virtus.koike

✴️指 導 者✴️こども達の最大限の成長に寄与する。サッカー屋⚽️ビジョントレーナー👁目の学…

virtus.koike

✴️指 導 者✴️こども達の最大限の成長に寄与する。サッカー屋⚽️ビジョントレーナー👁目の学校👀療育☘️Laelaps🐺論語指導士📗子ども食堂🍛フードパントリー🥕アウトリーチ🎁etc

マガジン

  • 『論語とサッカー』

    指導者は、専門的能力と基礎的能力の両方を選手以上に高め続けることで、子ども達に前に指導する者として立つことができます。 ここではサッカーを通した人間形成と指導者自身の自己形成のための基礎的能力の拠り所を論語とし、「目指すべきサッカー指導者像」や「目指すべきサッカープレーヤー像」を記していきます。

最近の記事

躬自ら厚くして、薄く人を責むれば、則ち怨に遠ざかる

子曰く、躬(み)自(みずか)ら厚くして、薄く人を責むれば、則ち怨(うらみ)に遠ざかる。 子曰、躬自厚、而薄責於人、則遠怨矣。 (衛霊公第十五) 自分の責任を問うことには厳しくし、他者のそれは穏やかにすれば、人から怨まれることがなくなるであろう。 政治家たるもの 自己の責任を厚くする・厳しくするけれど、周囲の責任は強く求めない。 孔子の下に学びにくる人はほとんどが政治に関わることを希望した人です。 そういった者が、責任を人に押し付けたりするようであってはならないということ

    • 人にして遠き慮り無ければ、必ず近き憂い有り

      子曰く、人にして遠き慮(おもんばか)り無ければ、必ず近き憂(うれ)い有り 子曰、人而無遠慮、必有近憂 (衛霊公第十五) 孔子先生が言いました。遠い先まで見通して対策を考えておく必要がある。 そうでないとすぐに不安になったり、結果を憂いたりしてします。 どんな時にも先は見据えた上で歩み続けたい。 「遠慮」の語源 この言葉は、「遠慮」の語源とも言われています。 遠い先のことまでを考えるということは、すぐには行動に移らないということであり、そこから態度を控えめにするということ

      • 憤せずんば啓かず、悱せざれば発さず

        子曰く、憤せずんば啓(ひら)かず。悱(ひ)せざれば発(おこ)さず。 一隅を挙げて、三隅を以て反せずんば、則ち復(ふたた)びせず。 子曰、不憤不啓、不非不発、挙一偶不以三隅反、則不復也、 (述而第七) 孔子先生が言いました。心に求めるものがあってもまだそれがはっきりしない時は、それをこうだと示してやらない。 求めるものがわかっても表現できない時は、それをこうだと引き起こしてやらない。 一部を示してやって、それで全体を掴もうとしない時は、それを二度と教えることをしない。 発奮

        • 己の欲せざる所は人に施すこと勿れ

          子貢問いて曰く、一言(いちげん)にして以(もっ)て終身これを行うべき者有りや、と。子曰く、それ恕か。己の欲せざる所は人に施すこと勿れ 子貢問曰、有一言而可以終身行之者乎。子曰、其恕乎。己所不欲、勿施於人 (衛霊公第十五) 子貢が孔子に質問しました。「人生を通していくべき徳目は何でしょうか」孔子が答えられた。「それは恕(=思いやり)だ。自分がしてもらいたくないことは、人にもしないことだ。」 自分に厳しく 人に強く要求することは勝利するためには必要なことですが、人に求めると

        躬自ら厚くして、薄く人を責むれば、則ち怨に遠ざかる

        マガジン

        • 『論語とサッカー』
          17本

        記事

          性相近し、習い相遠し

          子曰く、性相近し。習い相遠し。子曰く、唯上知と下愚とは移らず。 子曰、性相近也。習相遠也。子曰、唯上知興下愚、不移。 (陽貨第十七) 孔子先生が言いました。先天的には差はない。後天的に差が生まれてくるのだ。生まれた時ではなく、学びや習慣によって、人は差ができる。どのようにしてもその差は埋められない。 上積みの習慣 練習試合などで3本目,4本目で徐々に本来のプレーを取り戻すようなシーンが見られます。 個人で当然に持っているべきプレーモデルや、テクニックを生かすための判断の

