『最期に報告書を一つ』

真の創造性はしばしば、言葉が終わるところから始まる。

アーサー・ケストラー

 九州地方はカナリーヤシを県木とする日本の中の南国、宮崎県。日照時間が長く、空からの旅行客を待ち構える宮崎ブーゲンビリア空港は(何だブーゲンビリアって)、夕刻になろうというのにまだまだ明るい。視界と体感とで時差を起こしている気分だ。

 お土産は帰りでいいか、と足早にターミナルビルを後にし、隣接した宮崎空港駅から特急に乗り込む。仕事の下調べには余念のないタイプであるから、特急かローカル線のどちらかしか選択肢がないのは分かっていた。この地で『つばめ』は飛ばないし『こだま』も聞こえない。

 走り出した電車に揺られながら、夕飯代わりのランチパックを頬張る。節約節制、ホテルは予約しても飯は抜いてもらう。そういうコツコツとした積み重ねが、後にやってくるスマホゲームのガチャフェスだとかで猛威を振るう。走ってもなかなか取れない余分な脂肪の元か、サービス終了まで画面越しに微笑んでくれるキャラクター達か。選ぶまでもなく後者だ。

 ツナマヨネーズが一番安定してるよな、と独り言つ。がらんと静まり返った車内には私一人、独り言の誰気にするものぞ。ようやっと地平線に還ろうとする太陽の赤い光に照らされつつ、私はリュックサックから書類を取り出し、上から目を通す。

 火揺村ひゆるむら。宮崎県は北部に位置する、総人口千三百人程の小さな村は山地故に天候が変化しやすく、その名に反して夏は涼しく、冬は寒すぎる。寒波でせっかくの焚き火が揺れ消える、また方言の『冷ゆる冷える』から火揺村と名付けられたとか。

 最も近い日向市駅で降り、一晩ホテルに泊まって次の日レンタカーで向かう。いよいよ電車は通っていないときたし、近いと言っても片道二時間の曲がりくねった山道を往かねばならない。仕事でもなければ一生訪れることのなかったであろう山村は今、とある問題を抱えている。だから私が出向いたのだ。


 国民の血税だぜ、喜べよ、と所長は事務所の椅子にふんぞり返っていた。

「いくら?」
「よくぞ聞いてくれました!」

 そう言って勢いよく立ち上がろうとしたのだろう、ところが背もたれにどっぷり体重を預けた状態で急に立ち上がろうとするものだから、椅子ごと後方にひっくり返ってカーペットに頭をぶつけた。アホ、と罵った後、彼が嬉しそうに覗き込んでいた見積書を拾い上げる。確かに良い額だ。

「村の役場でも金は持ってるんだね」
「事が事だから、ってのもあるんじゃねぇの。少子高齢化のモデルケースみたいな土地だし、老い先短い命ほど大事にしたいものさ」
「まだ命に関わると判明したわけじゃない」
「ただ生きることを『命』とは呼ばねぇよ?古場こばちゃん」

 所長はカーペットに寝転がったまま言う。事務所自体はおんぼろビルの一部屋をそのまま使ってるクセにカーペットだけ最近新調したものだから、よほど寝心地が良いと見える。

「意識を保って、歩いて喋って食って手前でケツ拭いて、人間らしく生きるのが『命』だ。だから皆ボケや認知症が怖いんだ。自分が自分でいられなくなるから。それは死と同義だ」
「自意識を持たない生物は命じゃないって?犬や猫はどうなの」

 所長はううむと首を傾げ、

「古場ちゃんさ、人間以外の生物が本当に生きているように見える?俺には、なんて言えばいいのか、そういうシステムにしか見えないんだよなぁ。例えるなら、肉で出来たロボットみたいな」


 怪奇現象、心霊現象、超常現象。呼び方は人それぞれだ。一絡げに『異常現象』と呼んでもいい、私が書類をまとめる際は実際、異常現象で統一している。

 幽霊が出たとか呪われた場所だとか、根も葉もない噂話から実際に起きた出来事まで。首謀者が人間であろうとなかろうと、きれいさっぱり解決するのが私の勤める『事務所』の仕事だ。これが意外にもちゃんとした機関で、今回のようにお役所から依頼が飛び込んでくることもままある。

