見出し画像

ただただもう一度会いたくて

覚えている限り、あなたに会えたのは二度だけ。
あなたに会いたくてこうして朝の4時から起きているのに。

いや、間違えた。

覚えている限り、あなたを聴いたのは二度だけ。
あなたを聴きたくてこうして朝の…

ヒグラシだ。
カナカナカナ…と鳴くあのセミだ。
シャアシャア、ミーンミーンとやかましい他のセミたちと違ってその声はどこか物憂げで美しい。
セミの中で唯一心を許せる声だ。

今夏、そのヒグラシの声を立て続けに2回聴いた。
神戸に戻って7年、これまで一度も聴いたことがなかったのに。
静寂の中にカナカナカナ…と響いたのは、まだ夜が明け切らぬ早朝だった。

愛媛の山奥に暮らした20年では、夕方になるとあちこちの山々から、カナカナカナ…とよく透きとおる声が響きわたった。
昼間に大合唱した他のセミが鳴き疲れ、山が静かになりはじめた頃。
その美しい声に目を静かに閉じ、暮れゆく山の少し赤らんだ空気をゆっくりと吸い込んだものだ。

それがどうだ。
神戸に越してきてからというもの、ヒグラシは文字どおり鳴りを潜めた。
夕方になってもうんともすんともいわない。
いや、うんでもすんでもなく、カナカナカナと鳴いてほしいのだけど。

清流深山の地にしか棲息しないセミなのだ、きっと。
同じく愛媛ではあたりまえにいた、ヒュンヒュンヒュン…と美しい声を響かせるカジカガエルが清流にしか棲まないと知っていたから、ヒグラシもそうなのだろうと。
僕はそう結論づけて、この神戸の駅歩5分の住宅街でヒグラシの声を求めるのをやめた。

ところが、その諦めたはずのヒグラシが今夏少なくとも二度鳴いたのだ。
眠れない暑い夜を過ごし、やむなく起き出して、何をするでもなくボンヤリとイスに掛けていたときのことだから、朝5時前だっただろうか。
これは奇跡か幻か!

調べてみると、ヒグラシは沖縄を除く日本全国に分布し、夕よりも朝4時から5時にかけてもっともよく鳴くという。
うそ、この7年まったく声を聴かなかったのに?
清流深山でなくともヒグラシはいるのだ。
ただ、ある程度の木々は必要で、スギやヒノキの林に棲息するらしい。
たしかに愛媛の家は、すぐ目の前に鬱然とした森が広がっていた。

とするとこのコンクリートの多い街で本当にヒグラシが鳴いたのは奇跡に近いのかもしれない。
まだ暗いうち、頼りなげにカナ、カナカナ…と少し鳴いたあと、目覚めた鳥がチッチッと空を渡りはじめたのを最後に鳴き止んでしまった。
以来3日、ヒグラシは一声も鳴かない。

息子にそう話すと、次鳴いたら何時でも起こして!と言われた。
愛媛の山に生まれ育った息子にとって、カナカナカナ…は必要な音なのだ。

僕は朝4時から、いやヘタすると3時半頃から起きて待っている。
ただただもう一度会いたくて。
息子に聞かせてやりたくて。

(2024/8/12記)

チップなどいただけるとは思っていませんが、万一したくてたまらなくなった場合は遠慮なさらずぜひどうぞ!