          性相近し、習い相遠し

          義を見て為さざるは、勇無きなり

          子曰く、其の鬼(き)に非(あら)ずして之を祭るは、諂(へつらう)うなり。義を見て為さざるは、勇無きなり。 子曰、非其鬼之而祭之、諂也。見義不為、無勇也 (為政第二) 世の中には正しいことと不義がある。例えば自分達の祖先ではない他者の霊を祭るのは、他者に取り入ろうとする不義である。逆に正しいとわかっていながら、実行しないのは勇気がないからである。 利己主義 孔子が生きた時代の祭りは天神・地祇・人鬼の三つでした。人鬼とは祖先の霊を指します。祖先の祭りは身内が行うもので、他の

          義を見て為さざるは、勇無きなり

          君子は諸を己に求め、小人は諸を人に求む

          子曰く、君子は諸を己に求め、小人は諸を人に求む 子曰、君子求諸己、小人求諸人 (衛霊公第十五) 優れた教養人は、責任を自分に求めるか、知識人は責任を他者に求める。 自責思考 小人とは一般の民ではなく、為政者を目指す知識を得ている者を指し、その中にあって君子は、知識のみならず十分な徳性を兼ね備えた者を指すこととなります。 為政者を目指す人達の中でも自責思考と他責思考、そして無関心な人で分かれたのかもしれません。 試合の結果や失点の原因、試合をうまく進めることができない時

          君子は諸を己に求め、小人は諸を人に求む

          君子は言に訥にして、行ないに敏ならんと欲す

          子曰く、君子は言(げん)に訥(とつ)にして、行(おこな)いに敏(びん)ならんと欲す 子曰、君子欲訥於言、而敏於行 (里仁第四) 優れた人は口下手であっても、行動はすぐに実践したいと願う。 訥言敏行 「訥言敏行」(とつげんびんこう)という四字熟語の元になっている章句です。 ”訥”はさわやからに滑らかに話すのではなく、訥々としているということで、口下手を表しています。それを悪く評しているのではなく、誠実さがあることを指しています。 孔子の教えは実践の哲学であり、言行一致の哲

          君子は言に訥にして、行ないに敏ならんと欲す

          歳寒くして然る後に松柏の彫むに後ることを知る

          子曰く、歳寒くして、然(しか)る後に松柏(しょうはく)の彫(しぼ)むに後(おく)ることを知る 子曰、歳寒、然後知松柏之後彫也 (子罕第九) 寒くて厳しい冬の時には、より枯れない松やヒノキなどの強い木々を見分けることができる。 苦境こそ本性 この論語のことばでは、調子が良いときや物事が順調に進んでいるときは、誰でもうまくできるもので、苦境に立たされたときこそ、その人の実力が問われることを述べています。 ビジョントレーナー 私はサッカー指導者としての顔の他に、ビジョント

          歳寒くして然る後に松柏の彫むに後ることを知る

          今女は画れり

          冉求曰わく、子の道を説ばざるに非ず、力足らざればなり、と。子曰く、力足らざる者は中道にして廃す。今女は画れり。 冉求日、非不説子之道。力不足也。子曰、力不足者、中道而廃 (雍也第六) 冉求が「先生の考えに不満で実行しないということではありません。私が力不足なのです」と言ったところ、孔子先生は「力不足の者は、途中でやめてしまう。今お前は自分の力は足りないと限定してしまっているじゃないか」と答えました。 孔門十哲 論語には、孔子と弟子の対話のやりとりが多く記されています。