 ただし『事務所』に名前はない。仕事は書面に残すが私達は存在しない人物ゴーストプロトコルとして活動する。例えば私の名前は古場だが、これは仕事でのみ使用する偽名だ。書面上は性別も偽って男、幸い短髪で声も低めなのでぱっと見は騙せる。役職も何もかもでたらめだ。これは異常現象を公にしないための措置である。公にされて困るパターン……実はお偉いさんの指示で何人も消していたのが怪異として語り継がれていたとか、そういう人為的な出来事の情報漏洩を防ぐためだ。その元凶を護るために、と皮肉の一つも添えておこう。

 後は本物の、正真正銘の奇々怪々な『何か』を知られないようにするため。Need to knowの原則だ。衝撃が過ぎる事実は一般人の目に触れてはいけない、パニックを引き起こす。

 如何なる異常現象にも臨機応変に対応すべく、私の所属する『事務所』は誕生した。所属人数は私も知らない、ただ所長とだけやり取りをする。扱う事件に漏れずなかなかの奇人だが、それはお互い様だ。

 早朝6時にホテルを出て、目的地の火揺村に着いたのが午前8時過ぎ。役場前の駐車場にワゴンをつけ、玄関で待ち構えていたツナギ姿の男性に歩み寄る。

 お疲れ様です、と形式的な挨拶の後、名刺を交換する。

飯野いいのと申します。火揺村役場事務、普段は診療所の方に出向しております」
「古場です。診療所というと、例の写真はやはり」

 飯野と名乗った男性は頷き、診療所へ案内しますと言って歩き出した。徒歩五分で着く場所に建っているそうだ。

 私はリュックサックを深くかけ直し、彼に続く。

「正直に申し上げますと、未だに夢を見ているような感覚なのです。ああいうのは、映画なんかで似たような生物を山ほど見たはずなのに、その」
「事実は時たま妄想を軽々と飛び越えますからね、混乱するのも無理はない」
「古場さんは見慣れてるんですか、そういうの」
「しょっちゅうです。飽きない仕事ですよ、毎日が未知に満ち過ぎている」

 車で上ってきた急な坂を戻り、役場へ向かう分かれ道のもう一方が診療所に通じている。規模はそれなり、設備は十分。そりゃあそうだ、いつ何時ポックリ逝くか分からないご老人だらけなのだから。

 裏口から施設内に入り、薄暗い通りを往く。看護師などのひと気が感じられない通路に一筋の光が見え、それが扉から漏れ出た灯りだと分かる。飯野はそっとドアノブに手をかけ、

「では、お願いします」


 私の眼前に飛び込んできたそれは、巨人と呼ぶに相応しい肉体を露わにしている。人間らしい艶めかしさを孕む青い血管はしかし、自己主張が過ぎるのか、全身至る所に浮き出ている。体全体がばくん、ばくんと激しく脈打つ様は最早痙攣と呼んで差し支えない。

 その異様な体に円盤状で平べったい黄緑色の頭を生やし、しかしその顔はわたしを見ていない。目と思しき窪みは天井を見据え、ベッドに縛られたままじっとしている。

「三メートルと二十センチ」

 ベッドからはみ出た筋骨隆々の脚を眺めつつ、飯野は呟く。

「人間に近いシルエットですが言葉は発さず、村民が発見した際には何もせずただ突っ立っていたそうです」
「……あなた方は、これが村民の相次ぐ失踪に関係していると」

 火揺村が抱える問題は二つ。一つは山中でこの人外を発見した事。そしてもう一つが、村人が次々に姿を消している事。

「今月は既に三人、先月は五人行方不明になっています。そこへこの化け物の登場、看護師はこいつの腹を裂いてみろとぼやいてますよ。食われたんじゃないかって」

 そういうイメージも湧いてくるだろうが、よくよく観察してみるとこの怪物、顔が平べったいにしてもやり過ぎなくらいペラペラだ。文字通り間延びした顔は一応口らしき穴を見つけるが、それも目の窪みと大差ないくらい小さい。これで人間を捕食するのは難儀に思える。

 巨体にしても何か妙だ。初見はその大きさに圧倒されたが、いっそう激しさを増す血流の躍動はある種の病状とも取れないか。みすみす捕縛されたのはどうして。

 脳内に『何故』と『どうして』があふれ出す。恐怖を感じる前に疑問が立ちはだかり、まぁビビるくらいならちょっと考えていこうと思考をフルスロットルにする。こうしている時だけ、仄かに探偵気分を味わえる。

 まずは推論を打ち立て、次にそれを自ら否定する。目に映る情報を余すことなく当てはめ、これは違う、あれも違うと推理を破棄していく。情報が尽きたら次は思いつく限りの『可能性』を当てはめていく。まずは定番どころから。

