古いCMの映像を朧気ながらに思い出し、CMに出演していた内野あかりの高い歌唱力が当時話題になっていたことも思い出した。

「あぁー、そういやそんなCMあったな。彼女はあれで一躍有名になったからな」
「伴奏なしのアカペラであんなに人を感動させられるなんてスゴいですよね。
 私まだ小学生でしたけど、いつかあんなふうに歌える歌手になりたいって憧れました」

 少し照れ臭さそうに語る彼女の様子は、夢を追う若者達と同じで、胸に秘めた熱い思いを言葉にするのが恥ずかしいという態度に似ていた。
 この店にはケンジと親交のあるアーティストや音楽業界の関係者もよく訪れるので、ミュージシャンを目指す若者が何名かスタッフとして働いている。彼女にも彼らと同じように目標があるのだろう思い、セイイチは改めて彼女の話し声の美しさに気を惹かれた。「じゃあ、君もシンガーなのか?」と少し期待する心持ちでセイイチが何気なく訪ねてみる。

「いえっ、私は…… ――歌は苦手なんです」

 それまで快活に受け答えしていた彼女が急に歯切れの悪い返答をするので、その様子を不可解に感じながら「勿体ないな、良い声してると思ったんだけど」とそれとなく水を向けてみる。しかし彼女は困ったようにぎこちない笑顔を作りながら微笑むだけだった。

「試しに歌ってみてくれよ。自分でも気づいてなかった才能が見つかるかも知れないぜ」
「いやっ―― そんな…… 私本当に……」

 ばつが悪そうな苦笑いを浮かべてたじろぐ彼女の様子に違和感を覚えながらも、少し強引だったかとセイイチが内心で反省していると、「いつもそうやって女の子口説いてるんですか?」と背後からKの声が割り込んできた。
 客の注文に奔走していたケンジもいつの間にか合流していて、二人で呆れた様子でセイイチを見やっている。

「大丈夫?変なことされてない? こいついい歳して若い子大好きだからさ」

 ケンジがそう声をかけると、女性スタッフはどこかホッとしたように表情を和らげた。

「おいおい、俺にだって良識くらいあるぞ」
「よくいうぜ。お前のせいで何人スタッフ辞めたと思ってんだよ」
「そんなに手ぇ出してねぇよ!」

 少しムキになってセイイチが否定すると、かえってわざとらしく聞こえてしまったのか、Kが「マジっすかセイイチさん……やりますね」と笑顔ともつかない表情で口の端を引き攣らせた。
 二人の皮肉屋の登場にセイイチが「まったく……っ!」と小さく悪態を吐いてウィスキーを啜る。
 グラスを持ち上げた拍子にセイイチはKの背後にサエが立っていることに気が付き「おい、その子」と彼女を指さした。その瞬間、サエが嬉しそうに目を輝かせて「あのっ――私、Mor:c;wara大好きなんです!」と店中に響き渡る甲高い声を上げながら、目の前のKを押し退ける勢いでセイイチにすり寄ってきた。
 サエのテンションの高さに面食らいながらも、よく通る彼女の声に「なかなかいいもの持ってるな」と感心している自分がいることに気づくセイイチ。つい今しがた突っぱねたばかりなのにと、皮肉めいた笑みが込み上げた。

「セイイチさんに私の歌聞いてもらえたなんて嬉しいです!」

 目をキラキラ輝かせて素直に気持ちを曝け出せるそんな若さをどこか羨ましいと感じながらも、彼女の良く通る声に反応して店内の幾人かがこちらに注目していることに気づいて急にセイイチは気恥しさを感じた。
「あ、ああ。よかったよ」といつもより控えめのトーンで返事をするが「本当ですか!ヤバい!!」と相変わらず大きな声でサエがはしゃぐので、セイイチはただ苦笑いを浮かべながら黙って嵐が過ぎ去るのを待つしかなかった。
 助けを求めるようにケンジを見ると、サエの迫力に圧倒されてたじろぐそんなセイイチの姿を、Kと一緒に面白そうにニヤニヤしながら見ていた。


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