          今女は画れり

          之を如何せん、之を如何せんと曰わざる者は、吾之を如何ともする末きのみ

          子曰く、之を如何せん、之を如何せんと曰わざる者は、吾之を如何ともする未(な)きのみ 子曰、不曰如之何如之何者、吾未如之何也已矣 (衛霊公第十五) これではいけない、このままではいけないと思い、どうしたら良くなるか、改善できるのかを考えない者を、私は導いてやることはできない。 選手としての心構え 心が変われば…の話がありました。 心が変われば、態度が変わる。 態度が変われば、行動が変わる。 行動が変われば、習慣が変わる。 今の自らを変えなくてはだめだと思い、自らもがく

          之を如何せん、之を如何せんと曰わざる者は、吾之を如何ともする末きのみ

          之を知る者は之れを好む者に如かず、之を好む者は之れを楽しむ者に如かず

          子曰く、之を知る者は之れを好む者に如かず、之を好む者は之れを楽しむ者に如かず 子曰、知之者不如好之者、好之者不如楽之者 (雍也第六) 理解している人には知識があるが、好きな人には敵わない。 また好きな人は、楽しんでいる人には敵わない。 スポーツの語源 スポーツの語源は「disport」、ラテン語での「deportare」(デポルターレ)というが変化して「sport」となったとあります。 デポルターレとは「運び去る」といった意味で、精神的に「気分を転換する」「日常から離れ

          之を知る者は之れを好む者に如かず、之を好む者は之れを楽しむ者に如かず

          學びて思はざれば則ち罔し、思ひて學ばざれば則ち殆し

          學びて思はざれば則ち罔(くら)し 思ひて學ばざれば則ち殆(あやう)し 子曰、学而不思則罔、思而不学則殆 (為政第二) 教わるばかりで自分で考えないと知識や情報をたくさん得ても力はつかない。逆に自分で思考するばかりで、人に学ばず知識や情報がくても、考えが偏ってしまう。 習い過ぎていないか 日々子ども達を指導をしている中で、習い過ぎる選手になっていないか心配になる面があります。 学校に行った→勉強をした=成長 グラウンドに行った→練習をした=成長 ではありません。 知識を

          學びて思はざれば則ち罔し、思ひて學ばざれば則ち殆し

          君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず

          子曰く、君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず 子曰、君子和而不同、小人同而不和 (子路第十三) 優れた教養人は、人と協調するが、むやみな同調はしない。 知識人は、安易に同調するが、うまく協調することができない。 君子と小人 「君子」と「小人」という言葉は、論語の中で何度も出てきます。 よく君子は優れた人、小人はつまらない人や物足りない人などの訳があります。 孔子は弟子を含めた多くの為政者や人々に対して、政事や考え方について教えたり、議論したりしています。 その中に全く

          君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず

          人の生くるや直し

          子曰く、之れをしいて生くるや、幸いにして免がるるなり 子曰、人之生也直、罔之生也幸而免 (雍也第六) 人は本来、この世に生かされているのは、真っ正直に生きているからである。もし曲がって生きていられる人がいたとしたら、それは偶然に災難を免れているだけである。 素直という武器 素直という言葉は、ありのままで、飾り気のないさま、性質・態度などが、穏やかでひねくれていないさまを指します。 パナソニックグループ創業者で実業家の松下幸之助氏も、著書の中で素直な心を下記の様に記して

          人の生くるや直し

          過ちて改めざる、是を過ちと謂う

          子曰く、過ちて改めざる、是を過ちと謂う 子曰、過而不改、是謂過矣 (衛霊公第十五) 孔子がおっしゃいました。人は誰でも過ちをおかす。過ちをなおそうとしないことこそが、本当の過ちです。 サッカーはミスがつきもの サッカーのみならず、スポーツはミスが付きもの。 しかしながら、それが大きく勝敗に関わることになるために、トレーニングからそのミスを犯さない技術や戦術的な再現性を高めていく訳です。 フットボールはミスのゲームだ。 誰であれ最もミスの少ない者が勝利する。 ―ヨハン・

          過ちて改めざる、是を過ちと謂う