「同じような生物は見つかっていますか」
「今のところはまだ」
「発見した地域の近辺で住民が避難、いえ身を隠せそうな場所を当たって下さい。八人で隠れるには広すぎるくらいの所がいいな。あと行方不明者と関わりがある村民の家の中も調べて。抵抗したら無理やりにでも押し入って下さい」
「家の中?被害者が避難しているならとっくに名乗り出ているでしょうし、同じような化け物が人の目を盗んで隠れ潜んでいる可能性は流石にないのでは」
「隠れずに潜んでいるかも」

 はぁ、と首を傾げる飯野に、私は勝手に怪物を見分しているからさっさと手配するよう告げる。納得いかない様子ではあったが、しぶしぶ彼は部屋を出た。

 しばらく怪物との沈黙を堪能した後、私はその平たい顔を見やる。

「喋れるでしょ、あなた」

 ハッタリだ。ただ物事とは当てずっぽうで前に進むこともある、下手な鉄砲はどれだけ撃ってもいいのだ。

 実際、このカマかけは功を奏したと言える。怪物はそのおちょぼ口をもそもそと動かす。まだ言葉を発そうとはしないが、意思の疎通を試みようとしているのは分かる。

「まずはあなたのこと、うん、何て呼べばいいのか教えてもらえる?あの職員は腹を裂くとかどうとか言ってたけど、そんなことさせないから。それと村人が失踪している件についても、心当たりがあったら教えてほしいなって」

 怪物の目に該当する落ち窪んだ穴がずずっと顔の表面を移動し、私の方へと近づく。僅かに動いていた口はふと動きを止め、

「いずれすべてがわかる、おじょうさん」

 明瞭な声でそう呟き、目と口の穴を全て閉じた。眠りについたか、マイペースなことだ。

 いずれ全てが分かる。こうしてわざわざ調べるまでもない、という意味か。『お嬢さん』なんて言葉を使えるなら可能性もおおよそ絞り込める。日本語を流暢に扱うにはどうすればいい?地球外生命体なら人間に寄生する?脳みそを盗み見る?私の見立てはもうちょっと簡単で現実的だ。

 ただこれはほとんど決め打ちに近い、真っ先に思い浮かんだ仮説の下に動いているから、間違っていたら最初から考え直しだ。トライアンドエラー、弛まぬ試行錯誤がこの仕事の秘訣と言えよう。


「もう一匹です」

 飯野さんは顔をしかめる。トラウマにならないかと心配になるくらい酷い表情をしている。

 行方不明になった住民の一人、笠木かさぎさん。年齢は二十二、婚約者の志島しじまさんと同棲していたが突如として行方知れずになった。少なくとも役場は、そう報告を受けていた。

 独りぼっちになったはずの志島さんが暮らす古びた家屋の一部屋で、飯野さんは新たな怪物を見つけた。今度もかろうじて人間のシルエットを留めているが、その全身はワイヤーのようなものが編み込まれることで形成され、ずいぶん前に流行った毛糸人形を思わせる。ただし頭がまるっと消え、代わりに一本の線が伸びている。これを頭部と呼んでいいものか。

 私の指示通り、行方不明者と何かしら関係の合ったお宅を一軒一軒虱潰しに訪ねていた飯野さんは、頑なに家に招き入れようとしない志島さんに不信感を抱いた。そうして強行突破を試みた結果、第二の怪物発見に至ったというわけだ。

「どうして匿うような真似を」

 この怪物もまた、布団に寝転んだままじっとしている。その傍らで志島さんは俯いたまま、

「笠木さん、なんです」

 じっと怪物を見据える志島さんに、飯野さんも感づいたのか、いやいやと首を振る。

「この部屋、あの人の私室なんです。朝、仕事に出かける時間になっても出てこないからどうしたんだろうって中を覗いたら、既にこの……姿で。こんなこと人に言っても信じてもらえないだろうし、かと言って出勤しないのも怪しまれるから、行方不明として届け出ました」
「笠木さんだと確信する理由は」

 私の問いかけに、彼女は潤んだ瞳で微笑む。

「愛する人を、見間違うわけがない」

 非論理的、と一蹴するにはまだ早い。先程から志島さんの視線がたまに怪物の左手に向けられていることに気づいた私は、細い線を束ねた五指の薬指に、きらりと光る指輪を見止める。婚約指輪か。

