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その年から年末の居心地が少し悪くなった

今日は赤穂義士の討ち入りの日だ。

とはいえ旧暦の12/14であって新暦でいえば1/30となるから、正確には討ち入りは今日ではないが、年末の風物詩的にドラマ化されることが多いから、やはり今日をその日としておかなくては。
ついでにいうと、討ち入りは12/15未明なのだが、当時は夜明けまでが前日という認識だったから12/14でいい。

播磨の赤穂は、今でいう兵庫県赤穂市。
同じ播磨の、同じ瀬戸内に生まれ育った僕には赤穂はとても身近で、赤穂義士の物語は幼稚園の頃から何度も読んで大好きだった。

吉良上野介のいびりに耐えかねた赤穂藩主・浅野内匠頭が江戸城・松の廊下で刃傷に及び、内匠頭は即日切腹だったのに対し上野介はお咎めなく、1年半後、大石内蔵助以下47士が吉良邸に討ち入って主君の仇を取る――というのが一般的なストーリー。
これは多分に仇討ちを美談としたい当時の脚色だが、少なくとも内蔵助ら赤穂義士が主君の無念を晴らすために討ち入ったことは事実だ。

松の廊下で抜刀した理由について、内匠頭は幕府の聴取に口を閉ざして語らず、その日のうちに切腹して果てたため、真実は闇の中だ。
朝廷の使者の接待役だった内匠頭を、教官役で強欲な上野介が衆目の前で侮蔑したから、と噂されるようになった。
実際、上野介のいびりの被害に遭った大名は多かったようで、ちまたではすでに有名な話だったらしい。

赤穂びいきだった僕には、上野介憎しの感情が幼い頃から植えつけられた。

***

20数年前のこと。
結婚して初めて迎える年末に、テレビではやはり忠臣蔵をやっていた。

稀代の極悪人として描かれる上野介を見て、僕は言う。
「このおっさん、ホンマどないにもならへんな」
もちろんかみさんからはこう返ってくると思っていた。
「ホンマホンマ、こいつアカンわ」

しかし実際に返ってきた言葉を聞いて、わが耳を疑った。
「ううん、吉良さんは領民思いのいい領主だったでしょ」

な、なんですと? 今、何言わはりました?

そうだった、かみさんは愛知県出身だった。
しかも吉良家の出自と同じ三河の出身。
三河では、上野介は領民から愛された立派な領主だったとされる。
それはすべて上野介の名誉回復を願う地元の創作だが、三河ではその創作に基づいた歴史教育がなされているらしい。

播磨 vs 三河。
その年から年末の居心地が少し悪くなった。

(2022/12/14記)

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