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点描のインスピレーションに導かれて


量子論的世界観への興味と好奇心

一昨年くらいから、量子論的世界観への興味と好奇心の高まりから、学びの場に赴いたり、独自で調べたり、そんな学びをしてみている

知れば知るほど、自分が物質的世界観で認知しているものとは違う、肉体では感知できないレベルで、でも確かに世界を構成している法則の不思議があるんだということに、戸惑いながらワクワクしている

そして同時に、もしかしたら肉体で感知できないのではなく、感知できるはずのセンサーが現代人は鈍っているだけで、本来それらを感知できるものが人間には備わっているのではないか?なんていうことも思ったりしている


古代の民とその叡智と暮らし

さて、そんな量子論的世界観への興味と時を同じくして、やはり興味と好奇心が湧いたものがある。それはオーストラリアの先住民族、アボリジナルのアートだ。なぜか不思議と惹かれた。

縄文人にしても、ネイティヴアメリカンにしても、そしてアボリジナルにしても、古代の民の世界観、各地に伝承される創世神話、そして仏教哲学、それらで語られ、垣間見せるものが、量子論で紐解かれる世界観と重なるような感じが私はしている

アボリジナルのアートの源流は、アボリジナルの祖先たちが、動物や食用植物、水源の位置を示すため、また自然崇拝や精霊信仰における様々なシンボルなどを幾何学的な模様を地面や體に描いていたことに遡る。

現代においてアボリジナルアートは、その手法の1つに点描があるのだが、これは古くからある表現手法だったわけではない。

2024.3.5-13 inオーストラリア
2024.3.5-13 inオーストラリア
2024.3.5-13 inオーストラリア
2024.3.5-13 inオーストラリア

アボリジナルアート

1970年代初頭に、イギリス人の美術教師ジェフリー・バードンが、アボリジナルの男性たちがストーリーを語っているときに、砂にシンボルを描いていることに氣づき、そのストーリーをキャンバスやボードに描くように促した。 これがアボリジナル・アート運動の始まりとなり、やがて世界に広まっていくことになる。

その時に、表現手法としてドット・ペインティング(点描画)が誕生する。これは一説には、アボリジナルたちは自らの神聖で秘められたな知識が無秩序に公に知れ渡ることを避けたいがために、それらを隠すことを意図してこの手法をとったとも言われている。(これは約200年前に入植してきたヨーロッパ人たちに迫害され差別されたという根深い遺恨からくるメンタルモデルが、その背景にあるように感じる)

2024.3.5-13 inオーストラリア
2024.3.5-13 inオーストラリア
2024.3.5-13 inオーストラリア
2024.3.5-13 inオーストラリア
2024.3.5-13 inオーストラリア

点描で描かれる世界とはまるで…

わたし自身は、この点描という手法を、上記とは少し違った感じ方で捉えている。

一つ一つの点が、まるで素粒子であるかのように見え、そしてこの一つ一つが集まることで1枚の絵=なんらかの姿形になっていく様が、まさにこの世界のミクロレベルでの構成を可視化しているかのように感じるのだ。

点描でいろいろ表現してみたい。そんな衝動から自分でipadを使いながらいろいろ描いてみるようになった。

瑞々しくまるで宇宙を泳いでゆくように生きてゆく
まるで遊ぶかのように自らの創造性を解放し生きている
森羅
地球の地肌

点描してみて氣づいたこと

描いてみて大きく2つ氣づいたことがある。

1つは、これは「描くマインドフルネスだ」ということ

没入感がものすごくあるのだ。描き始めると一本の線を描くのにも、「点、点、点、点、点、点、点・・・・」とひたすら打ち込んでいく。

なんとなく描きたい構想のようなものはあるけれど、描きはじめると、その一つ一つの点描作業に没入していき、いつしか頭で考えるのではなく、手の導きのままに進んでゆくかのような感じになる。意識がそこに集中してゆく

もう1つの氣づきは、これは「人生と同じだ」ということ
一つ一つの点は、一つ一つの日常の行為であり思考であり感情。その点1つで絵になるわけではない。でもそれらを重ねていくと、見事な一枚の絵になってゆく。

描く前の想像をはるかにしのぐ、また予想外な、それでいてとっても魅力的な一枚の絵になってゆく。

点である一つ一つの行為や思考や感情の重なりが、その人の唯一無二に人生ストーリーやビジョンになってゆく様に、「人生のプロセス」と「点描で描く」という行為とが重なるのだ。