 わざわざ婚約指輪を奪ってご丁寧に薬指につけて、ぐうぐうと眠りこける怪物もいまい。寝取り嗜好の化け物と考えるよりは、笠木さんが何らかの原因でこうなったと見る方が自然だ。

 これが最初に思いついた可能性。人間が失踪して怪物が出現する、そういうパターンのお決まりは怪物が人間を始末しているか、あるいは人間が怪物になるか、この二つが王道だ。今回は後者と見て良いだろう。そして怪物になる瞬間を目撃した、または怪物の正体に気づいた身内が匿うかもしれないと考え、飯野さんに調査を依頼したのだ。

 いずれすべてがわかる。あの怪物もおそらくは、村人の誰かだ。これなら日本語に堪能なのも頷ける。

「あくまで仮説ですが、他の行方不明者も皆同様に変容し、自意識があってどこかに隠れているか、身内に匿われている可能性が高いです。化け物の現出、というよりは一種の流行り病と捉えた方がいいでしょう。立て続けに犠牲者が出ている。笠木さんも含め、大きな医療機関に診てもらうべきかと」

 飯野さんは茫然と立ち尽くしたまま、ああ、ええ、と気の抜けた返事をする。病気かもしれないと、理解しやすい形で落とし込んだのだがまだ思考が追いついていないようだ。

 怪物達は暴れまわるでもなく、ただぼうっとしている。笠木さんもずっとこのまま動かないらしい、診察もスムーズに進むだろう。

 ひとまずは医療機関の見解待ちになるが、それにしても急にこのような現象が起きたのは何故だろう。失踪者、もとい犠牲者の住む地域もまちまちで法則性があるようには思えない。そも、流行り病とは言ったが私自身どこか納得していない節がある。

 この変態に意味はあるのか。何のためにこうなった。どうして。

 いずれ全てが分かる。あの言葉が指し示す『いずれ』とは今ではなく、まだ先のことなのかもしれない。


 一旦火揺村を後にした私は、事務所に戻って報告書を提出する。所長はなんともはや呑気な様子で、

「オッケー。じゃ診察待ちってことで、この件はここまで!」
「え、これで終わりですか」

 うん、と所長は軽く頷く。今回の報告書提出は途中経過を共有するためであって、これで依頼完了なんて今までにない異例の事態だ。

「何か隠してます?」
「隠し事なら山ほどある。俺達の仕事っていつでもそうでしょ」
「まだ何も解決していません。怪物になった理由、原因、それらを徹底究明し、対策を練って実行に移すまでが私達の仕事です。こんな視察なら誰にだって出来る」
「いやいやいや、流石に怪物なんて見たら普通の人は卒倒するよ?古場ちゃん、さては自分がすごい仕事してるって自覚が無いな?もっと自信持ちなさいよ」

 茶化すな、と声を荒げる。彼のデスクに両手を叩きつけ、この男が隠しているであろう真実に迫る……とその時、たまたま手に触れたレポートを見つめる。私が書いたものではない、別の職員が記した報告書の数々。

 北海道のとある集落で怪物が出現、この事件にあたった職員もやはり同様の結論に至り、報告をまとめたのだろう。それだけじゃない、日本全国各地で同じような事象が相次いで起こり、その規模はささやかに膨れ上がっている。

 あっちゃあ、と所長は見られたくないものを見られてしまったとばかりに声を上げる。報告書に見入っていた私からそっとそれらを取り上げ、座ったままうんと背伸びをする。

「古場ちゃん真面目だし、『事務所』の職員の中じゃ一番の古株だし、別に教えてもいいかもね」
「Need to knowの原則は」
「知る権利はあると思うよ、それだけの働きをしてくれた。ちょっと残酷な真実だけどどうする?個人的には今すぐ回れ右して帰った方がいいとは思うんだけど。この俺がしんどく感じるくらいなんだから」

 私は熟考する。喉の奥に刺さった小骨みたいに貼りついて取れない言葉。『いずれすべてがわかる、おじょうさん』。この仕事で培ってきた直感が告げている、今が『いずれ』だと。

「教えてください。今回の事件の真相を」

 所長は目を閉じ、分かったよ、と哀しげに呟いた。


 進化論とは、誤解されがちであるが、環境の変化に対し生物が生き延びるべく変態することではない。進化とは、変異とは、突如として気まぐれに起こる。そうして獲得した形質が強みになるか弱みになるかは環境が決めることだ。体に熱が籠りやすい性質は寒気奮う地域ではまたとない長所だが、灼熱の地ではむしろ命を脅かす。突然変異と環境が合致して初めて、その進化は後世に継がれる権利を得る。

