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何ごとにもなにがしかの理由はあるのだ

先週のnoteは、わりとスムーズに筆が進んだ。
これ書こう、いや明日はあれ書くつもりだからこれは明後日、みたいに。

それがどうだ。
今日は朝4:00に目覚めてからのち、これっぽっちも書けない。
もう9:30を回った。

正確には、書くネタはある。
でも、これ書いてもおもんないやろな、という思いが先に立つ。
なんでこんなこと今日書かなアカンねん、とも。
たぶん先週だと、同じネタでもぐんぐん書いたはずだ。
おもんないならおもろく書いたらえぇねん、と。

つまり今日書けないのは、気分の問題なのだ。
そんな気分は、不定の周期でたびたび訪れる。
それにはどうにもこうにも抗えない。

折しも今日は新聞の休刊日だ。
あまり新聞を読む習慣はないが、毎朝届くものがないのはいささか淋しい。
朝、目覚めて玄関の扉を開け、あ、今日はないんや…と少ししぼむ。

即時性、速報性が肝の新聞に休みがあることにかねがね疑問を持っていた。
もちろん新聞に関わる人たちは1日も休むなと言っているのではない。
交代で休みを取れるのだから、それでよくない?と。
現に、テレビは1日も途切れることなく報道を続けているのだから。

新聞の休刊日には、販売店の慰労の意味もあるという。
その気持ちは分かるが、それにしたって配達員は交代で休むことができる。
うーん、みなが月に一度、一斉に休む意味ってなんだろう。

ただ、輪転機のメンテナンスができるという理由には納得できる。
それはたしかに新聞を制作しない日を設けなければできないことだから。
新聞の制作も多くが電子化されたとはいえ、最終形態が紙に印刷するものである以上、大がかりな輪転機はまだまだ必要で、不意にストップしないためのメンテナンスは最重要事項だろう。

何ごとにもなにがしかの理由はあるのだ。

僕がnoteを書けないと思う日にも理由はあるのだろう。
僕はもちろん輪転機は持っていないが、心身のメンテナンスは必要だ。
明日またよい記事が書けるよう、今日は少しゆっくりと過ごそう。

あ、そうそう、新聞の休刊日は正確に言えば昨日だ。
ここは間違いやすいポイント。
昨日の制作を1日休んだから、昨日の夕刊と今日の朝刊が休みになる。

ちなみに、新聞は夕刊が本編で、朝刊はその続編という位置づけ。
これも間違いやすいポイント。
午前のニュースを当日の夕刊で、午後のニュースを翌日の朝刊で報道する。
ペラッペラの夕刊が本編なんて思わないし、夕刊は取らず朝刊だけの契約にしている人も多いだろう。

今日は書けないから休むということを延々と書いていたら1000字を超えた。
きっと心の奥で今日はこうしたかったのだから、それはそれでまたよしか。

何ごとにもなにがしかの理由はあるのだ。

(2024/7/16記)

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