美術家 伊達伸明さんの詩「とつとつな音」

アボリジナルアートはわたしには描けない

アボリジナルのことを知れば知るほど、わたしには「アボリジナルアート」は描けないと思うようになってくる

アボリジナルたちは200以上の民族に分かれており、その民族の拠点となる地域・文化に根差したストーリーを何世代にもわたって受け継いでいる。アボリジナルアーティストは、家族を通じて語り継がれていないストーリーを描くことはできない

つまり、わたしには「アボリジナルアート」は描けないのだ

でも一方で、わたし自身には、わたし自身の人生というストーリーがある
自分の奥底になる願いの源、これまでの体験を通じて得た知、そしてわたしなりの世界を見る眼差し、見てみたい世界観、体現したいこと、ビジョンetc.

そのストーリーを「点描」という手法を使って描くことで、それは自分自身の中にあるアーティストを解き放ち、自分の人生のストーリーやビジョンを表現し体現することが出来るんじゃないか?

ことばでは表現しきれない、でも確かに自分の内側にあるものに触れる時間。そして人生のプロセスとオーバーラップするような点描という手法でそれを描くこと。

この面白さを、自分自身ももっと味わいたいし、同時にそれをたくさんの人たちとわかちあいたい。そんな風に思うようになってきたのだ

今ある2つのアイデア

今、2つのアイデアがある
1つは自分自身がこの「点描」という方法でいろいろな表現をアートとして試みてみるということ。それはビジョンやストーリーを点描で描くアート。

もう1つは、それをワークショップという形で、そこに訪れる一人ひとりが、自身のビジョンやストーリーを「点描」という方法で表現し、それを互いにわかちあうという”場”をつくってみるということ。「点描」で描いて語る場。

物質的世界観から量子論的世界観へシフトしてみるとそこには様々なパラダイムシフトがある

たとえば物質レベルで見たら存在する境界線も、素粒子レベルで見たら境界はなくスカスカの隙間だらけ。つまり素粒子レベルでは、自他を分けるものがなくゆえに「すべてはわたしであり、わたしはすべて」という”つながりのパラダイム”がそこにはある。

そして、素粒子の1つの形は波=波動であり、その周波数は同じ周波数と共鳴する。

点描という手法がその量子論的世界観の可視化であるなら、その手法でビジョンやライフストーリーを描いて語ることでそこにつながりが生まれ、そこにいる一人ひとりの可能性がひらかれてゆくような感覚によりなってゆくのではないか?そんな妄想が自分の中で広がり始めている

この2つのアイデアを今年は少しずつ形にしてみようと思う。
ぜひぜひこのアイデアを面白いと感じてくれる人たちと協働しながらやっていきたい。

森の中、海の側、世界各地で、また日常の様々な場所で、いい感じのCafeで、はたまたそれをするのに最適化されたアトリエのような空間で、いろんな場所で、楽しみながら、ゆるりとした時間の中で、ゆっくりと深く。

追伸:草間彌生さんや、チームラボにも惹かれている

量子論そして点描に惹かれ始めてから、あらためてそれに呼応するかのように惹かれているアートがある。

1つは草間彌生さんのアート

岡本太郎さん(縄文をアートとして捉える視点は岡本太郎さんあってのことだと思う)と並び、草間さんの世界観もまた古代の民が持っていたであろう世界を量子論的に感知する力を持っているのではないかと思ったりもする

そして、その草間彌生さんのアートの代名詞の一つが、ドットつまり点描

アボリジナルアートにもっと触れたいと思い、先日オーストラリアを旅してきた。その際、なんと草間彌生さんの作品に、シドニーのサウスウェールズ州立美術館で出会うことに!!

そしてもう1つはチームラボの、チームラボボーダレス(麻布台)

現代で駆使できるテクノロジーの最先端で量子論的世界観を表現するとしたら、こんな感じじゃないか?と思わせるこの空間の没入感はものすごかった。

ちなみにこれは個人的な感想ではあるが、この麻布台ヒルズのチームラボボーダレスの中の世界観は、草間彌生さんのアートにインスパイアされたものがたくさんあるんじゃないかと思うくらいシンクロ感を感じた。

参考

アボリジナル、ならびにアボリジナルアートに対しての言及は、こちらのサイトを参考にしています。


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