 有史以来、人間ほどその生態系を一つの形に留めてきた生物はいない。進化とは否応なく、いつ起きてもおかしくない当たり前のことなのに、人間にはしばらくその機会がなかった。猿が直立二足歩行を始めたのがざっと六百万年前、西暦二千年代になっても相変わらず私達は両足で大地に立っている。

 そろそろやめようか、と遺伝子辺りがそそのかしたのかもしれない。

 増えすぎた人類が環境を荒らす的な理由で「一旦リセットしようか」なんて神様が宣言したのかもしれない。不変に耐えられなくなった人間の身体が変化を望んだのか、はたまたそれもやっぱり気まぐれなのか。

 怪物の発生原因は、人の進化だ。

 怪物になると知能並びに自我が失われ、代わりに身体が異常発達する。筋肉が隆起し、血管が鉄のワイヤーのような硬度を獲得する。今まで実行されるはずだった様々な進化の『可能性』を、人の身体は試し始めた。そこに宿った心などお構いなしに。

 真っ先に自意識を奪うのは、人間が二足歩行によって頭部を支え、脳がより重く複雑になることが出来たその進化の逆行と見るべきだろうか。傍から見れば退化だが、長い長い歴史に照らし合わせればどちらも同じことだ。

 つまり病気じゃない。治せない。人類は『停滞』に特化していても、一度変わってしまえばもう元には戻れない。知ってしまった事実を頭から締め出すことが出来ないように。

 そうして進化しようと決めた人類は、次々に怪物へと変わっていく。それは『新人類』と呼ぶべきもので、要は化け物でもない。私の推理で当たっていたのは人間がそれに変わる、その一点のみだ。探偵気分は味わえても名探偵にはなれないらしい。

 何故今このタイミングで起きたのかはDNAにでも訊いてみないと分からない。現状被害の規模はどれくらいなのか、私達に調べられたのは精々そこまでだった。

「お疲れ様です」

 真実を知って半年、私は変わらず『事務所』に勤めていた。今日も元気に出勤だ、と顔を出してみたものの、所長の姿が見当たらない。代わりにデスクの上にメモ書きが一枚。

『俺はもうすぐ俺じゃなくなる。仕事の邪魔になると悪いんで先に上がります。後はよろしく、古場所長』

 いつも彼が踏ん反りかえっていた椅子は事もなげに主の腰を待ち続ける。勝手な人だな、と愚痴ったついでにデスクを軽く蹴飛ばし、椅子にもどかんと座ってやった。これで私が一番偉いんだ。全くもって嬉しくない。

 他の職員はどうしているだろう。処理が滞っている報告書もさしたる量ではない。昔は山積みにあって、それを所長と徹夜で捌いた思い出が蘇る。忙しいしわけ分かんない事件ばかりだったけど、楽しかったな。

 どこにいても、すっかりひと気を感じなくなってしまった。人類の半数は今や怪物で、おまけに全く手がかからないと来ている。何かの邪魔をするでもなし、食事をするでもなし、ただそこに在るだけ。人口が減れば電力等々の問題も解決する。仕事は見つかるが人手不足というわけでもない。結果的にはありがたいこと尽くめだ。

 ただ、進化は未だ止まる気配を見せない。そう遠くない未来、全ての人類が新人類に変貌するだろう。私も私ではなくなる、それはある種の世界崩壊ではないだろうか。実際、世界中のそこかしこでパニックは起きている。でもすぐに沈静化する、誰も彼も新人類に変わってしまうから。

 核戦争のような派手さはなく、『アルマゲドン』のような危機感もなく。

 ゆるゆると、小川が流れるみたいに全部終わる。

 私もいずれ終わるのだろう。頭が平たくなったり細くなったりして、自意識を喪失して一日中ごろごろするだけの何かに変わるのだろう。自分が自分でいられなくなるのは死と同義、『元』所長の言った通りだ。その前に報告書を一つ、まとめておこうと思う。

 人類の進化の予兆たる火揺村での出来事から始まり、私の最期まで。これが後の世に残れば、稀有な資料として永劫受け継がれるはず。すごいことだ。

 もっとも、読める『人』がいればの話だけど。

《了》


(作:オスコール_20220916)

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